日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第17回
「運」をつかんだ男が躍動した熱狂の日韓W杯〜戸田和幸(2)

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 2002年6月4日、日本の初戦となるベルギー戦が始まった。

 0−0で迎えた後半12分、ベルギーに先制を許したものの、その2分後に日本も同点に追いつく。小野伸二からのパスを鈴木隆行がつま先でゴールを決めた。さらに後半22分、稲本潤一の逆転ゴールで試合をひっくり返した。

 その直後、トルシエジャパンの代名詞でもある「フラット3」の中央を務めていた森岡隆三が負傷し、宮本恒靖と交代した。しばらくして、「フラット3」の前でボランチを務める戸田和幸は、最終ラインの動きに違いを感じた。


トルシエ監督の代名詞「フラット3」について語る戸田和幸氏

「この交代で最終ラインの設定の高さが変わったんです。隆三さんはリスクをとれる人なので、大胆なプッシュアップがあり、自分が前に出ていく時は隆三さんも同じスピードで(ラインを上げて)ついてきてくれるので、(自分の)背後に生まれるスペースは(一定して)変わらなかったんです。

 一方で、恒さんは慎重なタイプなので、僕らが前に出た時、うしろ(フラット3)との空間がやや広がった感があった。その分、前に出た時、(自分たちが)うしろに戻る距離が少し伸びたんです」

 後半30分、日本は押し上げた最終ラインの背後をとられて同点弾を叩き込まれた。一見、最終ラインの選手交代によるラインの上げ下げの違いが影響したように思えたが、戸田はそこに因果関係はないと感じていた。それよりも、オフサイドトラップに問題があったと戸田は分析していたからだ。

「ベルギー戦後、最終ラインのメンバーを含めて集まった時、僕が話したのは『ペナルティーボックス内でのオフサイドトラップはないよね』ってこと。ボックス内に入ったボールに対しては、オフサイドをアピールするよりも相手にアタックしないといけない。最後はシューターに対して寄せていかないといけない。そこは明確にしないといけないと思い、言わせてもらいました」

 2失点目のシーンをビデオ映像で見直してみると、オフサイドをアピールする選手はいるものの、2列目から飛び出してきた相手についていく選手はいなかった。やるべきことを怠れば、"世界"はいとも簡単にゴールを決めてくる。勝ち点1にとどまったことは、最終ラインの選手たちにとっては"いい薬"になった。

 続くロシア戦は、歴史に残る一戦となった。

 両チームの気迫と気持ちが衝突し、ヒリヒリとした緊張感が漂うなかで時間がすぎていった。そうした状況にあっても、チーム内に「勝つぞ」という思いが満ちていることを戸田は感じていた。

「それまでにW杯で開催国がグループリーグで敗退することはなかったですし、日本はW杯で勝利を挙げたことがないので、どうしても負けられなかった。やっぱり開催国が勝ち進んでいかないと、W杯自体が盛り上がらないですからね。『自分たちが初勝利を挙げるんだ』『歴史を作るんだ』という気持ちで、みんな一体となって戦っていました」

 膠着した状況のなか、後半5分、中田浩二のグラウンダーのパスを柳沢敦がダイレクトで左手前にいた稲本につなぎ、稲本がそのままゴールネットを揺らした。

 ボランチの稲本がそこまで上がっていることはなかなか考えられないが、パートナーを組む戸田との関係性があったからこそ生まれたゴールと言ってもいい。戸田の言葉を借りれば、「メインの選手である稲本の個性を生かすため、自分はうしろを請け負った」ということだ。稲本の魅力は前への推進力であり、攻撃力だが、戸田がその力を存分に引き出した。

 ロシア戦後、稲本もこう語っている。

「戸田さんがいるんで、自分は安心して前に行けた」

「稲本に、そう言ってもらえたのならよかったです。僕もそのつもりでプレーしていたので。稲本とはプレーしている時や食事の時に話をすることはありましたけど、(代表合宿中の)宿舎などでじっくり話すことはなかったですし、外で一緒に飯を食べに行くなんてこともなった。

 でも、それでいいんですよ。自分はプロサッカー選手として生き残るためにやってきているので、代表で友人を作りにきているわけじゃないですし、友人がいなくてもいいんです。いい仕事をして、自分も含めて(チームが)いい評価を受けて、レベルアップしたいと思っていた。そのためには、周囲の選手の特徴を理解して、それをいかに発揮させるかを常に考えていました」

 稲本が日韓W杯でラッキーボーイ的な選手になれたのは、個人の力はもちろんだが、陰ながら支えるチームメイトの存在があったのは間違いない。

 日本は先制したあと、守りを固めた。ベルギー戦の失点の反省も踏まえて、攻め込まれた時には無理にラインを上げず、引いて守った。ギリギリのオフサイドトラップも国際試合では危険であることを選手間で共通認識しており、あまりリスクを負わずに慎重にプレーした。

