「もしかして、あの女性と怪しい?」男の電話から漏れ聞こえた女の声には、聞き覚えがあり…
透き通る海と、どこまでも続く青い空。
ゴルフやショッピング、マリンスポーツなど、様々な魅力が詰まったハワイ。
2022年に行われたある調査では、コロナ禍が明けたら行きたい地域No.1に選ばれるほど、その人気は健在だ。
東京の喧騒を離れ、ハワイに住んでみたい…。
そんな野望を実際にかなえ、ハワイに3ヶ月間滞在することになったある幸せな家族。
彼らを待ち受けていた、楽園だけじゃないハワイのリアルとは…?
由依(35)と夫の圭介(38)は家族でアラモアナの高級マンションで3ヶ月間の短期移住をすることに。そこに、圭介の元妻である直子が突然やってきた。
自分が直子の子どもだと知った愛香(10)は家出をする。無事に帰ってきて、由依は安堵したのも束の間…。
▶前回:再婚して8年。突然、元妻が現れ、要求してきた“とんでもないコト”とは
Vol.12 家族って何?
「…ただいま…」
「愛香…!」
エミリに連れられ戻ってきた愛香を抱きしめながら、由依は全身の緊張が一気に解けるのを感じた。
その時、由依の腕の中にいる愛香が口を開いた。
「私、直ちゃんと暮らしてみようと思うの」
場の空気が一気に固まる。
愛香が、何を考えてそんな発言をしたのか誰にもわからず、その場にいる全員が困惑の表情を浮かべる。
しかし、愛香の顔は、どこかすっきりとして覚悟を決めたように由依には見えた。
直子は、その言葉を聞いて嬉しそうに言った。
「本当?うん、一緒に暮らそう!」
舞い上がる直子に対し、由依はショックで言葉が出ない。
― 大人の会話を聞いたことで、愛香は思い詰めてしまったのかな。
圭介が動揺した様子で口を開く。
「ちょっと…待ってくれ。愛香は本気で直子…この人と住みたいの?本当に?」
「うん…」
愛香は、静かに頷くと、みんなから少し距離をおき、下を向きながら言った。
「だって、直ちゃんが本当の母親なんでしょう?私は、お母さんの子どもじゃないじゃん。私がいない方が、お母さんもお父さんも春斗も、みんなハッピーでしょ?」
拗ねたようにそう言い放った愛香に、由依は険しい眼差しを向けた。
無言で愛香に近づくと、手首を掴み、自分の方へと引き寄せる。
そして、覆いかぶさるように、由依は愛香をもう一度、力一杯抱きしめた。
由依の目からは大粒の涙が、ポトリポトリと流れる。
「愛香は、誰がなんと言おうと私の子どもよ。愛香がいなくなったら、誰も幸せになんかなれない」
震えた声で由依がそう言うと、堰を切ったように愛香がワーッと泣き出した。
それにつられ、春斗も泣き出す。
圭介がみんなを抱きしめて言った。
「愛香。お父さんが結婚を決めたのは、由依がプロポーズをしてくれたからだったんだ。その言葉が、“私、愛香のお母さんになりたい”だったんだよ」
愛香が、驚いたように由依を見る。
「ごめんね、愛香。大事なことを隠して。本当はもっと大きくなってから言うつもりだったの」
「…私も、ごめん」
家族が一つになろうとする姿を、直子は1人寂しそうな顔をして眺めていた。
すると愛香は涙をぬぐい、一呼吸を置くと、今度は直子に近づき、言った。
「でもね、直ちゃんと暮らしてみたいって言ったのは本当」
「え…?」
ずっと切ない顔をしていた直子が、驚いた声をあげる。
愛香は、これまでのことを話し始めた。
◆
ある日、愛香が習い事から帰る途中、知らない女の人に声をかけられた。
「そのキーホルダー、可愛いね」
初めはそんな感じだった。愛香はその時「変な人だな」としか思わなかった。
でも、何度かすれ違うようになる。その女性は、会うたびに愛香に挨拶してきた。
「こんにちは。髪型かわいいね」
「今日は寒いから風邪をひかないようにね」
そんなたわいもない会話から始まり、徐々に仲良くなっていった。
時には彼女からお菓子をもらったり、自販機で買ったジュースを飲みながら、座っておしゃべりをしたりした。
お母さんでも先生でもない、大人の女の人。
友達や家族には話せないような悩みも、なぜか直子になら話せた。
だけど、そのことを学校の友達に言ったら、こんなふうに言われた。
「何それ、怪しくない?もしかして、お父さんの彼女とかかもよ」
「彼女?何それ」
その友達は、ネットやYouTubeで、そういう類の話を聞いたことがあると言っていた。
お父さんの不倫相手が、子どもに接触して仲良くなって、お母さんのことを聞き出したり、子どもを味方につけたり、ひどい時は子どもを連れ去ったり…。
「こっわー。でも直ちゃんはそんなんじゃないと思う。お父さんも不倫なんてしないよ」
そう言ったけど、その友達は信じてくれなくて、愛香は段々と怖くなっていった。
ある日、圭介が外で誰かと電話していた。圭介は愛香がいることに気がついていなかったが、電話から漏れ聞こえる相手の声が、直子に似ていた。
それで愛香は“圭介と直子は不倫関係だったのでは“と疑い始めた。
ショックで、それから直子のことを避けた。
そんな時、ハワイに行く話が出て、直子に会わなくて済むと、愛香は賛成したのだ。
でも、最後に直子に「しばらく会えない」と伝えた時の寂しそうな顔が、ずっと忘れられないでいた。
