恋に仕事に、友人との付き合い。

キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。

すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす?

▶前回:35歳独身の女社長。仕事と恋も絶不調の女が一目惚れした“特別なモノ”とは?




東京の中心で、静寂に包まれる夜


「はぁ〜。疲れた…」

美冬は肩にかけていたロエベのバッグを床にドサリと置き、着替えもしないままソファに横たわった。

時計を見ると時刻はもうすぐ23時を回ろうとしていた。最近は、この時間まで残業をする日が増えている。

美冬は29歳、IT企業勤務だ。

会社が新たなWebメディアを立ち上げることになり、美冬はそのプロジェクトに抜擢され、4ヶ月ほど前に部署を異動した。

多忙な日々を送るなかで、コロナ禍の影響もあり、以前は趣味だった旅行や温泉巡りに1年半以上出かけられていない。

「もう!なんでこんなに仕事ばっかりしなきゃいけないのよ!」

ムシャクシャした美冬は、こんな時こそ女友達を食事に誘って気晴らしでもしたいと思い、カバンの中からスマホを取り出した。

しかしその瞬間、あることを思い出す。

― そういえばこの前、茉莉花に送ったLINE、返信が来てないなぁ…。

1週間ほど前に美冬は『今度、飲みにでも行こう』と茉莉花に連絡していたのだ。

茉莉花とは、美冬の大学時代からの友人だ。彼女も美冬と同じく独身でキャリア志向が強く、新卒の時からずっと広告代理店で営業の仕事をしている。

もともと2、3ヶ月に1回くらいの頻度で食事やイベントに一緒に行っていたが、最近は美冬が忙しくしていたので、半年ほど会っていなかった。

ふと茉莉花のことが気になった美冬は、Instagramを開く。すると、衝撃的な投稿を見つけてしまった。

― えっ、どういうこと…?

タイムラインを見ると茉莉花のアカウントから、何やら肌着のようなものをベランダに干している写真が投稿されていた。

キャプションには『#世界一幸せな洗濯』と書かれており、その文字を見た瞬間、美冬は彼女の近況を悟る。

茉莉花は、美冬の知らない間に妊娠していたのだ。


友人の妊娠を知ってしまった美冬。心のなかには“ある感情”がこみ上げる…。


美冬は驚きのあまり、居ても立ってもいられなくなった。思わず、茉莉花に電話をかける。

「もしもし、茉莉花?遅い時間にごめんね。…インスタ見たよ。妊娠してたんだね、おめでとう。…っていうか、いつ結婚したの!?」

美冬のうろたえた様子を察し、茉莉花は少し気まずそうに返事をする。

「あぁ…直接伝えられなくてごめんね。LINEも返そうと思ってたんだけど、何て言えばいいのか迷っちゃって…」

「ううん。私は、全然大丈夫だから…」

話を聞くと、茉莉花は昨年の春頃からいい感じの彼がいたそうだ。そのまますぐに妊娠し、トントン拍子で結婚。再来月には出産予定だという。

恥ずかしそうに語る彼女の声色からは、隠しきれない“幸せ感”がにじみ出ていた。

電話を切ると、美冬はスマホをながめてため息をつく。

茉莉花の妊娠は、もちろん心から祝福している。しかし、美冬の心のなかには抑えることのできないモヤモヤがあふれていた。

「私の人生は、このままでいいのかなぁ…?」

仕事が大好きで「結婚願望なんてない」と言っていた茉莉花でさえ、人生の次のステップに上っているのに。

自分は仕事の忙しさを理由に、人生に向き合うことから逃げているのではないか、そんな思いが頭をよぎる。

― だとしたら、私は何をすればいいの…?

