イヤイヤ期を迎えた2歳の娘を、「ママって怖いでちゅね〜」とあやす夫。悪者扱いされた妻は…
「この子のためなら、何だってしてみせる…」
公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。
そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。
──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。
これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。
◆これまでのあらすじ
娘の華（2）の幼稚園受験のため、葉月はお受験塾「ほうが会」に入会。志望園への挨拶も済ませ、着々と準備を整えていたが…。
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Vol.6 同志との亀裂
「イヤッ！イヤッ！イヤッ！」
朝の7時から、華の叫び声がリビングに響き渡る。
「華ぁ、朝ごはんの前に、トイレに座ってみよう？出なくてもいいんだよ。座るだけでもキラキラのシールが貼れるよ！
それに、ほら見て。華の大好きなイチゴの柄のパンツもあるよ。どう？はいてみたくない？」
「イヤッ！！」
目の前にならべた色とりどりの可愛らしいパンツを、華が苛立ちにまかせてあちこちに投げ散らかす。
そのうちの一つがダイニングテーブルへと飛んでいき、コップに注いであった朝食用のオレンジジュースが、ガチャンと音を立ててこぼれた。
「華っっっ！」
思わず、刺々しい声が口から飛び出す。
「しまった」と思った時にはもう遅く、華は着替え途中のおむつ一枚の姿のまま「ギャー」と叫び声をあげ、床にゴロゴロと転がった。
「華ちゃーん、ママって怖いでちゅね〜。華ちゃんはまだ、おむつでいいんだもんね。トイレなんてイヤイヤなんだよね」
騒ぎを聞きつけた大樹が、洗面所から顔を拭きながら出てきて、のけぞる華を抱き上げる。
そして、私をたしなめるように言うのだった。
「葉月。2歳がトイレトレーニングに適した時期だっていうのは分かるけど、人それぞれペースってものがあるんだし。
無理に進めなくてもいいんじゃない？」
理解のあるような顔で口を出してくる大樹に、心底腹が立った。
言い返したかったけれど、華の前では絶対に大樹と言い争いをしないと決めているため、ぐっと言葉を飲み込む。
― 私だって、好きでこんなことしてるんじゃない。優しいママでいたいよ！だけど、だけど、仕方ないじゃない…！
窓から見える梅雨の曇り空が、憂鬱な心をより一層重くする。
葉月の頭の中では、先週のほうが会のお迎えで宝川先生から言われたショックなセリフが、何度も何度も繰り返されていた。
◆
「まだおむつなのは、華ちゃんだけです」
華を迎えに行った先週。宝川先生は葉月を応接室に呼び出し、唐突にそう言った。
「早生まれさんは華ちゃんだけだから、仕方のないことなのよ。
でも、お試験までにおむつが取れていることは、絶対よ。園長先生にご挨拶に行かれた時に言われなかった？」
4月の園長先生へのご挨拶は、はっきり言って何の手応えも感じられなかった。
身上書と家族写真を渡し、大樹の仕事内容についていくつか話しただけ。あとは、拍子抜けしてしまうくらい他愛もない世間話だった。
けれど、おいとまをする時に園長先生は、最後にはっきりとこう言っていた。
「生活習慣を整えて、どうぞ元気に秋のお試験にいらしてください」
“生活習慣を整える”。この言葉に、トイレトレーニングも含まれているのかもしれない。
葉月に心当たりがあることを見抜いたのか、宝川先生は一層眼力を強める。
「あそこの園は、ご家庭、ご両親、とりわけお母様が、どれだけ熱心にお子さんに力を注いでいるかをよく見ているから。
華ちゃんにはこちらでも引き続きお声がけしていきますけれど、そろそろおうちでもしっかりと、トイレトレーニングに向き合っていただく方がいいかもしれないわね」
◆
結局今朝も、華はトイレに行きすらしなかった。
上は下着、下はおむつ姿のまま食卓につき、上機嫌でピンポン玉大に丸めた朝食のおにぎりを、ミネストローネに突っ込もうとしている。
「華、ごはんで遊ばないよ」
そう言った途端、華はまた火がついたように泣き出した。
「あーもう、ごめんごめん！分かったよ、もう好きにして…」
心が折れ、そう撤回してみるものの、華の癇癪はおさまらない。
トイレトレーニングどころか、“魔の2歳”とも言われるイヤイヤ期に振り回される私は、このところ、不安と焦りと自己嫌悪に押しつぶされそうな毎日を過ごしている。
