週1で女の家に行くけど、何もしない29歳男。曖昧な関係が5ヶ月続いたあと意外な展開に
愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。
そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。
ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。
今宵も、ボトルの前に男と女がいる。
長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。
▶前回：「私が出すよ」年下彼氏とのデート。女が毎回支払いをしていたら、男が突然…
Vol.8『曖昧な関係』児玉麗（29歳）
967日。
寝具メーカーの営業として働く2つ年下の丈一郎とは、付き合って半年で同棲を始めた。
2人で選んだのは、環七沿いにある1LDK49�峅板�17万円のマンションだ。
広いキッチンが特徴的な物件で、麗も丈一郎もそこをとても気に入り、引っ越しを決めた。
あのころは「一緒にたくさん料理をしよう」なんて言っていたが、実際に一緒に料理をしたのは、最初の数ヶ月、しかもほんの数回。
同棲を始めてから2年半を迎えるころ、丈一郎の転勤話が浮上したことをきっかけに二人は話し合い、同棲967日目に別れることを決めた。
麗は、仕事を辞めてまで丈一郎の転勤についていくことはできなかったし、遠距離恋愛となれば、続かないことは目に見えていた。
「だったらいっそのこと今、別れよう」
転勤が別れの理由ではあるが、麗にしてみれば倦怠期を乗り越えられなかっただけだとも感じている。
丈一郎が家を出ていったあと、広いキッチンだけが残された。麗は、それを持て余している。
もちろん、退去しても良かったが、勤務先の店舗から徒歩圏内であることと、ギリギリひとりでも払える家賃であることも鑑みて、今もなお住んでいる。
「もったいないな。そしたら俺が料理しに行っていいか？」
丈一郎と別れて90日が経ったころ、バスケサークルの仲間内で飲んでいるとき矢柴貴志が言った。
ワイルドな風貌の貴志がどんな料理をするのか、麗は正直、興味が湧いた。
だからといって「嬉しい。作りに来てほしい」と即答できない。
大学の同級生でもある貴志とは、バスケサークルの活動で何度となく顔を合わせていたが、二人きりで会ったこともなかったから。
ましてや自宅で二人きりなんて…。
戸惑う麗を尻目に、貴志は強引に日程を決める。
「じゃ、来週月曜、食材買って麗んち行くわ。住所教えて」
なかば強引に約束を取り付ける貴志。
貴志は本当に麗の家に、ハンバーグを作りに来た。一緒に食べて、歓談し、そして帰っていった。
指一本、麗に触れることもなかった。
「来週も月曜、作りに来るわ」
貴志は麗も許可もなくそう決めると、次週の月曜も本当にやってきて、ナポリタンを作った。
フリーランスのグラフィックデザイナーとして働く貴志は「月曜日の夜だけは必ず仕事を休む」と決めているらしい。
こうして毎週月曜になると、貴志が食材を買ってきては、麗の自宅で二人分の料理を作ることが決まりとなった。
ハンバーグ、ナポリタン、エビフライ、オムライス…。
貴志の料理は、どれも本当に美味しかったが、どれも少年が喜びそうなものばかりだったので、麗は彼のことをかわいいなと思っていた。
ただいつも作ってもらうのも申し訳なく、麗は毎週月曜になるとワインを1本用意し、それを貴志と二人で飲み干した。
貴志の手料理。麗が用意する1本のワイン。そして気が置けない友人同士としての会話。
それが二人にとって毎週月曜の夜のすべて。
ひとつ屋根の下で男女が二人きりになるというのに、貴志は一切、麗に触れようとしない。
見えない壁でもあるかのように、一線を引いている。
だからこそ麗も、貴志と距離を縮めようとはしない。
仮に麗のほうから近づいたとして、そのとき貴志に嫌な顔をされたりしたら…。
そう思うと、麗は何もできなかった。
毎週月曜、二人きりの自宅ディナーが節目の20回を超えたころ、麗の疑問は最高潮となった。
― 貴志はどういうつもりで、毎週、私の家に来るのだろう？
― 恋愛感情はあるの？ないの？
でも、相変わらず麗は貴志に尋ねる勇気はない。
自分だけが、男女を意識しているようで恥ずかしいから。
その夜、貴志が作ったのはチキングラタンで、麗が用意したワインは『シャトー・メルシャン 椀子シラー 』だった。
グラタンを作ると事前に聞かされ、きっと貴志のことならコショウをたっぷり使った濃厚な一皿になるだろうと麗は予想した。
だから、いつものワインショップで試飲し、黒コショウのようなスパイシーなフレーバーが包み込む濃厚な赤ワインを選んだ。
オーブンから熱々のグラタンが出されてテーブルに置かれ、ワインがグラスに注がれると、二人はさっそく乾杯する。
そして、いつものように気が置けない友人同士の会話をする。
しかし、チキングラタンを食べ終え、ワインもあと何回かで飲み切る時間になったころ、貴志は突然、言った。
「料理を作りにくるのは、今夜で最後にするよ」
「えっ…どうして？」
「理由は…そうだな…すごくシンプル」
「何？」
「麗を好きだった。友達としてではなく、女性として好きだった」