そんなことを考えながら、気がつけば美冬はそのままソファで眠ってしまっていた。




それから1ヶ月後。

「すごい…こんな都心に、素敵な温泉旅館があったんだ…」

美冬は世田谷代田にある旅館「由縁別邸 代田」に訪れていた。

茉莉花の妊娠は美冬にとって、正直、かなり衝撃的な出来事だった。雑念を整理するために、いっそのこと一人旅をしてみようと思ったのだ。

最初は、箱根や近場の温泉リゾートを調べていたが、不意にこの旅館を見つけてしまった。都内なのに静寂に包まれた雰囲気に惹かれて、すぐに予約をしたのだ。

暖簾をくぐり旅館の中に入ると、まるで日常から切り離された穏やかな空気に包まれる。

美冬は客室に着いて荷物を置くと、楽しみにしていた“ある場所”へ向かった。

― ここか…。

美冬が訪れたのは、旅館の離れにある「SOJYU spa」。由縁別邸の世界観とつながるようにつくられた、和風で落ち着いた雰囲気のスパだ。

個室の中に入ると、シトラス系のほのかな香りが鼻の奥をくすぐる。

ずっと忙しく身を削って働いてきた美冬にとって、スパでアロマトリートメントの施術を受けることは、ここ半年ほどの念願だった。

「あぁ…気持ちいい〜」

うつ伏せになった背中に、手のひらの心地良い圧を感じながら、美冬は思わずまどろんでしまう。

― 最高にリラックスできるなぁ。でも、まだ楽しみはこれから…。

スパでの施術を受けたその足で、美冬は温泉へと向かう。


ご褒美のひとり旅館ステイ。そこで美冬が心に決めた“人生の決断”とは?


「わぁ!すっごく素敵な温泉…」

目の前には、緑の鮮やかな中庭が一望できる大きな湯船が広がっていた。

平日に休みを取って来ていたので、大浴場には人がほとんどおらず、貸し切り状態。

美冬は静かな空気のなかでゆっくりと湯船に浸かる。頭のなかを空っぽにしようとするが、その時、再び“例の悩み”がよぎった。

― これからの人生、私はどんな道を選べばいいのかな…?

それはこの2〜3年、美冬が何度考えても答えを出せなかった悩みだった。

― そろそろ、自分のなかで決断をしないといけないタイミングなのかもしれないな…。

そんな思いを抱えたまま温泉から上がると、美冬は旅館内の『茶寮 月かげ』に入っていく。




「どのメニューも、本当に美味しそう…」

ネットで見た情報で、抹茶のスイーツが有名だと知っていた。けれど、実際にメニューを見るとどれも魅力的で目移りしてしまう。

悩んだ末、美冬は抹茶のわらび餅とほうじ茶を選んだ。手元に運ばれてくると、キラキラしていて宝石のようにも見える。

一口頬張ると、抹茶の深みのある香りと、苦味と甘味が混ざり合う複雑な味わいが口の中いっぱいに広がり、美冬は思わず微笑んでしまう。

― 私、いま、幸せじゃん。

わらび餅がつるりと喉を過ぎたとき、美冬は悩みを解決するヒントを見つけられたような気がした。

この先の人生、悩むことがあっても、その時自分に与えられたことを一つ一つ努力したり、楽しんだりして乗り越えていけばいいのだ。

もし、少し疲れたら、今日みたいに“自分へのご褒美”を用意すればいい。

自分と他人を比べる必要なんてない。

― 私、やっぱり、今は任されている仕事を頑張ろうかな。

美冬の心のなかに立ち込めていたモヤモヤは、すっきりと晴れていった。



そして、その翌週。

美冬が出社すると、上司が意味ありげな表情で手招きをしてきた。

「美冬。ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」

もしかしたら悪い知らせかと思い、美冬が緊張した面持ちで会議室に入ると、上司から告げられたのは意外な内容だった。

「もし良かったらなんだけど…。今、立ち上げを頑張ってくれているWEBメディアの件、美冬に編集長を務めてもらえないかなと思ってるんだ」

「えっ!?本当ですか…?」

美冬は予想外のことに驚きを隠しきれなかったが、心の奥底では自分を認めてもらえた嬉しさと、闘志のような気持ちがこみ上げてくるのを感じた。

「はい。ぜひ、私にやらせてください!」

そう勢いよく返事をすると、美冬は早速デスクに戻り、記事の企画をまとめ始める。

『頑張っているあなたに、とっておきのご褒美。旅館ステイのすすめ』

小気味よいリズムで、そうWordファイルにタイトルを打ち込んだ。

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