仕事の休憩中にかかってきた1本の電話。女の気が動転したその内容とは?
木野瀬凛子、31歳。
デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。
張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。
甘いひとくちをほおばる時間だ。
これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。
◆これまでのあらすじ
大手広告代理店営業部に勤める木野瀬凛子、31歳。母親が突然家に訪問してきたのをきっかけに、長年抱えてきた心のつまりがとれた。凛子はそのときにもらったお菓子を、週明けに後輩・美知と食べようと決める。
Vol.7 彼の地元のはんなりクッキー
週明け月曜のお昼休み。
凛子は、エシレの青い紙袋を片手に後輩の美知のもとへ歩く。
「ねえ、美知さん」
美知は、ブラインド越しに見える11階からの景色をぼうっと見ていたが、あわてた様子で凛子を見上げた。
「これね、親のいただき物を譲り受けたんだけど…よかったら今から一緒に食べない?」
「え、エシレのサブレ!…いいんですか」
◆
オフィスを出たところに、共用の広いガーデンスペースがある。
凛子は美知と連れ立って柔らかい日の差すベンチに腰掛け、さっそく缶を開けた。
元彼・昌文のために予約していた誕生日ディナーをドタキャンされ、美知を誘った夜。
あの夜を機に、凛子と美知との間にずっと流れていた妙な緊張感はなくなった。
― でも、気になるのは…。
ここのところ元気がない、美知の様子だ。
「美知さん、最近ちょっと元気ないよね?」
「え?」
だから凛子は、そんな美知を少しでも元気づけたくて、このサブレ缶をシェアしようと思いついたのだった。
「だから美味しいものでも食べて、と思ったの」
「凛子さん…」
缶を差し出すと、美知は幸せそうに1枚取り出し、大切に食べる。それから、小さな声で話し始めた。
「実は最近、一番の親友が国際結婚で海外に行ってしまって…。
なんだか寂しくなって私、マッチングアプリを始めたんです。でも、デートした相手に、2人連続でフェードアウトされてしまって…」
凛子は美知と10分くらい話し込んだ。
恋愛のアドバイスなど凛子には到底できないのだが、美知は話しただけでもすっきりしたようで、顔が明るくなる。
気分転換になったようでほっとしたとき、電話が鳴った。外出先にいる部長からだった。
「木野瀬さん、聞いた?秋坂さんのこと」
「え、秋坂さんのことってなんでしょうか?」
「秋坂さんがねえ、京都の支社に異動になるんだって」
なんと秋坂は、7月から京都支社で働くことになったという。
― あと1ヶ月ほどしかない。急な話ね。
まったく想像もしていなかった。スマホを握りしめながら、気が動転する。
「栄転だそうだよ。秋坂さんって、京都出身らしいし、自分で希望を出したのかもしれないな」
部長は「お祝いの準備をしておいて」と言って、電話を切った。
寂しさが募った凛子は、美知と共にデスクに戻ると、すぐに秋坂に電話をかけてみることにした。
「お、木野瀬さん。聞いてしまいましたか」
察しがいい秋坂は、いつもと変わらない柔らかな声で言う。
「僕も今朝聞かされて、ちょっとびっくりしているんですよ。
社内のいろんな事情が絡まって、京都出身の僕に白羽の矢が立ったようで…」
― 自分で希望を出したわけじゃないのね。
「そうですか…寂しくなりますが、応援しています。
ご栄転おめでとうございます」
◆
その週の金曜日、いつものように秋坂との商談に行くと、会議室はコーヒーの香ばしい香りで満ちていた。
見れば、ホットコーヒーらしきカップが2つ置いてある。
「木野瀬さん、お土産です」
秋坂は急に、凛子にシックな黒い紙袋を差し出した。
「先日電話もいただきましたが。このたびは急な異動でご迷惑をおかけします。
で、昨日、物件決めのために京都にさっそく行ってきたんです」
