この世には、生まれながらにして満たされている人間がいる。

お嬢様OL・奥田梨子も、そのひとり。

実家は本郷。小学校から大学まで有名私立に通い、親のコネで法律事務所に就職。

愛くるしい容姿を持ち、裕福な家庭で甘やかされて育ってきた。

しかし、時の流れに身を任せ、気づけば31歳。

「今の私は…彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ。どうにかしなきゃ」

はたして梨子は、幸せになれるのか―?

◆これまでのあらすじ
結婚式準備に忙しい日々を過ごす梨子。婚約者のアンドリューとわかりあえてないのではないか、というジレンマがぬぐいきれない。話し合いを試みるが、決裂に終わり、2人は結局別れを選んだのだった。

▶前回:ブライダルフェアの直後、彼と修羅場に…。女が許せなかった、彼の行動とは?




アンドリューこと安藤との別れは、あっさりとしたものだった。

婚約破棄については、それぞれが互いの両親に説明。すでに予約してしまっているブライダルフェアのキャンセルは、梨子が責任をもって行うことになった。

それらのやりとりもすべてLINEで行い、以降2人は連絡をとっていない。

プレゼントされたショパールのネックレスは、安藤の家に郵送したものの、受け取り拒否で戻ってきてしまった。

梨子は、最初こそ1人の週末を楽しんでいたが、数週間も経つと虚無感ばかりがつのる。

― ああ、毎週末がむなしく過ぎていくわ。

土曜日の夕方。

ベッドにごろんと横たわっている梨子は、数週間前の修羅場を思い返す。



「私、安藤先輩とはお別れしたの。結婚はしない」

安藤と別れた日の夜、両親がそろっているときに、梨子は婚約破棄の話を切り出した。

母の梨絵は、『うそでしょう…』と絶句し、父はリビングのソファに深く座って腕を組んだまま、地蔵のように固まっていた。

「で、私、転職しようと思う。自分の夢について考えて、仕事を選んでみたい」

父があんぐりと口を開けて静止する。

「梨子ちゃん、転職は置いておいて…婚約破棄ってどういうことかわかってる?」

母がヒステリックに叫び出した。

「一度添い遂げると決めた人と、『やっぱり結婚やめます』って…結婚はお仕事みたいに気楽なものじゃないのよ!」

父が何か言いたげにしたが、母の剣幕に再び押し黙る。

「お母さんは、梨子ちゃんを見損なったわ…梨子ちゃんが幸せになれるように、お母さん、一生懸命頑張ってきたのに」

「お母さん、聞いて」

梨子は母に説明しようと言葉をつくしたが、すべては空振りに終わってしまった。

リビングには、母のすすり泣きだけがしばらく響いていた。


ずっと押し黙っていた父が、口火を切った。

「梨子の話はわかった。婚約破棄も転職も、よく考えた上での結論なんだね」

梨子がうなずくと、ため息交じりの笑いをもらして、父は続ける。

「梨子には悲しい思いをしてほしくなくて、ついついなんでも手助けしていたけど、いつの間にか大人になっていたんだな」

梨子は父の寂しげな表情に胸が苦しくなった。

「お父さん、ごめんなさい」

「梨子が謝ることじゃないよ。お父さんたちが現実から目を背けていたんだ。かわいい娘がそばにいて、ずっとこんな時間が続けば良いと思って」

梨子が返す言葉を探していると、父が微笑んだ。

「やってみなさい。ただ、ここから先は手助けできないし、『やっぱりやめます』もナシだからな」

梨子の目から涙がぽろりとこぼれた。

「お父さん、ありがとう。私、頑張る」

涙を慌てて指で拭うと、梨子は力強く答えた。






週末を持て余している梨子はベッドに横たわったまま、考える。

安藤との婚約破棄を報告した夜以来、母は、梨子がリビングに来ると逃げるようにキッチンへと入ってしまう。

― お母さんとこんなに長い間話さないのなんて、初めてだわ。

正直なところ、安藤との別れの傷は、とっくに癒えていた。

しかし自分の人生に起こったドラマのような出来事を、ただ笑って聞いてくれる人がほしい。

― 誰かに私の話を聞いてほしい。

梨子は、LINEアプリを開く。

紀香とのトーク画面をタップしてみると、『私、安藤梨子になります♡』のメッセージが、送信されないまま残っていた。

― そういえば紀香、私が婚約したことすらまだ知らないんだったわ。

自嘲気味に笑うと、梨子はLINEアプリを閉じかけたが、思い立って別のトーク画面を開き、通話ボタンを押した。

しばらくの間、呼び出し音がなり続け、もう切ろうとスマホを耳から話したとき、聞きなれた声が梨子の耳に届いた。

「もしもし、突然電話なんて、どうしたんですか?」




「陸斗くん、勉強で忙しいのに電話なんてしてごめんね。どうしても笑い飛ばしてほしい話があって」