思いもよらないタイミングで告白されて、麗は呆気に取られる。
「でも麗が、俺のことを好きじゃないと思っていたから、20回も家にあげてもらいながら、口説く勇気がなかった」
20回。貴志はたしかにそう言った。
― ちゃんと数えていたの？見かけによらず、貴志は繊細な性格なのかな。
自分と貴志は似ている、と麗は思った。
― でも、似ているところはそこだけじゃない。
異性として意識しながらも、互いに「相手は自分を好きじゃない」と遠慮して、距離を近づける勇気が出なかったところも同じ。
貴志の言葉に対し、麗は何も言えずに、ただワインを飲むしかない。
「麗、いつもワインを1本、用意してくれたろ？」
沈黙に耐えかねた感じで貴志は切り出した。
「いつも1本を二人でシェアして、それ以上は飲まなかった。
でも、もし2本目を開けていたら、と思うんだよ。
さらにもっとワインを飲んでいたら、酔いに任せて、俺は勇気が出ていたかもしれない」
たしかに、と麗は思った。
麗も貴志も酒が強い。
そして、相手に配慮していた。
特に貴志は、失恋直後だった自分のことを気遣っていたのだろう、と麗は思う。
そんなときに効果的なのは、酒に酔うこと。
あるいは、酒に酔ったフリをして大胆になること。
酒は――特にワインは――あと一歩を踏み出せない男女の背中を押してくれるもの。
押し黙る貴志を前に、麗はそんなことを考えていた。
が、不意に思う。
どうしても引っ掛かることができてしまう。
― 待って。もしかして…。
麗はワインをグイッと飲み干して、勇気を振り絞る。
「待って。もしかして今、好き“だった”って言った？」
貴志が「友達としてではなく、女性として好きだった」と明言したことに、時間差で気づき、麗は聞いた。
「もしかして、私を好きだったのは過去のこと？」
「…実は、うん、そう。好きだったのは過去の話」
「今はもう好きじゃないってこと？」
「それは…」
貴志は気まずそうにうつむいた。麗が見たことがない表情だった。
「現在進行形で『好き』とは、もう言えないんだ」
「どうして…？」
「5日前にカノジョができたから」
「…」
麗は頭が真っ白になる。
貴志を男性として好きだったわけではない。
好きだったなら、もっと自分から距離を縮めたいと思ったはず。
― でも少なくとも男性として意識はしていたんだ、私…。
こういう状況になって麗は初めて気がついた。
「今までは、フリーだったからよかったけど、カノジョができたらさ…。別の女性と家の中で二人きりになるのはマズいだろ？」
最初は好きだった。しかし家の中で二人きりになっても進展がないから、別の人を好きになった。
東京では、いや、世界中のどこでも、よくある話だ。
「そっか。よかったね」
できるだけ動揺を悟られないようにして麗は言った。
もし毎週月曜夜のこの奇妙な会合に用意するワインを1本だけと決めず、2本目3本目と開けることがあったら…。
酔いが回って二人はそれぞれが勇気を出し、距離が近づき、今とは違う未来になっていたかもしれない。
でも何事に対しても細かい麗も、そして貴志も、それをしようとしなかった。
いつもワインは1本だけ。
「じゃ、最後ぐらい、ワインをもう1本飲まない？」
麗はそう言いたくなった。でも言わなかった。
実際に言ったのは…。
「どんなカノジョなの？なれそめを教えてよ」
友達として貴志に質問した。
貴志は麗のことが好きだった時期がある。でも麗はずっと貴志のことを何とも思っていない――そうしておきたかった。
もし「私も貴志のこと、気になっていたのに」なんて言えば、すべてが崩れて、切なくなるだけだ。
それを察したのか貴志はいつもの表情で言った。
「じゃ、カノジョとのなれそめ、少しだけ話すよ」
貴志は本当に少しだけ話して、そして帰っていった。
「ごちそうさま。今日も料理、美味しかったよ」
「こちらこそワインごちそうさま。うまかった」
「今日で終わりだね」
「ああ、でも二人きりじゃなければ、いくらでも作るから、今度はホームパーティーしようぜ」
「うん、そうしよう」
貴志は屈託のない笑顔を見せて、ドアを閉めた。
奇妙な会合が終わったあと、皿を洗うのは当然、家主であり、料理を作ってもらった麗の務めだった。
しかし、今夜はすぐにそれに取り掛かることができない。
家でひとりになったあと、広いキッチンで、麗は用意していたもう1本のワインを開ける。
貴志が毎週月曜に家に来るようになって20週。
気づけば、同棲していた元カレ・丈一郎に対する思いも、失恋の痛みも、すっかり消えていた。
― いつからだっけ、そうなったの？
思い返しても、麗にはわからなかった。
ただ、貴志が毎週月曜夜に料理を作りに来てくれ、1本のワインとともに舌鼓を打ってきたことで、確実に麗は失恋から立ち直っていた。
― ありがとう。
麗は心の中でそう言い、ひとりワインを飲む。
【今宵のワインはこちら】
『シャトー・メルシャン 椀子シラー 』
黒コショウのようなスパイシーなフレーバーが包み込む濃厚な赤ワイン
▶前回：「私が出すよ」年下彼氏とのデート。女が毎回支払いをしていたら、男が突然…
▶1話目はこちら：既婚男を好きになってしまった。報われない恋に悩む27歳女が決心したこと
▶Next：1月19日 金曜更新予定
4年付き合った彼に、年末にフラレた28歳女。年が明けてもまだ立ち直れない女は…。
