息子さんが誕生して112日後に、最愛の妻を亡くしたフリーアナウンサーの清水健さん。今も「正解がわからない」という闘病の日々と、家族3人の思い出を話してくださいました。(全2回中の1回)

【写真】「涙が止まらない」29歳で亡くなった奥さんの結婚記念写真や闘病中のマタニティフォトなど(全11枚)

妊婦検診で念のために受けた検査で乳がんが見つかった

清水健さんと妻の奈緒さん

── はじめに、お二人が出会われたきっかけを教えてください。

清水さん:妻と出会ったのは、読売テレビ『かんさい情報ネットten.』という夕方の報道番組にキャスターとして出演していたころです。キャスターとしての責任感、プレッシャー、時には周りが見えなくなってしまうほど毎日、必死だった僕を、妻はスタイリストとして支えてくれました。約2年の交際を経て、2013年5月に結婚。結婚生活は、2015年2月、妻が乳がんで、僕たちの隣からいなくなってしまうまでの1年9か月でした。

── 病気がわかったのはいつごろですか。

清水さん:結婚して1年がたったころです。妊婦検診で、胸にしこりがあることを妻が産婦人科の先生に相談したとき、念のために検査を勧められたんです。妻は当時28歳。乳がんかもしれないなんて、正直まったく想像なんてしていなかったです。

検査の結果は、乳がん。治療方法も限られる「トリプルネガティブ」だとわかりました。調べてみると、予後も決して良いわけではないタイプの乳がん。僕は、自分自身にいまの状況を納得させたいために、時間を見つけては、名医と言われる先生にも会いに日本全国を飛び回りました。いま思うと、新しい病院へ行くたびに検査を受けなきゃいけない妻は大変だったと思います。でも、妻は何も言わずに着いてきてくれ、逆に僕に「大丈夫だよ」と声をかけてくれていました。

結婚式の記念ショット

── 出産は無事に?

清水さん:2014年10月に、帝王切開で元気な男の子が産まれてきてくれました。その1週間後、妻が腰の痛みを訴えました。出産前に、皮下乳腺全摘手術を受けていましたが、MRIとCT検査の結果、肝転移、骨転移、骨髄転移が見つかり、「余命1か月」と宣告されました。

本人に詳しい病状は伝えませんでしたが、自分の体のことは自分でよくわかっていたと思います。不安だったと思うし、体もしんどかったと思う。それでも妻は、決して僕の前で弱音や涙を見せることはありませんでした。抗がん剤の副作用で、39度以上の熱が出ても、話すことができないほど口内炎ができても、「しんどい」とは言わなかった。僕の前で自分が泣いたりしんどい顔をしたりすれば心配をかけてしまう。そう思って笑顔でいてくれたんだと思います。

妊娠中にがんが見つかった

── 強い方ですね。

清水さん:強かったのかな?不安だったと思うし、怖くもあったと思います。妻に強くいさせてしまっていたのは、僕なんですよね。妻は、心配かけちゃいけない、自分の病気が負担になってはいけない、とムリをして、強くいてくれたんだと思います。僕たち夫婦は、弱音をあえてお互いに言葉にはせず、病と向き合っていました。

いま思うと、妻の悩みや苦しみをもっと素直に出させてあげられるパートナーだったらよかったのかもしれない。お互いに「しんどいよね」「不安だよね」と言いあればよかったのかもしれない。どう病と向き合うべきだったのか、何が良かったのか、いまだにわからないことだらけです。もう本人に聞くことはできないので。僕自身は、その妻の強さ、優しさに甘えてしまっていたと思います。僕は妻に寄り添うことができていたんだろうか。僕は妻を支えることができていたんだろうか。妻がいなくなって9年が過ぎますが、一生答えは出ないんだろうなと思います。

家族3人で竹富島へ初めての旅行

元気な赤ちゃんを無事出産

── 赤ちゃんのお世話はどうされていたのですか。

清水さん:周りのサポートがなければできませんでした。僕の母や姉、妻の家族がサポートしてくれていたから、僕は仕事をすることができましたし、病室で妻と息子と3人の時間を過ごすことができました。