 だが、守りに転じる時間が長くなればなるほど、戸田の仕事量は増していった。

「ロシア戦はキツかったです。相手に狙いを定めてビュンと行くのを連続していたので、感覚的にはずっとダッシュをしている感じです。運動量と運動強度を求められ、一瞬も気を抜けない。自分を越えられてしまうと、うしろは3枚しかいないんで、とにかく止めないといけない。『まだ終わんねぇのか』『早く終われ』って思ってましたもん」

 日本は押し込まれる展開になりながらも、ロシアの攻撃を跳ね返していた。戸田も体を投げ出して、ゴール前のグラウンダーのクロスをクリアするなど必死だった。

「後半は(相手に)押し込まれて(ラインの裏に)抜け出されたりして、結構際どいシーンもあったんですけど、ナラさん(楢崎正剛)がうまくセーブしてくれた。とにかく、W杯の初勝利に、グループリーグ突破と『自分たちが成し遂げるんだ』って、パワーと気持ちが(相手より)勝っていた。だからみんな、キツかったけど、最後まで走ることができたんじゃないかなと思います」

 結局、日本は1−0でロシアを退けた。歴史的な勝利を飾ると、勝ち点を4としてグループ首位に立った。


体を張ってロシアの攻撃を封じていた戸田。photo by REUTERS/AFLO

 続くチュニジア戦も日本は2−0と快勝。グループリーグをトップで通過した。戸田も3試合連続のフル出場を果たし、チームの決勝トーナメント進出に貢献した。しかし、戸田が喜びに浸ることはなかった。どちらと言えば、モヤモヤとした気持ちのほうが強かった。

「稲本や(小野)伸二とかは、僕より2つ年下なんですが、そういう若くて才能がある選手のなかに自分がいることがしっくりこなかったんです。なぜかというと、やっぱりエリートとそうじゃない選手との差、レベルの差みたいなものを感じたからじゃないですかね。

 だから、W杯中も楽しいとか思ったことがないし、ピリピリしていました。その状態を保っていないと、練習すらまともにプレーできないんじゃないかって思ったからです。ちょっとでも気を抜くと(メンバーから)落っこちてしまいそうなので、W杯の間も一生懸命に自分を駆り立てていました」

 試合や練習ではピリピリしていたが、宿舎に戻り、自分の部屋に戻ると息を抜いた。もともと一匹狼的なところがあり、群れたりするのが好きではない。外ではがむしゃらに戦う分、自分の部屋では本を読んだりして、心を落ち着かせた。そうした時間を作ることで、心身のバランスをうまくとっていた。

 グループリーグを突破したチームのムードはさらによくなっていた。そうした空気感を作り上げていたのは、中山雅史や秋田豊だった。

「中山さんたちは(周囲からは)ベテラン枠とか言われていましたけど、僕は経験だけで選ばれたわけじゃないと思っています。実際、ふたりからは『オレは試合に出ないから』といった雰囲気はまったく感じられず、ふたりとも明るく全力でトレーニングに取り組んでいましたから。

 あのチームの全員が、お互いをリスペクトし、切磋琢磨して、目標に向かってひとつになっていた。試合に出る、出られないとかあるけれど、(チーム内には)『そんな小さいこと言ってんじゃねーよ』みたいな雰囲気があって、個人の感情が入る余地は一切なかったです」

 日本国内はW杯景気で異常な盛り上がりを見せ、日本代表の奮闘は社会現象になっていた。ワイドショーでも連日日本代表の話題が取り上げられ、戸田の実家にもあらゆるメディアが詰めかけるようになった。まさにW杯という未曽有の嵐が列島に吹き荒れていたが、静岡県磐田市に宿舎を構えて外部をシャットアウトした環境で過ごしていた日本代表の面々は、外の喧騒にはほとんど気づかずにいた。

「僕らは台風の目のど真ん中にいたので、国内がどうなっているのかさっぱりわからなかった」

 日本中がW杯一色になるなか、グループリーグを突破した16チームによる決勝トーナメントが始まった。その初戦、日本の相手はトルコだった。

 日本の1位通過は想定されていなかったのか、試合会場は移動が大変な宮城だった。日本代表は静岡から名古屋に出て、飛行機で宮城に向かった。

 雨の宮城スタジアム。試合前のミーティングが始まった。トルシエ監督はスタメンを発表すると、その場はざわついた。チーム編成において、それまでほとんど動くことがなかったトルシエ監督が、大胆に動いたのである。

(つづく)

戸田和幸(とだ・かずゆき)
1977年12月30日生まれ。神奈川県出身。桐蔭学園高を卒業後、清水エスパルス入り。主力選手として活躍した。各世代別代表でも奮闘し、1993年U−17世界選手権、1997年ワールドユースに出場。2001年には日本代表入りを果たし、2002年W杯に出場した。W杯後は海外へ。イングランドのトッテナム、オランダのデン・ハーグでプレー。2004年に古巣の清水に復帰するも、2005年には東京ヴェルディに移籍。以降、サンフレッチェ広島、ジェフユナイテッド千葉などでプレーし、2013年シーズン限りで現役を引退。現在は、東京都社会人リーグのSHIBUYA CITY FCのテクニカルダイレクター兼コーチを務める。