3戦全敗で勝ち点「1」を獲得できずに終わった北京五輪。その代表として戦った内田篤人は、北京から帰国した際にこう話した。「久しぶりに五輪の合宿に合流して、アレ?って思った」と。

 北京五輪アジア予選を突破すると、五輪代表以上に、A代表での活動時間が増えた内田。6月のW杯アジア予選での戦いでは、経験のある先輩達から様々なことを学び吸収していった。

 短時間で「チームの戦い方」を構築するために、選手間で積極的なコミュニケーションを行い、試合に向けてのモティベーションコントロールの準備に取り掛かる。さらに試合後はゲーム内容の修正を施す会話を再び行う……。文字通り日本トップクラスと同じ時間を過ごしたのだから、弱冠20歳の内田が受けた刺激は小さくはなかった。

 しかし、A代表では当たり前に行われていた行動が、五輪代表にはなかった。「自分がなんとかしなければ……」との思いも浮かんだが、「年下」という自身の立場を超える勇気がなく、行動に移せなかった。

「妙に落ち着いていたね。緊張するとかってことよりも、『どうしても勝ちたい』ということしか考えてなかったから」と代表デビュー戦について振り返る内田には、いつもどっしりとした落ち着きが漂っている。初々しさよりもいい意味でのふてぶてしさがあり、メンタルの強さが彼の武器だ。

 ルーキーデビューを飾った選手は、無名の1年目以上に2年目で苦労する。相手チームに研究され、なかなか思うようなプレーが出来ず、悩み、考えすぎて、持ち味を発揮できず、消極的なプレーをし、存在感が薄れていく……という過程をたどる選手は少なくない。

 内田もまた、2年目は得意の突破力が生かせない場面が増えた。しかし彼は突破を躊躇することはなかった。「自分で行くプレーが読まれていると思ったから、今度は味方を使っていこうと考えた」と話し実行。自然とプレー幅が広がった。冷静に自分を分析判断し、決断を下す。彼の強さを痛感したエピソードだった。

「北京で初戦を落としたときは、『次、頑張ればいいんだ』と考えていたし、信じていた。でも振り返ってみると、やっぱりあのとき初戦で勝てなかったことが大きかったと感じる。」

 当然、短期決戦と長期間の戦いと、北京とワールドカップ最終予選とでは大会方式は違うが、その大事な初戦が9月6日に控えている。相手は3次予選でも対戦したバーレーン。3月のアウェー戦での敗戦を内田はマナマのスタジアムのスタンドで見ていた。「アジアチャンピオンズリーグの試合もあったし、あの時は本当に疲れきっていて、自分の身体じゃないみたいだったね」と、2月にA代表デビューした直後だったこともあり、心身ともに大きな疲労感を抱いていたようだ。

「あの時に比べると、A代表にいても妙に緊張することもないし、余裕が生まれたかもしれない。でもこの余裕っていうのが厄介なんだよね。人は余裕があると休もうとしてしまうから(笑)。余裕があるっていうのもどうなんだろうね」

 以前は「妙に余裕のあるところ」が自身の武器だとも公言していた内田の中で何か変化が生じたのだろうか?日本全国の人々の注目や期待を集めながらも勝ち点1すら手にできなかった北京五輪。その経験が彼に与えた影響も大きかったはずだ。

「本当にたくさんの人が応援してくれた。高校時代のクラスメートからも動画で応援メッセージを送ってくれたりね。でもそんな人達をとてもがっかりさせてしまったのは残念だったし、悔いが残るよね」

 07年のワールドユースに続き、2度目の世界大会での屈辱。彼の中に生まれた“悔い”は、代表としての誇りや責任という“使命感”を新たに抱くきっかけでもあったはずだ。「僕にはもうこの代表しか残ってない」はっきりと、そしてきっぱりと、強く言った内田篤人。未体験のアジア最終予選でも多くを学び、さらに成長するだろう。

「僕は食べ盛り、伸び盛り、遊び盛りだからね……いや遊び盛りっていうとこ、突っ込むところですよ。こう見えて僕は、出不精なんだからさ(笑)」

 何も知らないからこその余裕、強さに期待したい。


text by 寺野典子