-なぜ今、思い出すのだろう?

若く、それゆえ傲慢だった同級生・相沢里奈の、目を声を、ぬくもりを。

これは、悪戯に交錯する二人の男女の人生を、リアルに描いた“男サイド”のストーリー。

“商社マン”となった一条廉はモテを堪能する日々を送るが、次第に3歳年上の美月と半同棲状態に。

一方、年上の御曹司とあっさり結婚を決めた里奈。廉は苛立ちを覚えるも、結婚式で里奈が見せた幸福そうな笑顔に達観した思いを抱くのだった。

間もなく駐在のチャンスを掴んだ廉は、ついに自身も美月との結婚を決意。シンガポールで新婚生活をスタートする。

しかし数ヶ月後、一時帰国した廉は、偶然にも里奈の夫・二階堂が若いモデル風美女と密会しているところを目撃してしまう。




セレブ妻からの誘い


断言するが、一時帰国中だからといって「羽を伸ばしてやろう」なんて思っていたわけじゃない。

新婚の僕は美月との生活に心から幸せを感じていて特に息抜きの必要もなかったし、実際、僕のスケジュールは健全な予定で埋まっていた。

帰国した木曜の夜は大人しくホテルで休み、金曜は朝から本社で仕事。夜は西麻布へ同期に連行されたが僕は正真正銘、盛り上げ役に徹していただけだ。

そしてこの日はというと、早朝から部門の上司や同僚と栃木までゴルフに出かけ、ついさっきヘトヘトになってホテルに戻ってきたところだった。

夜は大学サークル仲間の集まりに呼ばれているが、遅くに顔だけ出しておけばいい。

LINEにすぐさま気づいたのは、一休みしようとベッドへ体を投げ出し、アラームをかけるためにスマホを触っていたからだ。

“久しぶり、元気?”

里奈から届いた連絡が、僕の心を震わせたことは認める。

しかしその内容はありふれた社交辞令であったし、他愛のないやり取りに終始するはずだった。

だから思いがけず「今から会える?」などと誘われて、僕は一瞬、躊躇したのだ。

結果として会いに行ったのも、下心の類では決してない。

偶然にも前の晩に目撃した、里奈の夫・二階堂の裏の顔。それが気がかりだった。

僕は“友達”として、里奈が今幸せであることを、この目で確かめておきたかった。


「下心などない」そう言い切る廉。しかしすっかり“女”になった里奈との再会で、廉は自分たちの関係性の脆さに気づく


里奈との密会


広尾の『Sudachi』に到着すると、先に来ていた里奈は僕を認め、小さく手を振った。

「ごめん、里奈。待った?」

僕はともすると滲み出てしまう照れを隠すように、首筋の汗を拭う。

彼女と待ち合わせをするのは、初めてじゃない。大学の中庭で、大教室の入り口で、カフェや駅前で、過去に何度もこんな風に落ち合った。

しかしこの夜すぐに里奈の目を直視できなかったのは、ノースリーブから覗く華奢な二の腕に、タイトなスカートが映し出す身体のラインに、熟れ始めた果実のように匂い立つ色香を感じたからだ。

19歳で出会った僕たちも、気づけば28歳。知らぬ間に随分と、大人になっていた。




振り返ってみるとこの夜、僕たちは他人の話ばかりをしていたように思う。

僕はそれほど親しいわけでもないが、里奈と仲の良かったサークル仲間の未祐の近況を尋ねてみたり、誰と誰が結婚したとか、あいつはしばらく独身に違いないとか、そんな噂話ばかりを競うように話した。

互いの心の内に触れるようなことは言わない、聞かない。

上澄みを掬うような会話ではあったけれど、僕は随分と久しぶりに、里奈と自然に笑いあえる時間を心から楽しんでいた。

彼女とはここ数年いつからともなく疎遠になり、口をひらけば嫌味を言い合うことしかなかったから、里奈が自然に叩く軽口や、ふいに向ける飾らない笑顔に、僕の心はぽっと温かくなる。

