江東区にあった「清砂通アパート」、1号館外観。中央の屋上には王冠のような塔屋があった。東京大空襲では炎に包まれたが鉄筋コンクリートの躯体は残り、2002年まで住宅として使用された
 明治以降、日本は欧米の様式と技術を急速に取り込み、数多くの絢爛豪華な近代建築を建てたが、取り壊されもう二度と見ることができなくなったものも少なくありません。

 なかでも、日本の住まいを一気に近代化した時代を超越したおしゃれな集合住宅として多くの人の記憶に残る存在なのが「同潤会アパートメント」。

 その大正ロマンあふれるモダンな姿を、『もう二度と見ることができない幻の名作レトロ建築』の著者で、これまで2500棟余りの近代建築を撮影してきた建築写真家・伊藤隆之さんに振り返ってもらいました。

◆庶民の新しいライフスタイルを提示した個性的なアパートメント

 かつて東京と横浜の各地に、まるでヨーロッパのアパートのようなレトロでモダンな集合住宅が建っていた。これらは、「同潤会」という組織が建てた集合住宅で「同潤会アパートメント」と呼ばれていた。現在、表参道ヒルズが建つ場所に建ち並んでいて、表参道のランドマークとなっていた「青山アパート」を覚えている人も多いのではないだろうか。

〈青山アパート〉
Architect Data
・所在地:東京都渋谷区神宮前
・設計:同潤会建設部建設課
・施工:神谷太一郎
・竣工年:大正15年〜昭和2年(1926−1927)
・解体年:平成16年(2004)

◆関東大震災の被災者への住宅共有が目的の不燃化アパートメント

 同潤会は、関東大震災後の被災者の住宅供給を目的に設立された内務省管轄の財団法人で、国内外から寄せられた義援金1,000万円を拠出して、震災の翌年に設立された。

 木造家屋の分譲住宅を20カ所建設したほか、鉄筋コンクリートによる不燃化のアパートメントを東京に13地区、横浜に2地区建設。アパートだけで4,461戸を供給した。これがよく知られる「同潤会アパートメント」だ。

 このアパート群の設計の中心となったのが、同潤会の理事のひとりで東京帝国大学建築学科の教授だった内田祥三(よしかず)だ。彼は研究室の教え子たちの力を借りて、同潤会最初のアパートである中之郷アパート(大正14年完成)を皮切りに次々とアパートを建設した。

◆同潤会アパートの多くは東側の下町に集中

 都内に建てられた同潤会アパートの分布図を見ると、その多くは東側の下町に集中している。木造住宅が密集していたこの地区は震災の甚大な被害を受けていたからだ。

 下町にあった同潤会アパートのなかには、東京大空襲で内部が全焼した住棟も少なくなかった。清砂通アパートでも空襲によって多くの住人が犠牲になったという。

 清砂通アパート1号館には優雅なラインを描いた螺旋階段があったが、そこの手すりに付いているはずの笠木がなかった。笠木とは手すりなどの上部にかぶさる仕上げ材だが、木製だったので燃えてしまったのである。

〈清砂通(きよすなどおり)アパート〉
Architect Data
・所在地:東京都江東区白河、三好
・設計:同潤会建設部建設課
・施工:大林組
・竣工年:昭和2年〜昭和4年(1927‐1929)
・解体年:平成14年(2002)

◆女性専用の「大塚女子アパート」など、新しいライフスタイルを提案した

 その下町地区の大規模な計画として完成したのが清砂通アパートだった。2地区に16棟の住棟、663戸という規模は同潤会アパートで最大だった。

 一方、街路樹に沿って住棟が並び、表参道の景観構成に寄与していた青山アパートは、主に中流階級のサラリーマンや大学教授、役人などが入居した高級アパートだった。

 大塚女子アパートは女性専用で、当時増え始めた働く女性が安心して都市生活を営むことを目的に建てられた。昭和史を語る貴重な歴史遺産である同潤会アパートメントだったが、いまは1棟も残っていない。