夫の居ない間に、突然家にやってきた来訪者。妻を襲った絶体絶命のピンチとは
ーまるでお城みたいに、高くて真っ白な塔。私もあそこの住人の、一人になれたなら…。
ずっと遠くから眺めていた、憧れのタワーマンション。柏原奈月・32歳は、ついに念願叶ってそこに住むこととなった。
空に手が届きそうなマイホームで、夫・宏太と二人、幸せな生活を築くはずだったのに。
美しく白い塔の中には、外からは決してわからない複雑な人間関係と、彼らの真っ黒な感情が渦巻いていたー。
やっと犯人を捕まえ一件落着に思えたが、実は奈月には、さらなる過去の秘密があったのだった。
吉岡多香子:私がコンシェルジュになった理由
このマンションに来てから、もう何年経つのでしょうか。
初めは不安もありましたが、人間観察が好きな私の性には合っているようで、気付けば一番の古株になってしまいました。
タワーマンションでは、数百人の人間が同じ建物に住んでいるのですから、日々いろんなことが起ります。
最近ですと、柏原ご夫妻の元に送られた不幸の手紙の犯人が判明したと伺いました。
内輪でちょっとした騒ぎになっていたようですが、非番だった私は、その場に居合わせなかったことをとても残念に思っていたのです。
ですが昨日、それよりも驚くべき場面に遭遇してしまいました。
昨晩、勤務を終えた私は、駅近くのスーパーに立ち寄りました。すると、見覚えのある黒いマセラッティーが、車道に停まっていたのです。
運転席の扉から降りてきたのは、最上階に住む永田様。そこまでは予想通りだったのですが、次の展開には大変驚きました。
なんと永田様は、ちょうど近くの店から出てきた柏原奈月様の方へ駆け寄り、笑顔で話しかけたのです。
周りを気にするように俯く奈月様と、次第に曇っていく永田様の表情から察するに、どうやらただのご近所話ではないご様子。
その後、1分足らずで永田様は去り、彼女もトボトボとマンションの方へ戻っていきました。
思い返せば、交流パーティーでも不思議なことがありました。手を取り合う柏原夫妻のことを、永田様はじっと見つめていらっしゃったのです。
そんな二人の姿を陰から見つめながら、私はなぜか、昔の夫のことを思い出していました。
多香子がかつて送っていた生活とは?
元夫とは、まだ私が20代の頃に出会いました。
港区にはバブル期と変わらず裕福な男性が集まっていました。そしてその横には必ずと言っていいほど、華やかな女の子達がセットのように存在していたのです。
私と元夫も、その中の一員でした。
年上の元夫曰く、私は初恋のアイドルに似ているのだとか。熱烈なアプローチを受け続け、私が30になる直前に結婚しました。
希望通り、新居はコンシェルジュ付きのタワーマンションに決まり、最上階とはいきませんでしたが、高層階の見晴らしのいいお部屋が、私の城となりました。
サロンレッスンやエステの予定がスケジュールを埋め尽くし、空いた時間に主婦友達とラウンジでお茶をする毎日は、理想そのもの。ですが、そんな生活はたった3年しか続きませんでした。
「田舎に帰ろうと思うんだ。」ある夜、眼下に拡がる夜景を堪能していた私に、元夫は突然告げたのです。
元夫は、一緒に帰ろうと言い、いろんな理由をつけて説き伏せようとしましたが、私は断固拒否しました。
結婚の挨拶の際、一度だけ訪れた彼の故郷は、日が沈むと同時にすべてが止まってしまうような、そんな街。たった2泊の滞在でも、止まない虫の鳴き声に、頭痛がしたのを覚えています。
夜中でもキラキラと輝く、大好きな東京での生活を手放すことなど、私にはできませんでした。
離婚後に私が手にした財産は、予想よりも遥かに少ないものでした。私が華やかな暮らしを送っていた3年の間に、夫の仕事が行き詰まっていたことを、そのとき初めて知ったのです。
夫が借主だったマンションからも追い出され、途方に暮れた私は再び、昔のように煌びやかなパーティーの場を訪れました。しかし、ほんの数年の間に、もはや居場所はなくなっていたのです。
現実を目の当たりにし、ようやく目が覚めました。派遣会社に登録してすぐにコンシェルジュの職を掴み取ることができたのは、不幸中の幸いだったのかもしれません。
離婚後、一切の華が消えた生活を送っていた私には、住民たちの派手で優雅な生活は、とても眩しく映りました。しかし不思議と、嫉妬のような感情は湧いてこなかったのです。
そう、あの時までは。
普通の女。
それが、柏原奈月様の第一印象でした。
このマンションの女性の大半は、良妻賢母タイプの女性か、いわゆるキャリアウーマンタイプのどちらかに当てはまります。
ですが彼女はどちらでもなく、特段美人というわけでもない、良くも悪くも普通の女。私にはとても新鮮に映りました。
引越当日、浮かれた足取りでエントランスをくぐる奈月様を見たとき、どろっとした感情が、私の中で湧き上がってくるのを感じました。
「こんな普通の女でさえ、私よりもはるかに幸せな暮らしを手に入れている。」
私は、同世代の彼女をとても妬ましく思ったのです。
最初、夫である宏太さんに必要以上に親密に接したのも、小さな嫉妬心の現れだったのでしょう。
しかし、ほんのいたずらのつもりだった宏太さんとの時間を重ねるにつれ、その醜い心はどんどん大きくなっていきました。
もし宏太さんのような素敵な夫がありながら、永田様とも深い関係にあるとしたら…?