差し出された紙袋には、吉祥菓寮と書かれている。
秋坂は中身を取り出し、凛子の前に置いた。
「今日はこれを食べながら商談しましょう」
パッケージに「きなの宮サンド」とプリントされたお菓子。
丁寧に袋を開くと、淡い茶色をした正方形のチョコレートサンドクッキーが入っていた。
「いただきます」
クッキーはさっくりしていて、ホロホロとほぐれる。
サンドされているチョコレートは、煎ったきな粉が濃縮されたような深い味わいだ。
「すっごい好きな味です、これ」
凛子はうっとりした声で言う。
「僕は、ここのスイーツとコーヒーを一緒に味わうのが好きなんです。
ここのお菓子は、地元らしいどこか懐かしい味がするんですよね」
秋坂さんは、京都のスイーツについて詳しいそうで、ぜひ案内したいと笑った。
「だから、僕が異動したあとも京都支社に遊びにきてくださいね」
「はい。いつか出張できたらと思います」
商談が終わると、凛子はあらためてお礼を言う。
「お土産、ありがとうございました。ごちそうさまでした」
「凛子さんが和菓子も好きでよかったです。苦手かもしれないと思って不安でしたので」
「もちろん、和菓子も大好きですよ」
大きなデスクの上に置かれた資料をまとめながら凛子は、昌文と付き合っていたときに、よく赤坂の『とらや』で和菓子を買っていたことを思い出す。
「最近別れた彼氏の家のすぐ近くに、とらやの本店があったんです。頻繁に通うくらい、和菓子も大好きです」
「え…別れたんですか」
秋坂が急に悲しげな顔をしたので、凛子は申し訳なくなる。別れたと言ったから、同情してくれているのかもしれない。
「実は別れちゃったんですよ。って、あれ?」
― 秋坂さんに彼氏がいるみたいな話は、したことがないはず…。
秋坂は相変わらず察しがよく、自ら凛子の疑問を解いた。
「いや、実は…数ヶ月前に、凛子さんがすごくドレッシーな日があってデートかなって邪推してたんです」
「ああ…」
誕生日ディナーをドタキャンされ、挙げ句に浮気までされた、あの悲しい日のことだろう。
「察しがいいんですね。でも、あの日くらいから、徐々に亀裂が…。もう、私のなかでは過去の話ですけど」
苦笑いする凛子に、秋坂も「大変でしたね」と小さく笑ってくれる。
「僕は、もう1年以上彼女がいないので、ケンカの大変さも忘れちゃいましたよ。
弟には『枯れてる』って鼻で笑われるんです」
「あ、そういえば、弟さん…」
先週、秋坂とケーキを買いに行ったときに聞いた話を思い出す。
― この春から大学のために上京してきて、一緒に住んでいるって言ってたけれど、それも異動になったら終わりよね。
「弟さん、寂しがるでしょうね。秋坂さんが異動になって」
「いつまでも甘えさせるわけにも行かないし、これを機に自立させます」
先週から2週連続でプライベートの話で盛り上がっている。
うれしい気持ちと、それももう終わってしまうという寂しさが凛子のなかで入り交じる。
会議室を出てロビーを抜けながら、凛子は思わず言った。
「私、秋坂さんと得意先同士じゃないかたちで出会っていたら、結構仲よくなれた気がします」
「いやあ、僕も思ってました」
秋坂はうれしそうだ。
「そうだ、木野瀬さん。
あとちょっとで一緒に仕事しなくなるわけですし、もっとフランクになりましょう」
「は、はい。いいですね」
突然の秋坂の提案が意外で、でも可愛らしくて、凛子は思わず笑顔になる。
お辞儀をして別れ、得意先のオフィスを出てすぐにタクシーに乗った。
会社に戻る車内で、凛子の耳に、先ほどの彼の発言がよみがえってくる。
弟の話をしてしまって流れてしまったが、秋坂は「もう1年以上彼女がいない」と言っていた。
― なんかちょっともったいないわ、あんなにいい人が…あんなに素敵な人が。
凛子はそのとき、秋坂にとても好印象を抱いている自分に、初めて気づいたのだった。
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秋坂から凛子へ、あるお誘いが…