雑誌から抜け出したかのような、美男美女の夫婦。

豪邸に住み、家事や子育てはプロであるハウスキーパーに任せ、夫婦だけのプライベートタイムを満喫する。

世間は、華やかな暮らしを送るふたりを「プロ夫婦」と形容し、羨望のまなざしを送っている。

法律上の契約を不要と語り、「事実婚」というスタイルをとる、ふたりの行く末とは?

◆これまでのあらすじ

慎一と美加は、SNSで多くのフォロワーを集めるインフルエンサーカップル。ある日、慎一は美加から他の男の子どもを妊娠したと告げられてしまう。悩みながらも今の生活を続ける決意をする慎一だったが…。

▶前回:「お腹の子の父親はあなたじゃない」最愛の妻の告白に絶句する夫。悲しみのあまり夫は…




Vol.7 すれ違うふたりの心 〜 美加の内心 〜


湘南へのプチ旅行以来、美加のつわりの症状は軽くなっていた。

美加は、ふと気づく。もしかしたら、ここ数日悩んでいた胸や胃のモヤモヤはつわりではなかったのかもしれない、と。

思い当たる理由はひとつ。あのことを慎一に告げたから。

― 慎ちゃん、戸惑ってたな…予想してたコトだけど。

「浮気相手との間に出来た子どもを一緒に育ててほしい」

この想いが身勝手なお願いであることは、美加自身もわかっている。だが、慎一なら最後には理解してくれるだろうと信じていた。

人の一歩先を行く特別な存在になりたい…、この慎一の強い欲望を、美加はいつも隣で受け止めていた。

だからこそ、この特別な状況も受け入れてくれるのではないか、と美加は考えていた。

だって慎一は、“ネオ・シナジー婚”という新しい夫婦の価値観を提唱するくらいなのだから――。

そうは言っても実際のところ、価値観や感覚は一般的な慎一。告白後は、ショックを受けているように美加の目には見えた。

「起きた?朝ごはんできたよ」

慎一が、呼ぶ声が聞こえる。美加はベッドから起き上がり、ダイニングへと向かった。

ダイニングテーブルの上には、ヨーグルトのかかったパイナップルやオレンジ、リンゴなどのフルーツが用意されていた。

「おはよう美加。今日も綺麗だね」

彼はあんな告白の後でさえも、私に優しい…、美加はそう思った。


朝ごはんは各々が用意する。これが、慎一と美加夫妻のルールだった。

しかし妊娠告白後は、美加の体調を気遣い、慎一は家族分の朝食を用意してくれるようになっていた。

「いただきます」

朝日を背に、朝食をとる美加のシルエットを、慎一は逃さずファインダーに収めた。美加は背筋を伸ばして、当然のごとくその中の住人を演じる。

― ああ、幸せ…。

美加は慎一のことを、一緒にいて楽しく、パートナーとしても、家族としても、申し分ない相手だと、大切に思っていた。

互いに心は結ばれながらも、他の相手との自由恋愛を認めた契約結婚をし、生涯を全うした哲学者・サルトルとボーヴォワール。彼らもまた、多くの人から理解されなかった。

他人には理解するのが難しい関係かもしれないが、最期まで慎一と添い遂げたい、と美加は考えていた。

― 事実婚を選んだのは、契約よりも心でつながっていたかったから。愛しているのは、慎ちゃん。だけど恋をしているのは…。




不気味な家政婦の誘惑


プチ旅行後、はじめての里実の出勤日。

慎一は、里実と顔を合わせないよう彼女の出勤より早く外出し、退勤時間を過ぎてから帰宅した。

だが、リビングの扉を開けると、里実がそこに立っていた。

「だから、言ったじゃないですか…」

目が合った途端、里実に詰め寄られる。彼女は長い前髪の隙間から、勝ち誇ったような目線を慎一に送っている。

「なんのこと…?」

「美加さんのお腹の子どものことです。やっと本人から聞きましたか」

里実は体を寄せ、上目遣いで舐めるように慎一を見上げた。最近は、彼女の態度が大きくなっている。

「知ってたのか?」

「私、ハウスキーパーですよ。意図せず、知ってしまうことも多いんです。美加さんの依頼で、ホテルのお部屋まで書類を届けたことがあって。そのとき、明らかに仕事相手ではない素敵な男性と一緒にいたんです」

