「早生まれの子は、名門幼稚園に入れない…？」地方出身女が知った、お受験戦争の残酷な事実
「この子のためなら、何だってしてみせる…」
公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。
そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。
──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。
これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。
◆これまでのあらすじ
葉月は華（1）を連れて、ママ友に紹介してもらったお受験塾「ほうが会」の見学へ。しかし、早くも先生から「合格は難しい」と言われてしまう。
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Vol.5 “ご挨拶”の心構え
「先生さようなら！みなさま、さようなら！」
ピアノが奏でるミソド、ファソシ、ミソドの和音と共に元気な挨拶が聞こえたかと思うと、「ゾウさんのおへや」から子どもたちが飛び出してくる。
「華、今日も楽しかった？」
「ママー、たのしかった！！」
飛びついてきた華を抱きとめて尋ねると、いつも通りの答えが返ってきた。
ほうが会前のタコ公園では、河津桜が満開の見頃を迎えている。
今は4月。華は2歳を迎え、ほうが会に通い始めてから早5ヶ月が経っていた。
「お母様、華ちゃん絶好調ですよ。ほら、ご覧になって。色使いが、とってものびのびしてますでしょう」
そう言って宝川先生が差し出してきたのは、一枚の画用紙だ。
一面青に塗られた紙面に、色とりどりの魚たちが大胆な色使いで描かれている。華の天真爛漫さがよく表現されているように思えた。
「わぁ…！華、上手に描けたねぇ！」
初めのうちは、慣れない母子分離で泣くこともあった華だったけれど、今は、のびのびといいところを伸ばしてもらっている。
― このお教室に通うことができて、本当によかった…！
生命力溢れる水彩画を見つめながら、私は改めて、しみじみとこの幸運を噛み締める。
しかしそんな私に向かって、宝川先生は細めた目の奥を鋭く光らせながら耳打ちをする。
「いよいよ今日ね…。ご準備は大丈夫ね？」
「はい。すべて宝川先生のおっしゃる通りに進めています…！」
華の手前、私も笑顔のまま声をひそめて答える。そして、小さく頷く宝川先生を見ながら、5ヶ月前のことを思い返していた。
◆
「正直に申し上げます。華ちゃんの幼稚園受験、かなり厳しいわ…」
ほうが会の見学に行ったあの日。宝川先生は眉根を寄せて、そう言った。
― え…？
身体中の血の気が引き、高まっていた期待が一気に地へと引きずり落とされる。
― どうして…？私、何かしてしまった？やっぱり、お礼の5万円が全然足りなかった…！？
渡したばかりのヨックモックの袋に慌てて目をやったが、封筒は開けられてもいない。
「なぜ…ですか？」
どうにか声を絞り出して尋ねる私に、宝川先生は憐れみにも似た眼差しを返す。そして、持ち歩いていたファイルの中からある書類を取り出し、机の上に広げた。
「お母様もお父様も、東京のかたではいらっしゃらないのね」
机の上に広げられた2枚の紙。それは、事前に送付するように言われていた、調査票という名のアンケート用紙だった。
そこには、私と夫の大樹の、幼稚園から大学までの学歴、職歴…そして、華の第1から第3までの志望園が記入してある。
「両親が東京生まれじゃないと、合格できないんですか？」
すがるように問う私に、宝川先生は淡々と答える。
「決してそういうわけではないのよ。けどね、ご希望の園は3園とも、どうしてもご卒業生のご子息に有利な状況が続いているの」
希望する3園は、大樹とよくよく話し合ってピックアップした園だ。
どこも歴史と伝統があり、昔ながらの保守的な園風。
そして…幼稚舎や学習院、青学、聖心などへの合格者数が、いわゆる普通の“ご近所園”とは比較にならないほど多いと聞き、高望みであることを承知の上で記入したのだった。
「そう…なんですか…」
私は落胆を必死で隠しながら答える。けれどそんな私に、宝川先生は追い討ちをかけるように続けた。
「それにね。華ちゃん、早生まれさんね」
私は、ガックリと肩を落とす。
そうなのだ。華は2月生まれ…まだ1歳だ。
9月生まれの祥子ちゃんやエミリちゃんと一緒に遊んでいても、同学年とは思えない。発達に差があることは、親の目から見ても明らかだった。
受験の秋は、2歳で迎えることになる。
厳しい戦いになることはなんとなく予想していたけれど、やはり無理なものは無理というわけだ。
「やっぱり、早生まれだと厳しいですよね…」