息子が生後2か月を迎えた年末年始に、3人で旅行に行くことができたんです。行き先は、僕が取材で訪れたことのある竹富島。「3人で旅行ができたらいいね」というのが、いつからか僕たちの目標になっていて、抗がん剤治療の副作用で高熱や口内炎が出て、直前まで体調はよくなかったのですが、「行きたいな」と言う妻の言葉に、主治医の先生が多くのアドバイスをしてくださり「行っておいで」と背中を押してくれました。

いま思うと、妻は旅行をしたかったというより、きっと、母親として「普通」のことがしたかったんだと思います。出発する空港でベビーカーを押している妻の写真があります。うれしそうな表情をしているし、母親として誇らしい表情もしている。出産後、1週間で転移がわかってしまって、妻がゆっくりベビーカーを押すことができたのはそのときが初めて。「ごめんね、まだまだ子育てできていないよね」と妻はいつも話していたので、3人で出かけることができたことが本当にうれしかったんだと思います。

骨転移もあり、立つのも歩くのもしんどい状況だったのに、竹富島では息子を抱っこして笑顔で歩いてくれました。笑顔の写真が家にはたくさんあります。あのとき、妻が笑顔で過ごしてくれたことは、今の僕たちの大きな救いになっています。

竹富島へ家族旅行

── 病状が進み、つらい決断をされた場面もあったのでは。

清水さん:決めたくなくても決めなくちゃいけない場面がたくさんありました。1月の終わりころ「もう抗がん剤は打てない」と診断され、2月初め、妻が初めて「しんどい」「痛い」という言葉を口にしました。痛みを取るには、医療用麻薬とステロイドを打つしかない。でも、投与すると意識がなくなってしまうこともあるかもしれないとの説明を受けました。「どうしますか、痛みを取ってあげますか」。僕が決断しなければいけない。妻にも聞けばよかったのかもしれないですが、隣で苦しそうにしている妻に僕は聞くことができなかった。

痛みを取ってあげる選択をしましたが、もしかしたら、妻は「まだまだ頑張れる」と思っていたかもしれないですよね。いまでも何が正解だったのかはわかりません。僕はこれからもこうやって「わからない」ということを言い続けていくんだと思います。でも、いつか、自分たちが選んだ道を正解にしていければと思っています。

体重が20キロ減り、テレビ局を退社

竹富島での写真が心の支えに…

── 仕事と育児の両立はどのようにされていたのですか。

清水さん:番組には、妻が亡くなり2週間ほどで復帰させてもらいました。会社の理解はありがたく「無理はしなくていい」と話してくださっていました。ただ、自分のなかで「こうありたい」「こうしなければ」という思いが強かった。朝8時に出社して、午後4時47分からの番組に出演後は反省会、夜8時に帰宅するという生活でした。いま思うと「弱い自分を見せたくない」と自分で勝手に変な鎧をつけてしまい、僕なりのキャスター像が、逆に視聴者の皆様や仲間にも心配をかけてしまっていたように思います。

父親としても、自分で勝手に空回りしていました。ひとりでできるわけなんてないのに。当然のことですが、仕事も子育ても100%で向き合いたい。気がついたら体重が20キロも減っていて。あるとき帰宅して、当時3歳だった息子を抱き上げたら、ふらついてしまったんです。そのとき「この姿を見て、誰が喜ぶんだろう」と。このままじゃいけない。あの時の僕の心は普通ではなかったと思います。多くの方が協力してくださっているにも関わらず、わがままを言わせてもらって、いったん、テレビの世界から距離を置く選択をしました。

誰のせいでもない。勝手に自分がいっぱいいっぱいになっていました。父親としてもキャスターとしても。でも、いま、できないことは「できない」「助けて」と言えるようになった自分がいます。自分の弱さを受け入れられているカッコ悪い自分がいます。

PROFILE 清水 健さん

しみず・けん。元読売テレビアナウンサー。夕方の報道番組のメインキャスターを務め、現在はフリーアナウンサーとして活動。著書に『112日間のママ』(小学館)ほか。

取材・文/林優子 写真提供/清水健