だから、前にもらったLINEのIDに連絡をした。
LINEをしてるうちに、直子がやはりひどい人だとは思えなくて、普通に友達みたいに感じた。
だから、実の母親だと判明した時、ショックだったが“不倫相手”じゃなくて良かったと、愛香は正直ホッとしたのだった。
◆
最後に愛香は言った。
「だから、直ちゃんのことも、もっとちゃんと知りたいと思う。ずっとじゃなくて、少しだけ一緒に住んでみたいの」
そこで、圭介が直子の言葉を思い出して聞いた。
「愛香は、直子がもうすぐイギリスに行くっていうのは知ってるの…?」
「うん。だから遠くへ行っちゃう前に、少しでも暮らせたほうが良いと思って。イギリスには…そうだな、遊びに行ってあげる」
急に大人びたことを言う愛香に、由依は思わず笑ってしまう。
これまで、愛香が傷つかないように、彼女を守らなければと、そればかりを考えていた。
けれども、親が思うよりも子どもはずっと成長し、自分でしっかりと考えることができるのだと、由依は悟った。
結局愛香は、ハワイから帰国したら、直子がイギリスに発つまでの2ヶ月間、週末を直子の家で過ごすと決めた。
直子のことを完全に信じられるわけではないが「大丈夫、何かあったらすぐに言うから」と愛香に言われ、由依と圭介は応じることにしたのだ。
◆
数日後。
あれから愛香とは今まで以上にたくさん話し、家族としての関係性はこれまで以上にうまく行っていた。
だが、まだうやむやなままの問題が残っている。圭介のことだ。
日菜子が愛香と春斗を海に連れて行ってくれるというので、由依は朝から圭介を誘い、トレッキングをすることに決めた。
先日エミリが、帰り際に言った。
「愛香ちゃんのこと、良かった。でも、きちんと旦那さんとも話さないとダメよ。そうね、山登りでもして2人で汗を流した後、きれいな景色を見たら、お互い素直になれるんじゃないかしら」
その時に提案されたのが、ココヘッドだった。
想像以上に険しい山道で、急な階段を一段一段登っていくが、途中いくつも危ない箇所があり、由依と圭介は自然と手を繋ぎながら登った。
そして2時間ほどかけて登った先には、驚くほどの絶景が広がっていた。
「うわー…」
濃く青くどこまでも透き通る海と、力強い山の並ぶ景色に、由依たちは言葉を失う。
頂上で疲れた体を休めながら、しばらく海を眺めていると、圭介の方から切り出した。
「…直子のこと、黙っててごめん。キスしたことも…」
由依も、ゆっくりと思いを口にする。
「うん。正直、キツかった。圭介は何か起きた時、1人で抱え込もうとするから。本当なら一緒に解決したかった。それにキスのことも。まだ、彼女に愛情があるの?」
海を眺めていた圭介が、由依の方を見て首を振った。
「それは、ない。直子を追い込んだのは自分だっていう負い目があったから、拒否できなかった。でも、愛香や由依を失うかもって考えた時に、本当に怖くなった。やっぱり、こんな景色を一緒に見たいのは、由依と愛香と春斗だけだって、思った」
そして、少し俯きながら、圭介が本音を漏らした。
「実はさ、会社の売却が決まった時、ショックだったんだ。自分の子どものように感じていたから、喪失感に襲われた。でもそれ以上に、従業員を守ることに必死だったんだ。買収側の条件に、社員のリストラがあったからね」
由依は波と風の音とともに、圭介の話を黙って聞いた。
「正直辛かった。すべての従業員を、同程度以上の条件で受け入れてくれるところもなかったし、これまで頑張ってくれた彼らに申し訳なくて。俺は自信をなくして、自分を見失ってた」
「そんなこと、一言も言ってくれなかったじゃない…」
圭介は「そうだな」と申し訳なくつぶやいた。
「昔から大切な人であるほど、弱さを見せるのが怖くてさ。由依がそんなことで離れないのはわかっていたけど、負担に思ってほしくなかったんだ。
精神的にやられていた時に、直子と再会した。直子も同じように経営で痛い目をみてたから、俺の気持ちを当てられて、心に隙ができた」
「それで、キスしたの…?」
圭介は、声を一瞬つまらせて言った。
「あぁ、言い訳にならないのはわかってる。本当に悪かった、ごめん。でも、愛情があるとかではない。俺は由依しか愛してない。それだけは言いたかった」
しっかりと瞳を見て話す圭介に、由依も答えた。
「わかった。直子さんのことは、今すぐには許せないけど、いつか許せる日が来ると思う。だからこれからは、なんでも話してほしい。私たちは’Ohana(家族)でしょう」
ハワイに来てから、たくさんのことが起きた。
でもそれは、ただこれまで隠していたものが、明るみに出ただけ。
東京の狭い街で、由依も圭介も必死に秘密を守り通そうと踏ん張っていた。
それらが物事をより一層、複雑にしているとは気がつかずに。
ハワイの壮大な景色や輝く日差しが、もっと単純に考え、もっと素直になることを教えてくれたように、由依は感じた。
これから先も、迷うことはあるだろう。
けれどその時には、今ここから見える景色を思い出そう、と由依は心に誓った。
Fin.
▶前回:再婚して8年。突然、元妻が現れ、要求してきた“とんでもないコト”とは
▶1話目はこちら:親子留学も兼ねてハワイに滞在。旅行気分で浮かれていた妻が直面した現実とは