平日の真ん中、ウェンズデー。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

▶前回:誰もいなくなった深夜のオフィスで…。年収2,000万超の男が、密かにしていたコトとは




<水曜日の空想>
布川律子(42):外資系銀行勤務


「いやいや、18時以降のMTGは律子さんはNGだと思うよ」

役員とのMTGを終えてデスクに戻ると、新人のパーティションの方から野辺山くんの声が漏れ聞こえてきた。

「あっ、すみません。そうでした、水曜日ですもんね。じゃあ明日の朝以降で調整して…」

― あらら、気使わせちゃってごめんね。

私は心の中で密かに謝りながらも、デスクの上を整理し始める。

17時半。オフィス一面の大きな窓から見える空は、すっかり藍色に染まっている。

「お疲れさま」

スマホや手帳といった身の回りのものをカバンに無造作に放り込むと、私は小さく挨拶をして席を立ち、そそくさとオフィスを後にする。

「律子さんって、毎週水曜日だけこんなに早く帰って何してるんだろうね」

「独身だし、デートとか?美人だし」

「いやいや、下々には言えないセレブな人たちの集まりにでも参加してるんじゃない?」

かつてはそんな噂話も飛び交っていたようだけれど、退勤を済ませたあとのオフィスで私の噂話をする人はもう、そう多くない。水曜日だけは、17時…遅くとも18時には退勤するルーティンも、2年も続けていれば周囲に認知されてくる。

ただし、私が会社を出たあとに何をしているのかは…まだ、誰にもバレていないようだ。


オフィスから外に出ると、びゅう、と大きな音を立ててビル風が吹きつけた。

冷たい風は、もはや冬の気配すら孕み始めているように感じる。

それもそのはずだ。お祭り騒ぎだったハロウィンが終わり、一夜明けた今日。

街はまるで魔法でもかかったかのように、たった一晩でクリスマス一色に生まれ変わっているのだから。

― いつのまにか、ずいぶん日も短くなったし…。もうすぐ冬になるのね。

こうも仕事漬けの毎日だと、季節の移ろいを肌で感じられる機会など、そうあるものではない。

オフィスの開けた窓から空の色を見る以外は、たまに付き合いで参加する仕事のゴルフと、クライアントとの会食で行く料亭で料理に添えられた紅葉や南天を見るくらい。

最近は仕事関係の人といることが多いので、一人で吹かれる冷たい風がこんなに物悲しいことに気づくのが、妙に辛かった。




体の芯から凍ってくるような寂しさに、トレンチコートの襟元を手繰り寄せながら辿り着いたのは、こぢんまりとした映画館だ。

なんとなく、今日は大規模なシネコンではなく、小さな劇場に身を隠したかった。

「おとな1枚」

上映直前のためネットを経由せず、昔ながらの窓口で手早くチケットを購入する。ポップコーンや飲み物などは特に買わずに、一番後ろの座席に着く。

ほどなくして劇場の明かりは暗くなり、私の目の前は、四角く切り取られた非現実の世界だけになった。




私は毎週水曜日、こうして映画を見に来ている。

初めは、レディースデーだし、というごく簡単な動機でもって暇をつぶしに来ただけだったのだけれど…。

水曜日に映画を見ることは、いつのまにか私にとって欠かせない習慣になっていた。

見る映画はなんだっていい。見る場所だって、ミニシアターでもシネコンでもいい。

時にはお目当てのタイトルがあって遠くまで足を伸ばすこともあるけれど、ほとんどの場合は、オフィスからほど近い銀座周辺だ。銀座、有楽町、日比谷…。ショッピングの一等地として知られるこのあたりは、実は映画館には事欠かない。

今日目の前で繰り広げられているのは、美容師が殺人事件に巻き込まれる、という、一風変わったミステリーだった。

共感できるポイントはほとんどないけれど、それでいい。ううん、それがいい。

なぜなら私は映画館に、“今とは違った人生”を求めて来ているから。

緊迫したシーンが続く画面を見ながら、私はぼんやりと、つい先週末に参加した高校の同窓会のことを思い起こす。

ほとんどの同級生が家庭をもち、子どもを持っていたのだ。

なかには、来年子どもが大学受験を控えている、という不安を漏らしている友人さえいて、思わず息を呑んでしまった。今年で42歳なのだから、よくよく考えれば当たり前のことなのだけれど…。

「律子は最近、どうしてるの?」

屈託なく聞いてくる同級生に、私は曖昧に微笑むことしかできなかった。

私には、仕事以外なにもないから。

子どもも、家族も、恋人もいないから。


別に、意識してずっと孤独を貫いてきたわけじゃない。

人並みに恋だってしてきたし、交際を申し込んできてくれた人も少なくなかった。

会社で誰よりも早く出世した当初は、美貌を武器にしてうまくやった、なんて陰口を叩かれていたぐらいだ。容姿も悪くない自負もある。それになにより、学生時代は映画女優を目指していたこともあった。

