「喉から手が出るほど、欲しい――」

高級ジュエリーに、有名ブランドのバッグ。

その輝きは、いつの時代も人を魅了する。

しかし誰もが欲しがるハイブランド品は、昨今かなりの品薄状態だ。

今日もショップの前には「欲しい」女性たちが列をなし、在庫状況に目を光らせている。

人呼んで「ハイブラパトローラー」。

これは、憧れの一級品に心を燃やす女性たちのドラマである。

▶前回:これってモラハラ?1歳児の世話でヘトヘトの妻に、夫は笑顔で信じられないことを提案し…




メガバンク勤務・涼子(33)
ふさわしい女【シャネル トップハンドル フラップ バッグ】


― やった!

涼子は、シャネルのオンラインストアを見ながら、心の中でガッツポーズをした。

今日は、表参道店とオンライン限定のコレクション、“カラー コード”の発売日だ。

大手町のメガバンク本店で働く涼子は、もちろん店舗に並ぶことはできない。

だからオンラインで人気色“バレリーナ”のコンパクトミラーを買おうと、朝から仕事の合間にスマホをチェックし続けていたのだ。

販売開始時間にはウェブサイトがパンクしてアクセスできず、15時になってようやく購入することができた。

― 私、ついてる!コンパクトミラーも買えたし、そろそろ出かけよう。

涼子は、タクシーで融資先の洋菓子店との打ち合わせに向かうことにした。その洋菓子店は、関西から初の東京進出を果たしたばかりだ。

バンカーの醍醐味と言えば、大きな金額を動かし、日本を揺るがすような大取引をすることだと思われがちだが、涼子は融資先の人となりがよく見える中小企業との仕事が大好きだ。

移動中、タクシーの中からシャネル銀座ビルディングを眺めると、ため息をつく。

数年前に天王洲アイルで行われた「マドモアゼル プリヴェ展」に行ってから、涼子はシャネルに憧れている。

特に、その時にマネキンが持っていた、コロンとしたフォルムのトップハンドル フラップ バッグ、通称ココハンドルに心を奪われてしまった。

― 今年こそ、ココハンドルを買えますように。さあ、気持ちを切り替えて、仕事しよう!


融資先の洋菓子店に着くと、オープンからもう半年が経つのに行列ができていた。

― やっぱり、私の読みは正解だったわ。

当初、行内では融資に消極的な意見が多かった。関西では有名な店だったが、銀座出店は無謀、といわれていた。

それでもオーナーの東京進出への思いを聞き、これは絶対に成功させなくてはと思った涼子は、時間を決めて、出来立てのフールセックを販売するスタイルを提案。

それが功を奏し、安定した集客につながっている。

涼子は従業員用出入り口に回り、休憩スペースでオーナーを待った。

「お世話になっております」

オーナーの奥さんがお茶を出してくれる。

心地のよい関西のイントネーションを聞きながらお辞儀をすると、キルティングのココパンプスが涼子の目に入った。

「素敵なお靴ですね。私、実はココハンドルが欲しいのですが、いつも入荷がなくて」

思わず声をかけると、奥さんの表情が和らいだ。

「ココハンドル!あれは良いお品ですわ。担当さんには伝えてあります?」

「担当さん?」

涼子が首をかしげると、奥さんが教えてくれた。

「シャネルに行ったらね、必ず決まった店員さんに相談しながら買い物すると良いですよ」

― そんなシステムなんだ。『担当さん』ってそういう意味だったのね。

Instagramでよく見る『担当さん』という言葉と、奥さんの言葉が涼子の中でつながった。

「それはつまり…」

涼子は詳しい話を聞こうとしたが、ちょうどオーナーが応接室に入ってきた。




「銀行さん、店頭、ご覧になりました?銀座店も順調な滑り出しで何よりです」

オーナーが、挨拶もそこそこに話を切り出す。

でな、とオーナーが身を乗り出す。

「店の認知度を上げるために、私の自伝でも出版したらどうかな、と思っとるんですけどどうです?」

思わず涼子は言葉に詰まる。

「認知度を上げるのでしたら…例えば季節限定で冷菓やホットドリンクのイートインコーナーを設けるなど、他のアプローチもありますし…」

「ほら、銀行さん困ってはるやないの。あんたの自伝なんて、誰も読みませんよ」

奥さんが助け船を出してくれる。

だめかー、と大げさにのけぞったオーナーが突然、涼子をまっすぐに見て言う。

「あんた、銀行から独立して、自分で商売やればいいのに。金動かすより、小さい商売動かす方が好きなんちゃうん?」

「またまた〜」

涼子も笑うが、内心ドキッとした。

― 確かに、お金自体にはあまり興味はないわね。でも、メガバンクにいるからこそ、こんな仕事のチャンスもめぐってくるんだもの。独立なんて無理無理!

涼子は、打ち合わせでいくつか事務的なことを確認し、シャネルについては詳しく聞けずに洋菓子店を後にした。




― まずは、担当さんづくりよ!頑張れ、涼子!

仕事が休みの土曜日、涼子はシャネル 銀座のブティックに来ていた。

頭の中で、自分の給与と支出のバランスをざっくり計算し、少し心配になる。

― ココハンドルの分しか引当金を計上していないから、出費、大丈夫かな?

