5日放送、日本テレビ「あのニュースで得する人損する人」では、「元人気プロ野球選手が壮絶半生を告白 余命1ヵ月の妻・・・戦力外通告・・・農業を始めた理由」と題し、1990年代後半、巨人の中継ぎエースとして活躍した河野博文氏をフィーチャーした。

52歳になった現在、群馬県・高崎市で農業を営む河野氏は「自分のニックネームで付けたげんちゃん玉ねぎ」という自慢の玉ねぎを丸かじりしてみせる。

そんな河野氏は、1991年に大学時代の友人だった広子さんと結婚、二人の子供にめぐまれたが、1999年に巨人から戦力外通告を受けると翌年ロッテに移籍するも1年で引退。この時の様子を「収入もなくなるし、どうしようかなっていうのは考えていました。今まで野球以外やったことないので、なかなか他の仕事に就くのが難しい」と振り返った。

それでも妻のツテで就職。「今まであまり(家に)いなかったので皆と居る時間が長くなった。(家族で)色々ご飯食べにいったりというのが増えた」という幸せな生活が訪れたかに見えたが、就職から3年、広子さんに乳がんが発覚。手術を行うも抗がん剤による副作用は、河野氏も「苦しむ姿を見るのが一番辛かった」と語るほどだった。

広子さんが日常生活を送れるほどに回復を見せると、河野氏のもとには群馬ダイヤモンドペガサスからコーチのオファーが舞い込んだ。広子さんのこともありこれを断ろうとするも、「本当は野球やりたいんでしょ?」という妻の後押しで単身群馬に移り住むと、チームを地区優勝に導くまでに尽力した。

だが、順調に見えた生活は再びどん底へと転落する。医師から連絡を貰った河野氏は広子さんが余命1ヶ月であることを告げられたのだ。「それが最初なんですけど。そん時はビックリというか、真っ白になりますよね」。がんが腎臓に転移するも、野球に打ち込む河野氏にそのことを黙っていた広子さんは、結局41歳の若さで亡くなった。

「何も最後の会話が出来なかった。何を言っても彼女は分からない状態だった」と悔やむ河野氏は資金難によりチームも解雇され、一時は自暴自棄に。それでも広子さんが残された自分のために貯金していたことを知ると、いつも自分の体を心配してくれた妻のことを思い出し、農業への想いが募る。

貯金で遣り繰りしながら知り合いのタマネギ農家で修業をはじめるようになった河野氏。今では、玉ねぎをふんだんに使った「げんちゃん餃子」など人気の商品も。「最初は研修にいって。何も分からなかった。見よう見まね」と振り返った河野氏は、「残りの人生も続けて行く。妻の恩返しになるんじゃないかと思ってます」と笑顔を見せた。