スクリーンを見ながら、私は懐かしさのあまり、思わずクスッと小さな笑いをこぼした。

そう、女優を目指していたのだ。

早稲田大学の演劇サークルにいた頃は、映画女優になりたかった。

演じることが好きだった。

このスクリーンの中にいたかった。

別の人間の人生を生きられるのが、面白くてしょうがなかった。

けれど結局、根が堅実すぎたのだろう。在学中に大きなオーディションにことごとく引っ掛からなかった私は、早々に演技の世界に見切りをつけて、こうして金融の世界に飛び込んだ。

そして、今思えば…。それが、人生最大の恋を失うことに直結していたのだ。




― そういえばこの映画、慎之助の好みかもなぁ。

慎之助。それが、私の人生で最も愛した人の名前だ。

そして、同じ演劇サークルに所属していた仲間の名前でもある。

映画監督を目指していた慎之助と、女優を目指していた私。

一時期は結婚の約束まで交わした私たちだったけれど、いつまでも夢を追い続ける慎之助と私の恋が実ることは、今思い返してもやっぱり難しかったと思う。

社会人2、3年目の頃だっただろうか。

映像会社のADをしていた慎之助が、両親に会いに来てくれた時のことを覚えている。

大学を2回留年したうえに、仮にも高給取りとは言えない仕事につき、ヨレヨレのスニーカーのかかとを踏んで現れた慎之助。

そんな彼に対して会社経営をしていた父は、自分の会社に入って人生をやり直すことを、強く勧めたのだ。

「わかりました。それが、りっちゃんの為なら」

いつも「適当に息抜きしながら頑張ろうぜ」、とヘラヘラしている慎之助が、唇を噛んで真剣に答えた。慎之助のそんな真剣な顔を見るのは、長い付き合いで初めてのことだった。

だから、夢を諦めようとする慎之助を見て──。

私は帰り道、別れを告げた。

「そのだらしなさが、つくづく嫌になったの。お願い、別れて」

今思えば、あれが。あれこそが。

私の女優人生で一番の、名演技だったと思う。




その後、慎之助以上に好きになれる人に出会えないまま、結局今はこうして独身のまま妙に出世してしまっている。

時々寂しさも感じるけれど、自分なりに納得はしているのだ。何より、仕事は楽しいし、自分にしかできないことだと思っている。

― だけど、もしかしたら。本当にもしかしたら…、別の人生もあったかもしれない。

そんな、ほんの小さな「if」の気持ちを満たすために、私はこうして毎週水曜日に映画館に通う。

そうして色んな映画を通して、違う人生を生きる自分を空想してみるのだ。



「ふう、面白かったぁ」

今の自分の人生とは全くかけ離れたストーリーを満喫した私は、やわらかに明るさを取り戻した劇場のシートから立ち上がり、再び街へと出ようとした。

と、その時だった。

映画館を出ようとする瞬間、視界の端に意外な物が目に飛び込んできた気がした。

「えっ…?」

引き返し、違和感のもとへと駆け寄る。公開を控えた作品のチラシがズラリと並ぶ中で、一際目を引く極彩色のものを手に取った。

チラシには、大きな白抜き文字でこう書いてあった。

<鬼才の映像作家・カカトフミオ、初の長編作品!カカトワールドを見逃すな!>

私は少しの間を置いた後、人目が集まることも気にせず劇場のロビーで吹き出した。

「…ばっっっかじゃないの…!?」

カカトフミオ。

それは、演劇サークル時代に慎之助と私が酔っ払って考えた、慎之助の芸名だったからだ。

熱く語りながら映画論を打っていたあの頃の慎之助の笑顔が、頭の中に鮮明に浮かんでくる。

『俺さ、絶っ対映画監督になるって決めてんだ。それが俺の人生なんだよ』

くだらなさのあまりか、それとも、もっと違った感情なのか。

わからないままに滲んできた涙を拭いながら、私も、思い出の中の慎之助に答えた。

「うん、そうだね。これが私の人生なんだ。

適度に息抜きしながら、お互い頑張ろうぜ」

慎之助の映画のチラシをバッグに入れて外に出ると、またしてもびゅう、と風が吹く。不思議ともう、寒さは感じなかった。

自宅への道のりを歩きながら、頭の中で明日以降の仕事の算段を確認する。

だけど、来週の水曜日は──きっと、この映画を観にこよう。

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