人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:彼女の「ウチくる?」の一言に、浮かれながらついていく男。数分後、男が機嫌を損ねたワケ




声の主【前編】


「和樹ってさぁ、すごくいい声してるよね」

寝室のベッドの上。毛布にくるまれた李奈が、感心するように言った。

和樹は傍らのソファに座り、タバコをふかしながら視線を向ける。

「ええ?ああ、そうかな…」

これまであまり意識はしてこなかったが、声を褒められることは度々あった。

「うん。なんていうか、倍音があるというか…」

「バイオン…?なに、それ」

「声の重なり。ベースになる声に、いくつも声が重なった、フワッとした声ってこと」

和樹は関心がなさそうに、「ふ〜ん」と鼻を鳴らす。

「なんか。和樹の声を聞いてると落ち着くっていうか、安心感があるのよ」

とはいえ、和樹も褒められて悪い気はしない。

― そっか。じゃあ、俺に女が寄ってくるのは、この声も関係してるってことか…。

和樹は現在31歳。3年前に大手IT企業から独立して会社を設立した。

現在は収益も安定し、仕事にプライベートにと充実した日々を送っている。

女性に関しても、事欠くことはなかった。

特定の恋人はいないものの、キープしている状態の女性がたくさんいて、空いている時間に連絡すれば誰かしらは捕まえることができた。

女性に不自由しない暮らしができている要因として、声があるとするのなら、それは感謝するべきところだ。和樹はそう思う。

― さあて。こいつとはどうサヨナラするか…。

今、ベッドに横たわっている李奈は、キープしている大勢の女性のなかのひとりに過ぎない。

どうすれば後腐れなく別れられるか思案し始めたところで、和樹のスマートフォンに着信が入った。


「ええっ?親父が倒れた…?」

電話をかけてきたのは、母親の由紀子だった。

父親の広司が風呂に入ったきりしばらく出てこないので、不審に思い覗いてみると、うつ伏せで倒れていたらしい。

運ばれた病院の医師の診断によれば、原因はくも膜下出血とのことだった。

「わかった。とりあえず、病院に向かえばいいかな?」

『今ね、お父さん手術中で、もうしばらく時間がかかるみたいなの。和樹には、いったん家に行って鍵が閉まってるかだけ確認してから来てもらいたいのよ』

由紀子は救急車に同乗するのに慌てて家を出てしまったため、戸締りをしたか記憶が曖昧なのを気にかけている様子だった。

「わかった。何か必要なものがあったら連絡して。家から持って行くようにするから」

電話を切ると、李奈が心配そうに尋ねた。

「お父さん…倒れたの?大丈夫?」

「ああ。平気だよ。ただ、これから実家に戻って、そのまま病院に向かわないといけないから…」

動揺する李奈に、和樹は落ち着いた対応を見せる。




自分の父親が危険な状態にありながら、和樹が冷静でいられるのには理由があった。

和樹は、父親と仲がいいとは言えないからだ。

実際、もう何年もまともに会話を交わしておらず、断絶状態とも言える関係性であった。

「じゃあ、私…急いで支度して帰るね」

「ああ、申し訳ない」

脱いで散らばった服を集める李奈の姿を、和樹はどこかホッとした思いで見つめる。

父親の容態を気にかけるよりもむしろ、李奈を帰す口実を得ることができ、ラッキーだという思いのほうを強く感じていた。



両親は、江戸川区の下町エリアにある一軒家で暮らしている。

和樹は自宅マンションのある芝浦から車を走らせながら、ふと過去を振り返る。

父の広司は私立中学校の国語教師をしており、昨年、定年退職を迎えた。

かつて和樹も、中学受験を経て、その私立中学に通っていた。

広司は厳格な性格で、生徒たちにも厳しく接していたため、評判はすこぶる悪かった。

生徒たちからの悪口を耳にする機会も多く、息子である和樹の肩身は狭く、同じ校舎にいることに嫌気がさすこともあった。




とにかく真面目で、堅苦しい発言により行動を制限する。そんな広司に対して反抗心を抱き、言うことを聞くどころか逐一反発するようになっていった。

和樹が進路として理系を選択したのも、広司への敵対心の表れだった。

広司とは真逆の道を進もうという信念で人生を歩んできたため、和樹の今いる場所は、父親とまるで環境が異なっている。

ただひとつ。和樹には、広司と似ている部分があった。