それ以前から慎一以外の男性の痕跡を掃除中などに見つけていた里実は、その現場を見た瞬間、「すべてがつながった」と感じたという。




里実は、美加がホテルで別の男といたのを目撃した翌日、「一緒にいた男性は誰ですか?」と彼女に尋ねた。

すると、美加は隠す素振りも見せず「恋人」だと里実に告げたという。

「それ以来、美加さんは開き直った様子でした。私に、恋の相談までしてくるようになりましたから。だから、お腹の子どものことも、彼女から聞いていたんです」

慎一は、ようやく合点がいった。

― だから美加は、里実のことを「口が堅い」「プロ意識が高い」と褒めていたのか。

「あなたたち2人に幻滅しました。素敵な夫婦だなって憧れていたので。でも、ちょっと嬉しかったんです。

キラキラした完璧な夫婦の姿をインスタにあげてましたけど、やっぱりそんな理想的な夫婦なんて存在しないってわかったから」

「…だから、面白半分で僕を誘惑してみたってことか」

「それは違います!」

里実はきっぱりと言い切った。そして、慎一の手をぎゅっと握りながら言った。

「私が慎一さんを好きな気持ちは、嘘じゃありません。ただ、かわいそうな人だなって思ってます」

里実の言葉を聞いた瞬間、どうしようもない屈辱感が慎一を包んだ。

彼女の手を振り払おうとしたその時、玄関の扉が開く音がした。


「パパー、ただいま」

廊下を歩く華と美加の足音が、だんだん近づいてくる。

慎一は里実の手を振り払い、何事もなかったかのように2人を出迎えた。そして、「今日もありがとう、おつかれさま」と、里実に帰宅を促した。

帰り支度を済ませた里実は、「では、失礼します」と言いながら、美加に挑発するかのような視線を向けた。

だが、美加は気づいていない。



美加が、華と早々に帰宅したのには理由があった。

近所にある華が大好きなレストラン『REI Chinese restaurants』に行き、そこで美加が妊娠していることを告げる予定なのだ。

だが、父親が慎一でないことは伝えない。これは、2人で話し合ったうえでの結論だった。

― 自分さえ、この状況をのみこめば、すべてうまくいく。

慎一は、自分に言い聞かせた。

正直なところ、慎一は事実婚状態を当初は受け入れられなかった。

だが、今はその素晴らしさをアピールするようになっている。この状況もいずれ、きっと楽しめるようになるはずだ、と慎一は考えている。

― 大丈夫。僕は、かわいそうなんかじゃない…。




お店の名物であるエビのマヨネーズソース和えを、華と楽しそうに食べる無邪気な美加の表情を、慎一はいつものようにカメラに収める。

そして、多少の加工を施したのち、翌日には仲睦まじい家族の肖像としてSNSに投稿する予定だ。

食事も落ち着いたころ、美加は華にこう語りかけた。

「実はね、お母さん、お腹に赤ちゃんができたの」

「え、華に妹か弟ができるの?やったやったー」

店内に響くほどの嬉しそうな声を上げる華をいさめながらも、美加は笑顔で慎一に目配せをする。

「だから華、これから大変になるから、家族みんなで協力して行こうな」

「うん!」

愛くるしい華の表情を見る限り、慎一が父親であることを疑ってはいない…。

というより、まだ子どもだ。複雑な慎一と美加夫妻のスタイルを、理解できる年頃ではないのかもしれない…と、慎一は考えていた。




手をつなぎながら、3人は家路を歩いていた。

スキップする華を見守る美加の表情は、何の淀みもない無邪気な笑顔だ。

そんな様子を見て、慎一はますます美加の本心が、わからなくなってきていた。

表向きには聡明で常識的な美加が、慎一とは別の男との間に出来た子どもを、夫婦一緒に育てようと言う。

一般的な価値観で考えれば、狂気としか言いようがないと慎一は感じていた。

だが「多様な、新しい価値観」と言われると、自分の考えが間違っているのではないかと戸惑ってしまう慎一がいた。

慎一は、“ネオ・シナジー婚”をはじめとする、新しい価値観を提唱する自身の言動を後悔し始めていた。

だがここで、これらの発言を撤回するわけにはいかない。それは、慎一のインフルエンサーとしての矜持でもあった。

― とにかく、今後のためにも、美加とよく話し合わないと…。

慎一は、想像することを嫌悪し目を逸らしていた問題に、向き合うことをやっと決意した。

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美加と徹底的に話し合おうとする慎一だったが、ある事実が彼を苦しめる…