レストランに一歩足を踏み入れれば、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:ディナーのあと2軒目に誘われて、バーに行くと思いきや…?彼に連れていかれた、意外な場所とは〈インタビュー編〉




Vol.30 純夏(33歳)「話があるから、会いたい」と言われて


東京の真ん中。高層ビルが背比べをするように伸び、規則正しく並んだ窓からキラキラと光が漏れている。

オフィスビルから出てくる人波を縫って、純夏はコンラッド東京へ向かう。

3ヶ月ぶりの大輔とのディナー。

今年に入ってから、純夏は、多忙を理由に連絡の頻度を落としているので、彼に会うのは久しぶりだ。

彼から「話がある」との誘いを受け、純夏は待ち合わせ場所に汐留を指定した。

汐留は、お互いのオフィスが近すぎるという理由で、ふたりで歩いたことのない街だから。

純夏はわずかな緊張を胸にエレベーターを上がり、28階にある『チャイナブルー』へ向かう。

エントランスを抜け、スタッフに案内されて大輔の座る席に向かうと、彼のいる場所が、青に包まれている。

吹き抜けの天井に浮かぶ照明がトワイライトブルーの夜空と東京湾に溶け込んでいるのだ。

― うわ、綺麗!

純夏の心が高揚する。

「大輔、おまたせ!」

「純夏、おつかれさま」

ドリンクのオーダーを済ませ、どちらからともなく近況報告が始まる。

大輔とは、もう7年の付き合いだ。青に包まれたふたりの席は“いつもの”ムードに染まっていく。

職場での出来事、家で見た映画、花見をどこでしたか…。

大輔は矢継ぎ早に話を続けるが、メガネの奥の目の焦点があっていない。

― 話、いつ切り出すんだろう…。やっぱり定番のデザートタイムかな。とりあえず、料理をオーダーして落ち着こう。

会話に集中できない純夏は、中国語の併記された料理名を視線でなぞる。

― ワンタンって雲呑って書くのか…。確かに雲っぽいなぁ。

純夏は、空に浮かぶ雲を思い、顔を上げると、大輔のメガネのフレーム越しに東京の夜空が見えた。


運ばれてくる料理は目に鮮やかで、食事の間は心からの笑顔で楽しい時間を過ごした。

あっという間に2時間が過ぎ、デザートが運ばれてきた。

愛玉子のふわりと香る清涼感が口に広がった瞬間、純夏は、我に返る。

― 結局、大輔の話ってなんだったのかな。

ディナーはもう終盤だというのに、大輔は何も言ってこない。

― 私も、今日は話をするつもりで来たのだけど…どうしよう。




会っていない3ヶ月の間、ひとり過ごした時間。純夏も大輔に話したいことができた。

しかし、純夏は大輔からの“話”を先に聞きたかった。

― 「話がある」と誘ってくれた大輔を尊重したい。それに、私のする“話”は、大輔の笑顔を曇らせるかもしれない。



結局“いつもの”楽しい時間のまま、食事は終わった。

― したかった“話”。私からも、できなかった…。

エレベーターに乗り込み、楽しかった、青の魔法が解けてゆく。

沈黙の中エレベーターは地上へ近づき、純夏は肝心な“話”のできない大輔と自分自身に諦めを感じていた。

汐留から新橋へ10分、並んで歩く。しかし、大輔からの“話”は一度も出てこなかった。

「大輔、今日は素敵なディナーをありがとう。銀座線あっちだよね。行こう」

「あ…うん。純夏はこの後、時間ある?」

― 『チャイナブルー』で2時間以上過ごして、“話”はなかったのに、まだ待つの?

青に包まれた特別な時間は、もう終わった。

― あんなに素敵なお店でも“話”をできなかったのに、新橋でふらりと入ったお店でなんて無理でしょ。

純夏は、今から予約なしで入れるお店で世間話に時間を費やす気になれなかった。

「ごめんね。明日早いから、帰る」

大輔の瞳が揺れる。

― まぁ予想はしてたけど…。今日も時間だけが過ぎていくんじゃないかって。

神楽坂に住む純夏と、代々木上原に住む大輔。

新橋駅からの銀座線は逆方向だ。

少し酔った大輔に手を取られるが、純夏はその手を振りほどく。

「じゃあ、本当に今夜はありがとう!おやすみなさい!」

そう言って、純夏は新橋駅の銀座線のホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込み、ホームに背を向けて席に座った。