それが、声だった。

広司を知る人間から、「声が似ている」と指摘されることが何度もあったのだ。

自宅を出発して30分ほどで、実家に到着した。

― 電気がつけっぱなしになってる…。

建物の前に車を停めて中に入ると、玄関のドアに鍵はかかっていたものの、いくつか部屋の明かりがついたままの状態になっていた。

確認のため、すべての部屋を回っていく。

ゆっくりと家の中を行き来するのは数年ぶりのことだ。

すると、居間のほうから電話機の呼び出し音が聞こえてきた。


実家の電話に出るのは面倒ではあったが、母親からの可能性もあり、和樹は受話器を取った。

「はい。もしもし…」

和樹が電話に出ると、すぐに相手も話し始めた。

「あ、先生?私。エリだけど」

ハスキーな女性の声だった。

― 先生…ってことは、親父にかけてきたのか?

「あ、いや。ちがっ…」

「先生のケータイが繋がらないから。こっちにかけちゃった」

和樹は、相手が自分を父親と間違えていると思い否定しようとするが、女性は隙を与えてくれない。

「私、決めた。やっぱり、産むことにした」

― 産む…?赤ちゃんを…ってことだよな?

「とりあえず、先生にはそれだけ伝えておこうと思って。また連絡するね」

そこで会話は終わり、一方的に切られてしまった。

和樹は呆気にとられ、狐につままれたような気分になる。

― エリ…。誰だろう。まさか…親父の愛人!?

会話の内容からすると関係を疑いたくもなるが、広司の性格を考えると、色恋沙汰に巻き込まれるイメージがまるで湧かない。

逆に、若い女性が広司に好意を抱くというのも現実味がないように感じた。

気になる事案ではあったが、和樹には今は課せられた役割があるためひとまず保留にして、病院に向かった。



翌日。

広司の手術は終了したものの、意識は回復せず、予断の許さない状態が続いていた。

和樹はいったん病院から自宅に戻ると、友人に電話をかけた。




中学から付き合いのある賢一という同級生で、広司のこともよく知っているため、経緯を報告した。

「そうか。大変だったな…」

賢一が労いの言葉をかける。

さらに、和樹は現在の広司の容態を伝えたあと、昨日実家で受けた電話のことを話してみた。

「ええ…あの先生が?若い女と?ありえないだろう…」

広司の厳格さを知っているだけに、若い女性との色恋などイメージが結びつかないようだった。

だが、賢一が思いがけない反応をする。

「でも、そのエリ?って女性、先生って呼ぶくらいだから昔の生徒だよな?もしかしたら…あいつじゃない?」

「えっ!知ってるの!?誰…?」

「ほら。うちのクラスにいた、伊藤絵梨だよ。あいつ、声がかすれてて、特徴あったじゃん」

和樹は記憶を遡る。

すると、すぐにその顔が思い浮かんだ。

「あ、ああ…。確かに、言われてみれば…」

和樹の頭に浮かんだ絵梨の顔と、受話器から聞こえてきた声が重なった。

「でも、なんで伊藤が…」

和樹自身もう何年も会っていないのに、広司に接点があるとは考えにくかった。

それに、絵梨は素行がいいとは言いにくい生徒だった。

校則を守らず、授業もサボりがち。かなり年上の男と金銭目的で付き合っているという良からぬ噂もあった。




職員室に呼び出されることも多く、教師たちも手を焼いていた印象がある。

お気に入りの優等生ならまだしも、素行不良の問題児と卒業後に交流を持っているというのも、どうも釈然としない。

本当にあの電話の主が絵梨だったとしたら、広司はいつ接触を持ち、どれぐらいの期間の付き合いなのか。

産むと言っていた子どもは、誰の子なのか。

― まさか…。親父ってことは、ないよなぁ…。

あり得ないと思いながらも、疑念を払拭しきれない。

広司に対し、心のどこかで崇高な聖職者でいてほしいという思いを抱いていることに気づく。

電話の相手の見当はついたものの、ますますわからないことが増えてしまい、和樹は煩悶した。

▶前回:彼女の「ウチくる?」の一言に、浮かれながらついていく男。数分後、男が機嫌を損ねたワケ

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

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電話をかけてきた絵梨と、広司の本当の関係が明らかに…