いたたまれなさを覚えた私は、そそくさと身の回りのものをまとめ始める。
しかし宝川先生は、書類に目を落としたまま相変わらず淡々と、意外な言葉を発するのだった。
「ご両親はご出身者ではなく、お嬢様は早生まれ…。ええ。とても、とても、厳しいわ。
でもね、そんな中でもできることを精一杯やりましょう。そのために、わたくしどもがいるんですもの」
「え…？」
暗に入会を断られたものと早合点して、ソファから腰を浮かせたまま、私は固まる。
「お母様。精一杯お力になれるように、お手伝いさせていただきます。わたくしどもを信じて、一緒に頑張ってくださいますわね」
そう言って宝川先生は、ようやく顔をこちらに向ける。
そこには、子どもたちにむける花のような柔らかな笑顔とはまた違う…魔力にも似た何かを感じさせる、力強い笑みが浮かんでいた。
◆
「家族写真、身上書のご準備も大丈夫ね？」
「写真は、伊勢丹写真室で撮りました。鳩居堂の身上書に、医師だった曽祖父や、会社役員の大叔父まで書きました」
「お召し替えもされるわね？お父様もご都合つきました？」
「はい。このあと家に帰って、華も私も着替えます。主人も休みを取りました」
私と宝川先生は、細かく頷き合った。
ほうが会に入会して以来、私は、ほうが会の指示に従いながら、幼稚園受験の準備に取り組み続けている。
そして今日は、その大きな第一歩ともいえる大切な日。
第一志望園の園長先生への、ご挨拶の日なのだ。
宝川先生との最終確認を終え、ほうが会から自宅に帰ってきた私と華は、紺色のフォーマルに着替えた。
ほうが会の送迎のときは案外カジュアルで、白などの明るい服を着ることが多い。久しぶりに紺色のスーツに身を包むと、否が応でも身が引き締まる思いがした。
けれどそんな私とは対照的に、園に向かうまでのタクシーの中で、大樹はまるで人ごとのようだ。
「いやー、親が園長先生にご挨拶。幼受！って感じだよねぇ」
思わずイラッとしてしまった私は、それを隠さないまま大樹に伝える。
「ねえ、少しは緊張感持ってよ。卒園生でもない私たちがご挨拶の機会を得られたことだけでも、ものすごくラッキーなことなんだよ？」
名門幼稚園の中には、秋の本番を迎える前…GWまでを目処に、あらかじめ“ご挨拶”に行くことが暗黙の了解になっている園がある。
そんなことすら知らなかった私たちが、こうして最初の一歩目のチャンスを掴めた。電話をかけるタイミングやマナーなど何から何まで、ほうが会のアドバイスに従って、どうにか掴んだ幸運だった。
「は〜、ありがたいですねぇ」
気の抜けた大樹の返事にますますイラッとしたものの、ちょうどタクシーが園の近くの交差点へと到着する。
― まったくもう…。
心の中でぼやきながら下車した、その時。
「あっ…！」
私は、幼稚園の門から出てきたある人物を見つけて、思わず声を上げた。
「敦子さん！翔子ちゃん！」
門で深々とお辞儀をし、楚々とした佇まいでこちらへ歩いてくるのは、敦子さん一家だ。
そういえば、今日のほうが会には翔子ちゃんが見当たらず、どうしたのかとは思っていた。
まさか、同じ日に、同じ園にご挨拶だったなんて。
不安な気持ちの中で友人に会えた嬉しさが込み上げ、敦子さんたちの元へと小走りに駆け寄りたくなった。
すれ違いざま、声をかけようとしたのだが…。
私たちに気がついた敦子さんは、姿勢も表情も緩めずに、他人行儀な会釈をするのだった。
よそよそしさに凍りついた私だったが、すれ違う瞬間、敦子さんは小さな声で「頑張ってね、リラックスだよ」と声をかけてくれた。
途端に、自分が無性に恥ずかしくなる。
― そうよ。ご挨拶を無事済ませたからといって、ここは園のすぐ近く。どこで関係者に見られているか分からないじゃない！
フォーマルに身を固めた敦子さん一家は、遠目から見ても“完璧”だった。
たしか、ご主人はこの園の卒業生でもあったはず…。
それなのに、いつだって気を抜かず、謙虚に、全力で努力する。そんな敦子さんたちを見て、私の胸は不思議と熱くなるのだった。
― ああいう人が、幼受で成功を掴むんだ…！
遠ざかっていく敦子さんたちの凛とした背中に見入っていると、突然、肩をわしっと大樹に掴まれる。
「ほら、緊張感、緊張感！」
「ウルサイ」
私は小さく悪態をつきつつも内心、現実に引き戻してくれた大樹に感謝した。
敦子さんたちのぬかりない所作を目にしたことで、私も大樹も、いつのまにか背筋がピンと伸びていた。
自然と、華を真ん中にして3人で手を繋ぐ。そして、まじないのように華の髪を撫で付け…。
熱望する幼稚園の中へと、足を踏み入れた。
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第一志望園の園長先生へのご挨拶。そこで言われた、呪いのような一言