― 今、何時だろ…。

純夏は、東西線に乗り換えるため、日本橋駅のホームに降りた。

時間を確認するためにスマホを取り出した時、不在着信があったことに気づく。




「大輔」の文字を見て、純夏の胸がチクリと痛む。

― 今日話せなかったこと、大輔から聞かないと。そして、私からも話しておかないと。

純夏は、大輔にコールバックをする前に気持ちを整理したかった。

家の最寄り駅一つ前の飯田橋で降り、神楽坂下から歩くことにする。出口を上がり、小さく星の見える夜空を見上げて空気を大きく吸い込む。


純夏は、社会人になって3年目の25歳の時から神楽坂上に住んでいる。

海外に憧れ、航空会社の広報として昼夜を問わず働いていた。しかし、CAのように海外に出る機会があるわけではない。

頭の中は世界を旅する自由でいっぱいなのに、現実は古くからの縦社会に自分を閉じ込めていた。

初めて神楽坂を訪れた時、学生時代に旅したヨーロッパを思い出した。石畳を歩きながら、自由な自分に戻れた気がした。

― この街にいると、好きな自分でいられる。

そう思って、神楽坂に身を置いている。




大輔と純夏は、仕事で知り合った。

純夏が初めて大きなキャンペーンの企画を任された時、チームのメンバーに取引先のWEBデザイナーである大輔がいた。

キャンペーンが無事に終わり、チーム解散を機に、打ち上げの場でプライベートの連絡先を交換したのだ。

初デートは、神楽坂の名画座ギンレイホール。

大輔も純夏も映画が好きだ。

神楽坂下に佇む小さな名画座はいつ行っても良質な映画を上映していて、ふらりと入って鑑賞できる気軽さが魅力だ。

映画を見てディナー。2軒目で軽く飲み、純夏の家に行く。これが定番デートになっている。

― “いつもの”を繰り返して、気づいたら7年も経っていた。

純夏は、大輔から付き合おうと言われたことはない。確かめようとしたこともあったが、関係が壊れるのが怖くて聞き出せなかった。

そのうち、距離が近くなりすぎてタイミングを逃した。

出会って1年経った頃に、やんわりと将来について尋ねたことがある。

大輔は、仕事が大事で独立を目指している、と誇らしげに瞳を輝かせた。そしてやや視線を外し、今は結婚も子どもも考えていない、と言った。

それを聞いた純夏は、大輔の見ている未来の眩しさに、自分は立ち入ってはいけないような気がしてしまったのだ。

ふたりの未来が見えず、大輔と定期的に会いながら、別の男性と付き合った時期もあった。大輔に恋人がいた時期があったのかは、わからない。

ただ7年間、お互い一番側にいたと純夏は思う。

毎日くだらないLINEをし、毎週のように会った。

大輔の昇進、転職、会社設立の日を共に迎えた。

互いの誕生日を何度も一緒に祝った。

しかし純夏は、大輔の“輝く未来”に立ち入ってはいけない、という呪縛から逃れられずにいた。

過去に考えていないと言われた結婚について、女々しくプレッシャーをかけるのも嫌だった。

純夏の30歳の誕生日は3年前に過ぎ、大輔は昨秋に40歳の誕生日を迎えた。

そして2022年11月末、ギンレイホールは閉館した。

“いつもの”選択肢を失ったふたりは、会う口実を無くした。

連絡は取り合うもののデート日程の確定を避ける純夏に、痺れを切らした大輔がはっきり“会おう”と告げたのは、桜が散り若葉が出始めた頃だった。



意を決して、大輔にコールバックをする。




「もしもし」

「純夏。今日はごめん。話をしなくちゃと思っていたんだけど…笑顔を見て、いつものように話してたら楽しくて」

「そうだよね。わかるよ。私もそうだった。だから何も言えなかった…」

「…」

「私たちいつもそうだよね。曖昧を許し合って。付き合っているのかもわからないし、家にも行ったことないし、好きって言われたこともないし」

「そう思ってたなら、言ってくれればよかったのに。態度でわかると思ってた。言葉は、重要じゃないと…」

「傷つきたくなくて、聞けなかった。何度も確かめようとしたけれど、自分の身勝手で大輔の夢を邪魔したくなくて…。いつか大輔から明確な言葉がもらえるんじゃないかって、期待してた」

「本当にごめん。その話がしたくて。俺、ちゃんと考えてたよ純夏とのこと」

「待ってたよ、ずっと。私が30歳になっても、大輔が40歳になっても、そして今日も、“話”はなかった。7年間、なかった」

「…」

「愛してた。恋人の域を超えて。いつからか、私が側にいなくてもただ大輔が幸せでいてくれたらいいなと思ってた。本当に、今までありがとう」



純夏は決めていた。

大輔からの“話”が何であろうと“いつもの”関係に、自ら終止符を打つことを。

昨年末、海外実務研修員としての2年間のフランス勤務の話が持ち上がり、純夏は自ら手を挙げた。

大輔との関係に、未練がなかったわけではない。

しかし、彼の“輝ける未来”に自分の姿は見えなかった。

だから、自分の“輝ける未来”を見つけた時、ひとりで向かうと決めた。

― もし、大輔から今日プロポーズされていたら、決意は揺らいだのかな。

しかし、最後まで大輔からの肝心な“話”はなかった。

今日の大輔との時間で、この選択をしてよかったと思えた。

待っているだけでは、“輝ける未来”なんて訪れない。自ら選んで行動するんだ。

― 私は今日、愛していたことを伝えた。心残りはなくなった。

あったかもしれない大輔との未来、大好きだった神楽坂の街、すべてを手放して、新緑の眩しさを背に純夏はフランスへと旅立つ。

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