おそらく、お互いが別の相手と結婚しているという現実が、僕らの “友情”を絶妙なバランスで保ってくれていたのだろう。

ただこの日、会話の途中で、里奈が時折ぼんやりと空を見つめる瞬間があった。

憂に満ちたその横顔はなんだか見知らぬ人のようで、僕はその度に言いようのない焦燥に駆られる。

そして僕は僕の知っている里奈を取り戻すような思いで、調子のいい冗談を言っては彼女を笑わせた。

「ほんと廉って、相変わらずね」

里奈は呆れた、と言わんばかりの表情を見せるが、“友達”でいようとする男女の会話に本心など現れない。

一向に大人になれぬ僕でも、そのくらいはわかっていた。

それなのに僕は、里奈を案じる心とは裏腹に、彼女の強がりに終始気づかぬふりをしてしまった。

彼女は今、幸せなのだ。そう自分に言い聞かせた。

そうしておかなければ、ようやくバランスを取り戻した僕たちの関係が、再び崩れてしまいそうで。


二人でただ食事をしただけ。しかしこの密会が、二人の関係性を少しずつ変えていく


「…じゃ、次は廉の結婚式で」

別れ際、里奈は低いトーンでそう言うと、あっさりとタクシーに乗り込んだ。

走り去る車を見送り一人になった僕は、余韻を冷ますような気持ちでスマホを手に取り、そしてその画面表示にハッと息を飲む。

里奈と会っていたおよそ3時間の間に、美月から何度も何度も着信が入っていたのだ。

何かあったのかと心配に思う一方で、あまりの勘の鋭さに怯えてしまう僕がいる。

別にやましいことなど何もないが、里奈の残り香を纏った状態で妻と言葉を交わす気にはどうしてもなれず、コールバックするのはやめておいた。

“どうした?今、大学サークル仲間の皆で集まってる“

僕はそうメッセージを送るとすぐさまタクシーを拾い、仲間たちが待つ西麻布へと向かう。

時刻は22時を過ぎていたが、仲間たちはまだ1軒目で騒いでいるらしい。しばらくは帰る気配もなさそうだ。

別に、美月に嘘をついたわけじゃない。

そう、僕は妻に余計な心配をかけぬよう、言うべきことを取捨選択しただけだ。


歪んでいく愛


シンガポールに戻った次の週末。

僕は美月を、シャングリラホテルのハイティーに連れ出した。




以前に彼女から行ってみたいと誘われた時には「駐妻仲間と行ってきなよ」などと断っていたのだが、どうやら美月は駐妻コミュニティがあまり得意でないらしい。

結局まだ行けていないことを知っていて、だからこの日は僕から誘った。

「東京もめちゃくちゃ暑くってさぁ。スーツとか地獄だぜ。もはや亜熱帯だよ、あれは」

上品な大きさのサンドイッチをつまみながら僕は饒舌に語り、日本では仕事の予定ばかりで、特に楽しいことなどなかったのだと強調する。

話を聞いて美月が「あはは」と楽しげに笑う顔を、僕はホッとしつつもどこか複雑な思いで眺めていた。

…結局、一時帰国中の夜、僕が電話に出なかったこともコールバックしなかったことも、彼女は一切、追及してこなかった。

しかしその代わり僕がシンガポールに戻った日曜の夜、「寂しかった」とひとしきりベッドで甘えたあと、美月はこんなことを言ったのだ。

「ねぇ廉、子ども作らない?」

「え…?」

もちろん嫌なわけじゃない。しかし僕たちは結婚当初から、しばらくは夫婦ふたりの時間を楽しもうと話していたはずだ。

それなのにどうして今、いきなりそんなことを言う?

不穏にざわつく胸を押さえながら、僕は彼女の神経を逆なでないよう十分に気を使って「そうだね」といったん同意した。

「だけどさ、子どものことは結婚式が終わってから考えようよ」

僕は美月の頭を撫で、穏やかにそう付け加える。

彼女も「そうね」と頷いていたし、何ら不自然な対応はなかったはず。しかしこの時を境にむしろ僕の方が、美月に対し、どこか冷めた思いを感じるようになってしまった。

「私もう一つ、TWGのお紅茶試そうかな」

楽しそうにティーリストを眺めていた美月が、僕に上目で微笑む。

「ああ、そうしな」と彼女に頷いてみせながら、その裏で僕の心は、まったく別のことに占領されているのだった。

“この前は楽しかった。連絡ありがとうな”

今朝、ふと伝えたくなって里奈に送ったLINE。…その返事が、そろそろ届いているかもしれない。

視界の隅に、テーブルの端に置かれたスマホが目に入る。

思わず手を伸ばしたくなる衝動を、僕はぐっと耐えた。

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廉の結婚式で再び対面した里奈と美月の間に、予想外の確執が生まれる...?