平日の真ん中、ウェンズデー。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

▶前回:「えっ、まさかの女連れ?」離婚の打ち合わせに彼女を連れてきた既婚男。女弁護士は思わず…




<水曜日の野心>
野辺山隆一(32):外資系銀行勤務


「お疲れさまでーす」

「じゃ、お先に」

「失礼します」

誰に向けてでもない退勤の言葉がポツリポツリと続き、オフィスはだんだんと人気まばらになっていく。

日頃は日付が変わるまでわりと人がいる俺の部署も、23時を回った今、気がつけば残っているのは俺と、若手がもう一人だけになっていた。

今日は水曜日。

なぜだか水曜日だけ17時には退勤するMD(マネージングディレクター)の律子さんに釣られて、部署の同僚たちも水曜日は比較的早めに帰っていく。

だけど…。

「野辺山さん、お先に失礼します」

「おう、お疲れ」

23時半を過ぎ、残っていたもう一人である若手がついに退勤しても、俺はまだ仕事を切り上げない。

水曜日である今日、仕事は、むしろ今からが本番だ。

人けがなくガランとしたオフィスは、否が応でも集中力が高まる。

誰もいなくなったオフィスで、日付が変わるまで仕事するのが、俺の毎週水曜日の過ごし方なのだった。


新卒で外銀に勤め始めてから10年。現在の俺の役職はD(ディレクター)だ。年収は2,000万を優に超えている。

資料作成はほとんどが若手の仕事になり、VP(ヴァイスプレジデント)の扱うようなトラブルも手を離れるため、日付を跨ぐような残業は正直言ってあまり必要ない。

遅くまで残っているのはあくまでも、特別に重要なクライアントの案件やユニットのマネジメント、チーム全体の収益性を上げる+αの業務のため。

ほぼほぼ、出世するための自己研鑽のようなものだ。

強制されて残業しているわけではない。強迫観念に駆られているわけでも、仕事中毒というわけでもない。実際、今の仕事には若干飽きが来てさえいる。

それでも更なる激務を俺に強いているのは、他でもない、この俺自身。

自らの意思で朝から晩まで仕事に明け暮れている理由は、ごくシンプルだ。

─ 出世したい。誰よりも、高みに行きたい。

俺がここまで出世欲に忠実になったのは、学生時代のある会話がきっかけだった。




栞と初めて会ったのは、たしか大学2年の頃だっただろうか。

たまたま参加することになった飲み会で、隣に座っていた他学部の女の子。それが栞だった。

ワイワイと盛り上がる仲間を遠目に、俺と栞は特に言葉を交わすでもなく、隅っこの席でビールをちびちび舐めるばかり。

みんなで馬鹿騒ぎをする楽しさもわからなければ、酒の美味さもまだわからない。

そんな俺に栞の放った言葉は、「つまんなそうだね。嫌なら帰ればいいのに」という強烈なものだった。

強烈、ではあった。けれど不思議と、嫌な感じもしなかった。

隣の席で栞が、綺麗に魚を食べるのを見ていたからかもしれない。

使い終わった箸を、几帳面に揃えて置くのを見ていたからかもしれない。

そういう一つ一つのこだわりが、俺とすごく似ていると密かに感じていたからかもしれない。

とにかく栞のその強烈な一言は、「そうか。嫌なら、帰ってもいいんだ」と、すんなり納得できたのだ。

「確かにそうだね。じゃ」

言葉少なに立ち上がった俺は、さっさと一人で家に帰るつもりだった。けれど少々驚いたことに、その瞬間、栞もすっくと立ち上がって言った。

「私も、つまんないから帰るんだ」

自然と一緒に帰ることになった俺たちは、居酒屋から渋谷駅までの道のりを会話しながら歩いた。

「朝食はごはん派だ」とか、「部屋はいつでも片付いてないと気持ち悪い」みたいな、他愛のない話題。

それが、俺と栞の最初の会話だった。




共通点の多かった俺たちは、それから自然と2人で会うようになった。

一人暮らしの家がすぐ近くだったことももちろんある。けれどそれ以上に、几帳面で、真面目で、綺麗好きな似た者同士の俺たちは、一緒にいるとお互いに心地よかったのだ。

“女性”という生き物の理不尽さが苦手で、どんな彼女との付き合いも煩わしくなってしまう俺にとって、性別を超越した付き合いができる栞は、よき友人でありライバルという唯一無二の存在になっていた。