あんなに普通のふりをしているのに、奈月様ってとっても悪い女だと思いませんか?
そして、奈月が再び窮地に立たされる…?
夫の不審な行動に、妻は?
「ねえ、聞いてる?」
「うん、…なんだっけ?」
夫の空返事に、奈月は小さくため息をついた。
土曜日の夜、久しぶりに一緒に過ごす時間だというのに、宏太はどこか上の空だ。ここのところ仕事が忙しいようで、平日はほとんど会話もできていない。
「ほら、これみて。真瀬さんち、売りに出てるよ。」
奈月が手にしたスマホには、中古マンションの売り情報が示されている。新着物件一覧の一番上には、このタワーマンションの20階3LDKが表示されていた。
「あ、ほんとだ。」
それだけ言うと、宏太はすぐに興味を失ったようで、再び自分のスマホに目を落とした。何をそんなに見ているのか覗き込みたい気持ちを、奈月はぐっと抑える。
先日、コンシェルジュに手紙の犯人をばらした疑いをかけてしまってから、宏太は少し冷たい。一緒に真瀬さんを捕まえたときはあんなに協力的だったのに、ここ数日は話しかけてもつれない態度だ。
「そうだ!明日久しぶりにランチ行かない?」
無理やり明るく話しかける奈月にちらっと目をやると、宏太は少し間をおいてから申し訳なさそうに口を開いた。
「…ごめん。明日予定があるからちょっと厳しいな。奈月一人で行っておいでよ。」
予想外の夫の言葉に、奈月は思わず不満を漏らす。
「えー。せっかくの日曜なのに…。なんの予定?」
「仕事とか、色々あるんだよ。ごめん、疲れたから俺寝るわ。」
わかった、と小さく呟く奈月を置いて、宏太は先に寝室に入ってしまったのだった。
ー日曜日に出かけるなんて珍しいよね…。元気もなさそうだし、どうしたんだろう。
夫は、素直に弱音を吐き出すようなタイプではない。昨日は少しイラっとしたものの、一晩経つと、もしかしたら何かあったのではと心配になってきた。
昼過ぎに家を出るという夫に、少しでも元気を出してもらおうと、朝食に宏太の好物を用意することにした。
フレンチトーストに、ニンジンのサラダと、野菜をたっぷり入れたコンソメスープ。まだ彼氏彼女の関係だった時にはたまに作っていたが、よく考えれば結婚してからは一度も作っていなかったかもしれない。
しばらくして起きてきた夫は、久しぶりのしっかりした朝食に驚いたようだったが、嬉しそうに平らげた。
「この景色見ながらゆっくり朝食とるのって、初めてかもしれない。平日はいつも急いでるし、休日は起きるの遅いしさ。作ってくれてありがとう。…今日18時には帰るから、夜一緒に食べよう。」
食後に淹れたコーヒーを飲みながらしみじみ呟く夫の横で、奈月はホッと胸をなでおろし、笑顔で頷いたのだった。
◆
結局奈月は、日曜日の午後は家から出ずに過ごしたが、おかげで普段以上に家事がはかどった。
録画していたドラマを観ることにしたが、2話目も中盤に差し掛かると、楽しんで観ているとはいえ瞼が重たくなってくる。
―宏ちゃんが帰ってくるまでまだ時間あるし、ひと眠りしようかな。
ソファに横になって、しばらく経っただろうか。突然のチャイムで、奈月はハッと目を覚ました。
寝ぼけ眼のままモニターを覗き込み、その画面に映る男の姿を見て、一瞬で目が覚めた。
ー永田さん…!?
画面越しにこちらを見つめる永田は、時折後ろを振り返りながら、何かに焦っているようだ。
ー必要以上に関わりたくないって言ったのに、まさかうちを訪ねてくるなんて、信じられない…!
永田は2度ほどインターホンを鳴らしたが、奈月が戸惑っているうちに、画面はプツリと切れた。諦めて立ち去ったのだろうか。
しかし、ホッとしたのも束の間、再びチャイムが鳴り響いたのだ。
ー!!
画面を見て、思わず息を飲んだ。
そこには、青白い顔をした永田の横で、鋭い眼をこちらに向けた、妻の姿があったのだ。
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永田妻の突然の訪問に、奈月は…?