平日の真ん中、ウェンズデー。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

▶前回:「同窓会に行きづらい」昔は美人でちやほやされたけど、42歳で独身なんて恥ずかしい…




<水曜日の観察>
加藤慎之助(41):映像作家、映画監督


目が覚めると、どデカい図体の太った男が、リビングの真ん中で地響きみたいなイビキをかいているのが見えた。

65インチのテレビの前にはゲーム機のコントローラーと一緒に、ウイスキーの瓶やビールの缶、食べ散らかしたつまみの残骸が散らばっている。

― そうか。俺、昨日あのまま…。

昨日は、オープニングアニメーション作成を担当した番組の月間賞の祝賀会だった。会の後、部下を2、3人家に呼んでオンラインのシューティングゲームに興じたのだ。

「8月にも、同じメンバーであれだけ大きな決起集会したくせに、こんなに頻繁に集まって何が楽しいんだよ」

そんな愚痴を言い合いながら、いつのまにかそのままソファで眠り込んでしまい、今は朝の10時半。

せっかくの爽やかな朝──10時半まだかろうじて、朝と呼んでもいいだろう──だというのに、目に飛び込んできた最初の光景が、むさ苦しい男の雑魚寝であることに、俺は心底うんざりした。

「おい、そろそろ帰れよ」

一晩放置されてすっかり気の抜けたペリエを瓶から直に飲み干しながら、大イビキをかき続けるテクニカルディレクターを足でゆする。が、全く起きない。

― 仕方ない、置いていくか。ゆっくり寝とけ。

こんなだらしのない男でも、俺にとっては可愛い部下だ。

代理店のクリエイティブから独立し、小さな映像企画制作会社を設立した時に、俺を慕ってついて来てくれた大事な仲間でもある。

二日酔いでガンガンする頭を押さえながら、どうにか顔を洗い身支度を整えると、俺は玄関へと向かってスニーカーに足を入れる。

だが、靴ひもを結ぼうとしたその時、背後から不意に声をかけられた。

「うっわ。加藤さん、まーたそんなの買っちゃって…」


いつのまにかのっそり起きてきた部下が、あくびまじりに指摘したのは、俺がいま履いたスニーカーのことだろう。

NIKEのAIR JORDAN 1。赤と黒の配色が美しい、RETRO HIGH OG "BRED"。

あの桜木花道が作中で履いていたモデルで、映画を見てスラムダンク熱が上がってしまった先日、オークションで20数万円で購入したのだ。

スニーカーのコレクターになって10数年。

ようやく映像作家として食えるようになった今、百何十万円もするスニーカーを購入することだってある。

けれど、状態もよくサイズもピッタリなものに出会えること自体が、奇跡だ。否が応でも大切に履きたくなる。

運命の出会いというものは、大切に扱わなければいけないのだ。

まるで我が子の頭を撫でるかのごとく丁寧に靴ひもを結んでいると、そんな俺をからかうように部下が言った。

「そんなにスニーカーを大事にするのに、なんで作家名は“カカトフミオ”なんすか?

加藤さんって基本だらしないけど、絶対靴のカカトなんて踏まないじゃないすか」

頭をボリボリかきながらそう問いかける部下に「うるせー」と吐き捨てると、俺はひとり扉を開けて、部屋を後にした。




向かう先は、原宿にある仕事場のスタジオだ。

本当はもっと寝ていたいけれど、最近はおかげさまで仕事がどんどん増えてきていて忙しい。

映画監督“カカトフミオ”としての初長編作が、フランスで小さくない賞を受賞したことも大きいのだろう。CM制作の依頼や、企業とのコラボレーションの話まで出始めている。

鬼才の映像作家・カカトフミオの、今がまさに正念場…というわけだ。

「おっし。適当に息抜きしながら、頑張りますかぁ」

俺はマンションの前で大きく伸びをすると、両頬を強く叩いて気合を入れた。

自宅のあるここ高田馬場から、仕事場のある原宿までは、電車に乗ればたった10分程度で到着する。

けれど、エアジョーダンでバッチリ固めた足元で俺が歩き出したのは、高田馬場駅とは全く反対方向なのだった。




諏訪通りを越え、戸山公園を通り過ぎる。

新大久保を越えて、歌舞伎町のゴジラの足元をすり抜ける。

今日は水曜日。

俺は毎週水曜日、そういった多種多様な人間たちを観察しながら、すべての移動を徒歩にすることをルーティンにしているのだった。

ここのところの東京は、平日の午前中であってもインバウンドの客で大盛況だ。あちらこちらでカメラを構える旅行客や、カウンターが仕切られた豚骨ラーメン店の行列の姿が目立つ。

インバウンド客のほかにも、仕事に励む勤勉なサラリーマンたち、流行のファッションに身を包んだ生業のはっきりしない若者たち…。

電車や車をあえて使わずに歩くことによって、リアルな「今」が見えるような気がする。

映像作家としての今の地位があるのは、とことん「今」を見つめ続けているからなのだという自負があった。

元々は新卒で入社した映像制作会社の都合で、当時ADとして参加していた番組のレコーディングが水曜日に徒歩圏内のスタジオで行われていたことから身についた習慣だったけれど、今ではすっかり俺だけのルーティンとして体に染み付いている。