梨子がおずおずと切り出すと、しばらく沈黙した後、陸斗が言った。

「会社帰りに行くいつものバー、土曜日もハッピーアワーやっているみたいです。そこで待っています」



バーに着くと、陸斗はすでにカウンターでハイボールグラスを傾けていた。

「急に呼び出してすみません。いや、電話したのは奥田さんだから、呼び出されたのは僕か」

そう言うと、再びグラスのハイボールをあおる。

「僕、もうほろ酔いになったので、奥田さんの話に笑う準備はできています」

「そう?私、数週間前に婚約したんだけど…そのあとすぐ婚約破棄したの」

梨子は驚きでむせ返る陸斗の背中をさする。自分の分もハイボールを注文すると、安藤からのプロポーズと別れについて話した。


「…というわけで、今は彼ナシ、夢ナシ、貯金ナシのナシ子に逆もどりよ、私」

梨子はつとめて明るく話を締めくくる。

陸斗は数秒間黙った後、深く息をついて言った。

「人生の目標を失った悲壮感が、明るさの陰にがっつり出てますね」

「やっぱり?私、なんにも持っていないのに、もうすぐ32歳だよ」

「ああ、そうですよね…よし、今日は僕がごちそうします。とことん飲みましょう!」

陸斗の明るいかけ声に、梨子は再びハイボールを頼む。

2人は、ハッピーアワーの終わり時間も忘れてグラスを何杯も空けた。



「あー、酔った!陸斗くん、歩ける?」

梨子と陸斗は、酔いをさまそうと、夜道をふらふらと歩いた。

「私がこの数ヶ月でやったこと、教えてあげる!仕事のチャンスを自らふいにして、勘違いで失恋して、挙げ句の果てに婚約破棄」

梨子はやぶれかぶれに続けた。

「人生『アリ』にしたくて頑張ったけど、なにもいいことなかったよー!」

人がいないのを良いことに、梨子が叫ぶと、陸斗が後ろをついて歩きながら言う。

「何ひとつうまくいかないときって必ずありますよ。でも…奥田さんは、どんな時も僕には丁寧に仕事を教えてくれていました」

梨子は思わず足を止めて振り返る。




「少なくとも僕は…奥田さんの底抜けに明るくて優しいところ、尊敬していますよ」

「あ…ありがとう」

陸斗の真面目な表情に驚きながらお礼を言うと、一歩、二歩、陸斗が梨子に近づいてきた。

陸斗の両手が、肩に置かれるのを感じると、梨子は酔った頭で必死に考えた。

― この表情、この距離感…もしかしてリッ…陸斗くん!?

梨子の予想どおり、陸斗の顔が近づいてくる。

思わず目を閉じると、あたたかい陸斗の唇が自分の唇に触れた。

陸斗は唇をぱっと離すと、しどろもどろに何か言ったが、パニックに陥った梨子は全く聞き取れなかった。

「お先に失礼します!…また会社で!」

梨子はそう叫ぶと、踵を返し、千鳥足でジグザグに走りながら陸斗のそばから逃げ出した。




「おはようございまーす」

月曜日、びくびくしながら梨子が出社すると、すでに仕事を始めていた陸斗がこちらを見た。

「土曜日、飲みすぎちゃってさあ、ほんと記憶ないんだよね。ははっ」

梨子がわざとらしく話しかけると、陸斗が何かを察したのか「そうですか」と短く答えて仕事に戻った。

キスしてしまったのは酔った勢い、と結論を出した梨子は、陸斗には今まで通り同僚として接することにした。

― さあ、ナシ子はナシ子なりに頑張るわよ!貯金もゼロになっちゃったし、しっかり働かないと。

貯金がゼロになったのは、昨日、母に誕生日プレゼントを買ったからだ。

ハイヒールでありながら、走れるぐらいの軽やかさを持つマノロブラニクのBBパンプス。

母の人生は、31年間、梨子を中心に回ってきた。これからはこの軽やかな靴で、好きなところへ行ってほしいという願いを込めた。

「きれいな靴…」

手渡すと、母はそうつぶやきつつ、「でも梨子ちゃんとお母さんはサイズが違うんだから一緒に履けないじゃない」とキッチンにこもってしまったのだが。

― お母さん、いつか笑って話せるように、私は私らしく頑張るね。

彼ナシ、夢ナシ、貯金ゼロでも、梨子はどこかすがすがしい気持ちだった。



― 1年後 ―

梨子が見上げた大空は、雲一つない快晴だった。

― ついにこの日が来ちゃった。

スーツ姿の梨子は、羽田空港の国内線ターミナルに着くと、大きく深呼吸をして一歩を踏み出した。

▶前回:ブライダルフェアの直後、彼と修羅場に…。女が許せなかった、彼の行動とは?

▶1話目はこちら:「彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ」31歳・お嬢様OLが直面した現実

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彼ナシ、夢ナシ、貯金はゼロ。お嬢様OLの1年後は…?