― どうにか華を一貫校に入れたいって言ったのは、大樹なのに。どうして人ごとなんだろう…。
無言のまま、こぼれたオレンジジュースを拭いている間に、大樹はいつのまにか仕事に出かけていた。
小受のための幼受も、幼受のためのお教室も、すべてが私一人の肩に重くのしかかっている。
華本人の意思を尊重したい気持ちと、幸せな人生を与えてあげたいと願う気持ちは、自分の方が強い自信だってある。それなのに…。
大樹の先ほどの、恐ろしい怪物でも見るかのような、私に対するあの眼差し…。
思い出すだけで、またしてもムカムカした気持ちが湧きおこってくる。
私はスマホを取り出すと、ミネストローネをひっくり返した華の泣き声が響き渡る中、敦子さんとマリエさんとの3人のグループLINEを開いてメッセージを送った。
『今晩、楽しみにしてます』
◆
18時。私たちは『ホテル椿山荘東京』のホタルの夕べ ディナービュッフェを訪れていた。
陽が落ちかけ薄暗くなり始めた庭園には、すでに幻想的な薄緑の光がちらちらと瞬きはじめている。
イヤイヤ期真っ只中の華も、翔子ちゃんとエミリちゃんがいるからか、バイキングで好きな食べ物だけを食べているからか、ニコニコとご機嫌だ。
「最近、本当にストレス溜まってて…。敦子さん、マリエさん、今日は素敵な企画に誘ってくれてありがとう〜！やっぱり、ママの悩みはママ同士でしか解消できないんだよ…！」
グラスに注がれたスパークリングを見つめていると、塞いでいた気持ちも、大樹への不満も、パチパチとした泡が爽快に弾き飛ばしてくれる気がした。
「だって葉月さん、有栖川公園のベンチで浮かない顔してるんだもん！
でも、分かる分かる。そろそろ説明会の申し込みとかも始まるし、本番〜って感じでストレス溜まるよねぇ」
ほとんど半泣きの私に、マリエさんはケラケラと笑いながらも同調する。敦子さんも、上品な微笑みを浮かべながら頷く。
「今日だけは全部忘れて楽しみましょ！…とかいって、この椿山荘のホタル鑑賞も、お受験組の夏の定番アクティビティーなんだけど。
食事が終わったら、ビオトープの方まで散歩しようね」
宝川先生からの指導があった先週。私が落ち込んでいるのを見かねて、二人が今日の会を企画してくれたのだった。
お受験や育児のグチを言いながら、私は素晴らしい同志たちに巡り会えた幸運に感謝する。
だからこそ、先日の面談の際に宝川先生から投げかけられた“あの質問”の意図は何だったのか、私はなおのこと気になってしまっていた。
◆
自宅でも、トイレトレーニングに励むこと。
それを伝えるための面談は、意外なセリフが続いていたのだ。
「そういえば、華ちゃんのお母様。翔子ちゃんのお母様のご紹介でご入会されたから、それは分かるんだけれど…。
エミリちゃんのお母様とも、3人で仲良くしていらっしゃるの？」
「え？はい。赤ちゃんの時から、仲良くさせていただいていますけど…」
「そう…」
「…？」
そんな意味ありげな宝川先生の沈黙で、面談は締め括られていたのだった。
◆
トイレトレーニングへの焦りで頭がいっぱいだったため、深く考えていなかった。けれど、今こうして3人集まって楽しい時間を過ごしていると、あの質問、沈黙が妙に気になってくる。
― マリエさんが送迎の半分以上をシッターに任せているから、良く思ってないとか…？ううん、でもそんなこと、何か言われるようなことでもないし…。
色々と思いを巡らせてみるものの、全く分からない。
幻想的なホタルの光が飛び交う庭園をゆったり散歩しながら、私は「まあいっか」と考えを手放した。
いつのまにか庭園はすっかり真っ暗だ。
時計を見ると、まもなく20時になろうとしている。普段であれば、華はもう寝ている時間だった。
「華、そろそろ帰ろうか」
私は少し先を歩いていた華のところに駆け寄り、手を握る。
その時だった。
背後から、大きな女性の声が響き渡った。
「なんでそんなことするの…っ！？」
驚いて振り返った私は、更なる驚きに身を固くする。
静寂に包まれた、美しいホタルの夕べを引き裂いた声…。その主は、あの柔和な敦子さんだったのだ。
「信じられないっ！」
しかも、敦子さんが怒鳴りつけている相手は、あろうことかマリエさんだ。罵声を浴びているマリエさんの方も、毅然とした態度で対峙している。
さっきまでの穏やかで幸福な時間が嘘だったかのような、険悪なムードが流れる。
「ちょっと、二人とも…どうしちゃったの！？」
私は華を抱き上げると、何が起きているのかも分からないまま、急いで二人の元へと駆け寄った。
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