開店と同時に入店した涼子は、幸いにもすぐに店員さんに声をかけてもらえた。

「あの、ピアスを見たいのですが…。あ、コスチュームジュエリーです」

ハイジュエリーコーナーに案内されそうになるのを慌てて止め、小さな声で言う。

いくつかピアスを見せてもらい、気に入ったものの購入を決めると、店員さんが、カメリアやココマークがあしらわれたロングネックレスを勧めてくれた。

― なんて素敵なの!でも怖い。いくらなんだろう。

「わあ、かわいい!これもお願いします!」

挙動不審になりそうになるのを必死にこらえ、涼子は努めて明るく言った。

「素敵なものを選んでくださり、ありがとうございます!またいろいろ選んでいただきたいので、お名刺いただけますか?」

「わ、わたくしですか?」

店員さんは、前のめりな涼子に驚いていたが、愛らしいカメリアがついた紙袋と一緒に、名刺を渡してくれた。

― ふう。担当さんづくりは、ひとまず成功よね。

冷や汗をかきながら、涼子はブティックを後にした。


― 今月は、いくらシャネルに使えるかな?

この数ヶ月というもの、涼子は名刺をもらった店員さんあてに来店し、買い物を繰り返していた。

スタバでコーヒーを買うのはやめ、自炊を徹底し、できる限りの金額をシャネルに割いている。

― どれも可愛くて、買って良かったものばかりだけれど、ココハンドルっていうゴールがなかったら、本当にこんなペースで買い物しているかな?

時折疑問が頭をかすめるが、走り出してしまった涼子は、もう止まれない。

「いらっしゃいませ!お待ちしておりました。今日はおすすめのTシャツがございます」

今日も、銀座ブティックを訪れた涼子に、強引に『担当さん』に任命した店員さんが、にこやかに話しかけてくれる。

― シャネルのプレタは一度袖を通したら買わずにはいられないクオリティーの高さって言うのよね。

ドキドキしながらカメリアモチーフのついたTシャツに袖を通すと、そのうわさも納得の縫製のきめ細かさと着心地の良さだった。




一気に気持ちが華やぐが、同時に涼子の頭の中で、電卓がカシャカシャと動く。

― 来週のお食事会をパスすれば、ネイルとトリートメントは必要なくなる。そうしたら、切り崩す貯金の額も最小限で済むかな?

ブティックを見渡すと、品がよいオールシャネルコーディネートの女性が、ソファ席でタブレットを見ながら、次のシーズンのコレクションを予約していた。

― あの人、なんて幸せそうな顔して買い物しているんだろう。

鏡で自分の浮かない顔を見た涼子は、我に返った。

― 私、シャネルとずっと付き合っていきたい。それなのにこんなに苦しい買い物をしていて良いのかな?

担当さんに、涼子は正直な気持ちを打ち明けた。

「これ、やめておきます。なんか、苦しくなっちゃった」

担当さんが驚いている。

「いろいろな物を選んでいただいて、憧れていたシャネルがもっと好きになりました。ずっと付き合っていきたいブランドです」

着てきたファストファッションのニットに急いで着替え、Tシャツを返すと、涼子は涙が出そうになった。

「必死でシャネルを買い集めて幸せな人もいるのかもしれません。でも私、最近はシャネルとお金のことばかり考えていて…なんだかつらくなっちゃった」

意外にも担当さんはにこやかにうなずいてくれた。

「承知しました。また、いつでもいらしてくださいね!」

「はい、シャネルにふさわしい女性になって、出直してきます!」

気持ちを吐き出してしまい、涼子はすがすがしい気持ちでブティックを後にした。




3年後、涼子は久しぶりにシャネル銀座ビルディングの前に立っていた。

最後にブティックを後にしてから半年後、涼子は金融コンサルタントとして独立した。

死に物狂いで働いたおかげで、何とかビジネスも順調だし、ついこの前、久しぶりに恋人もできた。

今では、銀行員時代よりもはるかに多い金額を自分の給与にできるようになり、今なら本当にシャネルが欲しいかどうかを、冷静に判断できると思ったのだ。

ブティックに入ると、早足で店内を歩く『担当さん』の姿が目に入る。

― まだこのブティックにいたんだ!

担当さんの手が空いたのを確認して、涼子はおずおずと話しかけた。

「あの…3年ぶりに来たのですが、おすすめのプレタがあれば紹介していただけますか?」

担当さんは一瞬考えてから「お久しぶりです!」と笑顔になってくれた。

「今日はちょうど新しいコレクションのリリース日なんですよ!試着できるものもございますが、これから入荷予定の物もタブレットでご覧になりますか?」

試着したジャケットも、タブレットで見せてもらったスーツや靴も、どれも美しい。

― 今なら買える力がある…やっぱり欲しい!

「ジャケット、いただきます。あと、これと、これも予約したいです」

タブレットでコレクションを見ながら、ふと鏡を見ると自分の幸せそうな表情に思わず笑ってしまう。

― 今なら、担当さんにお願いできるかな。

「実は、ココハンドルが欲しいのですが」

涼子が担当さんに言うと、担当さんは笑顔で答えてくれた。

「次に入荷がありましたら、1番にご用意させていただきますね」

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