たしかその日も、いつもの通り、夜遅くまでふたりで俺の部屋で飲んでいたんだと思う。

そして、いつもよりほんの少し、ふたりとも酔っぱらっていたんだと思う。


「キャンパスで見かける隆一って、いつも本当につまんなそうだよね」

「実際つまんないからね。栞はいつも楽しそうだよな」

「実際楽しいからね。少しずつでも、夢に近づいてるって感じがするじゃない?」

何気ない会話だったけれど、栞のまっすぐな言葉は、俺の心に刃物みたいにぐさっと突き刺さった。

― そうだ。俺と栞は全然似てない。栞には夢があるけど、俺は空っぽなんだった。

弁護士になりたいという夢を叶えるため、東大に来た栞。

一方、幼少期から下手に勉強ができたばっかりに、最難関というだけで麻布から東大に進学した俺。

親や教師に「東大に入ること」を目標として定められ、その目標をすでに叶えてしまった今、俺の中にはひと欠片の夢も希望も燃えてはいないのだった。

「栞はすごいな…。俺には何もないから、憧れるよ」

いつもなら絶対にそんなことは言わない俺だけど、この日は酔いも手伝ってか、素直な気持ちが口からポロッとこぼれ出た。

けれど、次の瞬間。

同じくほろ酔いで頬を上気させた栞の言葉に、俺はまたしても頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。




「そうなんだ。じゃあ、隆一こそすごいね。私は夢のために、ものすごーく勉強頑張ったもん。

夢の力も借りずに頑張れるなんて、それってすごい才能だよ!」

「え…?」

呆気に取られる俺に、栞は続ける。

「東大、受かったときは嬉しかった?」

「まあ…悪い気はしなかったよ」

「難関大学だったから?」

「そう、だな」

「わかった。じゃあ隆一は、勝つのが好きなんじゃない?

もしかしたら気づいてないだけで、実はすごい野心家なのかもよ。私なんかよりもずっとずっと、負けず嫌いなんだと思うな」

雷に打たれたみたいな衝撃が、脳天から突き抜けた。

たしかにそうだ。麻布受験のときも、東大受験のときも、その時々の一瞬の輝きではあったけれど、燃えるような熱い気持ちがあった。

絶対に、最難関にいってやるという気持ち…。

言われてみればあれは、野心以外の何物でもない。

一晩中語り明かしたマンション6階の俺の部屋から、御茶ノ水の夜景ともいえない夜景が見える。

そのとき俺は、初めて自分の野心を自覚したのだ。

こんなシケた夜景じゃなくて、もっと高い場所から、もっといい景色が見たい──って。




競争が好き。勝つのが好き。難関にチャレンジすることが好き。

それに気づいた俺は、生き馬の目を抜く世界と名高い外資金融の世界に足を踏み入れた。

今のところ、昇進は順調だ。莫大な金額を動かす難しい案件では、ヒリヒリするような達成感を味わうこともできている。

それもこれも、空っぽの俺に気づきを与えてくれた、栞のおかげに他ならない。

もうすぐ日付が変わる。今日もまた水曜日が終わる。

すっかりあたりに人が居なくなったオフィスで俺は…もう一つの、誰にも言えない行為にとりかかりはじめた。

俺は周囲をさっと見回すと、MDの律子さんのデスクへと向かう。そして、ワクワクと高鳴る胸を落ち着かせながら、そっと律子さんの席に座った。

これが、MDの椅子だ。いま目指すべき、新しい難関だ。

― 絶対、この椅子に座ってやる。そして…。

MDの席から見える銀座38階の夜景を眺めながら、俺は自身の野心を取り出して眺める。

― 「よき友人でありライバル」なんて言い訳から、抜け出してやる。

人生で一番の最難関を思い浮かべ、水曜日の夜を見送る。

こっちのハードルはどんな大きな仕事よりも、乗り越えるのに勇気が必要だ。

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▶1話目はこちら:実は、妻と別居して3ヶ月。公私共に絶好調に見える39歳男の本音

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外銀に勤めるスーパーエリートでありながら、17時に帰る律子は…。