― よし、今日はもう少し観察していくか。

自宅から30分ほど歩いてようやく新宿三丁目あたりまでたどり着いた俺は、頭の中のコンパスが指し示す原宿の方角からほんの少し向きをずらして、あるところを経由していくことにした。



遠回りのルートとして寄り道を決めたのは、新宿御苑だ。

マルジェラの財布から年間パスポートを取り出し、新宿門のゲートの係員にQRコードを差し出す。

雑多な新宿の街並みから一歩足を踏み入れるだけで、こんなに清々しい緑あふれる空間があるなんて、まるで異世界みたいだ。

広がる青い芝生。積み重なったフカフカの落ち葉。日の光を照り返し、ところどころで輝くどんぐりが、遅い秋の到来を告げる。

ここにもまた、外の世界とは違った「今」があった。


― やっぱり、ちょっと寄り道してよかったな。

そう思いながら俺は、足元のエアジョーダンをじっくりと見つめる。

「Good shoes take you to good places(いい靴は、いい場所へ連れて行ってくれる)」というフレーズは、何の映画のセリフだっただろうか。学生時代からの年季の入った映画マニアであるにもかかわらず、思い出すことができない。

だけど、俺がこうして“いい靴コレクター”になった経緯なら、いつだって思い出せる。

…いや、忘れたことがない、と言ったほうが正しいかもしれない。

簡単に言えば、「Good shoes take you to good places」の真逆のことが起きたのだ。

律子。

大好きだった律子。

靴のカカトを踏んでご両親に挨拶に行ったことで、愛想を尽かされてしまった俺の運命の人。

律子と別れてからしばらくのあいだ、悲しみにどっぷりと浸り尽くした俺は、くたくたにカカトを踏み倒した薄汚いコンバースをゴミ箱にダンクした。

そして、律子に指輪を贈るつもりで少ない給料から貯めていた13万円をはたいて、オークションでプレミアが付きちょうど13万円になっていたNIKE AIR MAX 95を、ヤケクソで購入したのだった。

けれど、TV局のADとして走り回る日々に、エアマックスは思いの外よく馴染んだ。

すっかりスニーカーの世界の虜になった俺は、給料の全てを自主制作映画の資金とスニーカーに突っ込んだ。

代理店のクリエイティブとして引き抜いてくれたプロデューサーとの出会いも、お互いにスニーカー好きで意気投合したことがきっかけだった。

そして、毎週水曜日にこうして馴染みのいい靴で歩き回り、今を、人間を、じっくりと観察をすることで…映画監督としてのデビューのチャンスまで掴んだのだ。




もう2度と、ひどい靴で大切な場所を失わないように。

もう2度と、運命の出会いを粗末に扱わないように。

映像作家名として「カカトフミオ」名義を名乗っているのは、そんな自戒の念を込めてのことなのだった。…こんな恥ずかしいこと、とても部下には説明できないけれど。

青臭い昔のことを思い出しながら歩いているうちに、もう少しで千駄ヶ谷門にたどり着く。ここを抜けてあと10分も歩けば、あっという間に原宿の仕事場だ。

と、その時。千駄ヶ谷門直前の、小さな子どもたちの遊び場から、3歳くらいの小さな男の子がヨチヨチと俺の方にやってきた。

「いっちょ、いっちょ」

小さな指が指す方を見てみると、なるほど、男の子も小さな赤い靴を履いている。

「すみませぇーん」

慌てて男の子を拾い上げそそくさと走っていくお母さんを見送りながら、俺は思わず笑みをこぼす。

そして、小さな男の子に「バイバイ」と手を振ると、千駄ヶ谷門を通って新宿御苑を離れた。

昨晩祝賀会で会った、真野とかいう偉そうなコメンテーターも言ってたっけ。

事情はよくわからないけれど、単身赴任か何かの一人暮らしを最近終えたらしく、「家族がいるっていうのは良いぞ」って。

「へー、そういうもんっすか」と適当な相槌を打って聞き流したけれど、いつもは張り詰めたような真野の表情が、家族のことを話す時だけ優しげに緩んだ瞬間は、一夜明けた今でも目に焼きついていた。

― 次回作は、家族の話を撮るのもいいな。

なんとなくそんなことを考えながら、歩みを進める。

まずは、今週末封切りになるデビュー作───自伝的な、私小説的な、律子と俺の日々を題材にしたデビュー作がヒットしなければいけないのだが。




それにしても、東京にはなんという数の人たちがひしめき合っているのだろう。

1時間歩いて昼に差し掛かり始めた原宿は、新宿にも負けず劣らずたくさんの人でごった返している。

あの人は、どんな今日を過ごすのだろうか。

あの人は、どんな予定を立てているのだろうか。

あの人は、あの人は、あの人は、どんな気持ちでいるのだろうか。

そして律子は、毎週どんな水曜日を過ごしているのだろうか──。

遠目に、仕事場が見えてきた。

たくさん歩いてたくさんの「今」を観察した俺の頭は、まだデビュー作公開前だというのに、次回作のアイデアでいっぱいだ。

東京に暮らすたくさんの人たち。恋人。友人。家族。ひとりぼっちの人。

そんな人々を描いた、「東京ウェンズデー」なんていうタイトルの映画はどうだろう?

溢れ出るアイディアが溢れないように、俺は歩くペースを少し遅くする。

水曜日の東京を隅々まで見逃さないよう、ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ歩み進めた。

Fin.

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