◆これまでのあらすじ
高橋和樹(31歳)は、父親譲りの声を褒められることが多かった。父親の広司とは不仲な状態が続いていたが、ある日、父が突然倒れてしまう。病院に行く前に実家に寄ると、家の電話が鳴る。和樹が受話器を取ると、ハスキーな女の声で「産むことにした」と告げられ…。

▶前回:突然かかってきた1本の電話。聞き覚えのある女の声で「産むことにする」と報告され男は…




声の主【後編】


「先生の件、大変だったな。少しは落ち着いたか?」

友人の賢一が、労いの言葉とともに和樹のグラスにビールをそそぐ。

和樹の父親であり元教師である広司は、くも膜下出血で倒れ、手術を終えたものの意識は戻らずそのまま亡くなってしまった。

葬儀後、初七日法要を終えたところで、和樹は賢一に誘われ『大衆割烹 三州屋 銀座店』に飲みに来ていた。

「まだバタバタしてるけど。とりあえず一段落ってとこかな…」

和樹はビールを口に含み、ひとつ息をつく。

「そういえば」と賢一は真剣な声で言う。

「お前が言ってたあの件なんだけど…」

和樹はすぐにピンとは来なかったが、「絵梨」の名前を出されて思い出した。

「あ、電話の件?」

「俺さ、気になってちょっと調べてみたんだ」

「伊藤絵梨のことを?何かわかったのか?」

「あいつ。今、名古屋のほうにいて、夜の仕事をしてるらしいぞ」

賢一は中学時代のクラスメイト何人かと連絡を取り、絵梨の事情を知る者から、現在の状況を聞き出したようだった。

「一応、連絡先も聞いておいたんだけど…」

賢一がスマートフォンを取り出して見せた画面には、絵梨の電話番号が表示されていた。

「お前に教えてもいいってことなんだけど。どうする?」

和樹は気が乗らないながらも、「じゃあ、一応…」と情報を受け取った。

先日の電話の件については、気にならないと言えば噓になる。

広司に電話をかけてきたのは、本当に絵梨だったのか。

そうだとしたら、父親と絵梨との繋がりはどういうものだったのか。

関心はあるものの、今さら不仲だった父親の過去など知りたくはないという思いと、真面目で厳格なイメージが損なわれるのではないかという不安がどこかにあった。

しばらく絵梨のことは頭の片隅に追いやり、あえて意識を向けないようにして放置していたのだが…。


賢一から絵梨の連絡先を聞いた2日後、和樹のスマートフォンに着信が入る。

「もしもし。伊藤です。高校のとき同じクラスだった…」

和樹が電話に出ると、ハスキーな女性の声が聞こえてきた。

「あ、はい。わかります」

「高橋くん?お久しぶりです。伊藤絵梨です」




前回実家で電話を受けたときとは違い、絵梨の口調が丁寧だったため、和樹もかしこまる。

絵梨は、賢一の言っていたクラスメイトを通じ、和樹の連絡先を知ったようだった。

さらに、広司が亡くなったことを知り、電話をかけてきたのだ。

絵梨は日付を遡り、実家に電話をかけた際に会話した相手が和樹だったと気づいたそうだ。

「ごめんなさい。声を聞いて、似てたからてっきり先生かと思っちゃって…」

絵梨は、自分の事情だけを押し付けるように、一方的に話してしまったことを詫びた。

「伊藤さんは、うちの父親とは…その…。どういう関係だったの?」

不躾な質問ながらも、単刀直入に尋ねた。

「私、今は名古屋に住んでるんだけど。先生とは、3年前に東京で再会したの…」

絵梨が東京に友人を訪ねてきた際、駅の構内で広司に声をかけられたのだという。

「卒業して何年も経ってるのに、私のことなんてよく憶えてたなって。最初はすごく驚いた」

そのころは絵梨が名古屋に移り住んだばかりの時期で、心細くもあり、悩みごとも多く抱えていたため、連絡先を交換して電話で相談に乗ってもらっていたとのことだった。

「先生の声を聞くと、なんだか落ち着くというか、安心できて。相談しやすかったんだ」

和樹も声を褒められる際に同じようなことを言われるため、少し複雑な気分になる。

「本当は、直接会って相談に乗ってもらったお礼を言いたかったんだけど、それ以来一度も会えなくて…」

絵梨が言葉を詰まらせる。

「あの。伊藤さんが電話で言ってた、『産むことにした』って言うのは…?」

「ああ、それはね…」

絵梨は現在、繁華街にある飲食店で働いているのだが、そこの常連の男性客と関係を持ち、妊娠してしまったそうだ。

その後、男が妻子持ちであることが発覚。シングルマザーとなる覚悟が持てず、広司に相談していたのだった。

「先生といろいろ話をして、自分なりにいろいろ考えて、産むことに決めたの」

「そうだったんだ…」

「今は、4ヶ月目に入って…。産まれたら、先生にも会ってほしかったんだけどなぁ…」

絵梨との会話を通して、抜けていたパズルのピースが埋められ、和樹はことの全容を把握することができた。

父親のイメージは損なわれることなく、肩の荷がおりたような気分になる。

厳格な故に、学校内で煙たがられる存在であったものの、実は生徒思いの教師であったことを改めて知ることができた。

「伊藤さん。電話ありがとう」

和樹は心から礼を述べる。




「ううん、こちらこそ。私も高橋くんと話せて良かった」

和樹は広司と絶縁状態にあり、最後まで打ち解けることもなかった。

反発を繰り返し、何ひとつ広司の利益になるようなことをした経験がなく、頼まれごとをされた覚えもない。

親不孝者と言われればその通りである。

これから先、まだ長く続くであろう人生において、溝が埋まるようなキッカケもあるはずだと悠長に構えていた。

いつか酒でも飲み交わしながら会話でもできればと、ぼんやりと抱いていた思いも断たれてしまった。

もし、罪滅ぼしができるのであれば、今向き合っている課題に対し、広司の代役をまっとうする以外にない。

この一件は、亡き父に託された唯一の事象のようにも感じられた。

「何かできることがあったら、俺に言って。協力するから」

絵梨が無事に出産を終えるのを見届けることが、せめてもの親孝行のような気がした。


和樹は、母親の由紀子に頼まれ、広司の荷物を整理するため実家を訪れた。

突然亡くなってしまったため、生前のままの状態だ。煩雑な押し入れの中身を必要なものとそうでないものに分けて片付けていく。

「なんか、飲みものもらってもいい?」

休憩をしようと由紀子に尋ねると、「お父さんの缶ビールが残ってるかも」と言うので、冷蔵庫を開けて覗いてみた。

すると、冷蔵庫の奥にカラフルな四角い形状の塊がいくつか入っているのを見つけ、取り出してみる。

「んん?ういろう…?」

箱から出して詰め込んだのか、手のひらサイズの色鮮やかなういろうだった。

裏側を見ると、賞味期限から数ヶ月経っており、だいぶ以前に購入したことがわかる。

「母さん。このういろう、どうしたの?賞味期限をだいぶ過ぎてるけど」

頭に手ぬぐいを巻いた由紀子がやってくる。

「ああ、それ?お父さんがお土産にって買ってきたのよ。甘いものなんて食べないのに…」

「どこか行ってたんだ」

「3〜4ヶ月前かしら。名古屋に『古い友だちに会いに行く』って言って」

名古屋というフレーズを聞いて、和樹の体は一瞬硬直した。

― 伊藤…。確か「妊娠4ヶ月目」って、言ってたよな…。

絵梨と交わした電話での会話を思い返す。

「古い友だちっていうのは、誰とか言ってなかった?」

「さあ…。そこまでは聞いてないわねえ」

― 伊藤…。親父とは「一度も会ってない」って言ってたはずだけど…。

広司が名古屋に行ったことに関しては、嘘をつく理由もなく、間違いない。

しかし名古屋に行きながら、絵梨と会っていないというのは考えにくい気がした。

― 伊藤が、嘘を言っていたのか…?

絵梨が嘘をついているとしたら、広司と会ったのを隠していたことになる。

― 会ったことを、隠す理由って…。まさか…。

和樹のなかに、仄暗い感情が湧き上がる。




それを振り払うように、缶ビールを開けて勢いよく飲み込んだ。



10ヶ月後。

和樹のもとに、絵梨から電話がかかってきた。

「お食い初めのために実家に戻ってきている」

妊娠中、出産後と、何度か絵梨から電話を受けていた。

不安感や倦怠感に襲われることがあるようで、そのたびに話し相手になると、「気分が落ち着く」と感謝された。

「無事に産まれて、本当に良かったね」

和樹が心からの言葉を送る。

「そのうち、この子に会ってあげてね」

「ああ、もちろん」




絵梨は赤ん坊を抱いているのか、電話の向こうからあやすような声が聞こえる。

「この子、挨拶したいって言ってるみたい」

ガサゴソと物音が聞こえた。

スマートフォンを赤ん坊の口もとに寄せているようだった。

そのとき、言葉ではない、雑音にも近いような小さな声が、和樹の耳に届いた。

「……」

一瞬ではあったが、それはまるで、聞く者に安心感を与えるような、優しくフワッとした声。

いわゆる、“倍音のある声”であり、まるで父親である広司の声のようにも聞こえた。

和樹は、思わず身震いした。

だがすぐに、「アーアー…」という赤ん坊特有の声が聞こえてくる。

― ああ…。気のせいか…。

和樹は懸命に、感情の高ぶりをおさえる。

しかし、今の現象が錯覚だとしても、自分のなかにある疑念が払拭しきれていないが故に起きたものであることは、間違いなかった。

― もう、これ以上関わらないようにしよう…。

たとえ親子の間柄であっても、足を踏み入れてはいけない領域な気がした。

和樹は、父親に課せられた責務はまっとうしたと自分に言い聞かせ、通話を終えた。

▶前回:突然かかってきた1本の電話。聞き覚えがある女の声で「産むと決めた」と報告され、男は…

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

▶NEXT:11月9日 木曜更新予定
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