日立高崎での活躍を評価され、1997年にソフトボール日本代表監督に就いた宇津木妙子さんは、2000年のシドニーオリンピックで銀メダル、2004年のアテネオリンピックでは銅メダルを獲得。輝かしい功績でありつつも、宇津木さんの言葉に「悔しさ」がにじむ理由とは。(全4回中の2回)

【写真】「辞任していたらこの姿は見られなかった」2004年アテネオリンピックで采配をふる宇津木さん(全12枚)

シドニーオリンピックは勝てるゲームだった

日本代表監督として2度のオリンピックを経験

── シドニーとアテネでは、監督としてソフトボールの日本代表を牽引されました。強いチームを育てるために意識したことやこだわったことを教えてください。

宇津木さん:「妥協しないこと」です。「これくらいでいいだろう」と考えてしまうと、途端に前に進めなくなってしまいます。練習でも生活でも、やるべきことをきっちりやっていれば、試合の結果が悪くても「たりないもの」に気づいて、改善に繋げることができるはず。後悔のないように、練習を強化し、生活を改善させることに努めました。

また、グラウンドでも寮でも選手たちに目を向け、気を配り続けました。「心配り」という言葉がありますが、これができて初めて、周囲の動向が読めるようになると考えています。「相手が何を考えているか」という観察力を養うことも、チーム力を高めるためには必要だと選手たちにも伝えていました。

── 日本代表監督として初出場したシドニー大会では、銀メダルを獲得されました。当時の気持ちを教えてください。

宇津木さん:シドニーの銀メダルは、監督としていちばんの反省点です。ものすごく練習を重ねて決勝戦まで全勝で来たにも関わらず、敗北…。ピッチャー交代の指示が遅れたことが敗因です。シドニーでは、メダルを獲ることを目標にしていましたが「勝てるゲームで負けた」という幕切れに、強い後悔を感じました。

シドニーの結果については、協会内でもかなり叩かれて、世間からも強い意見をもらうこともあって。一時は、アテネは目指さず監督を辞任しようかとも考えていたんです。

── 逆風のなかでも、再びアテネを目指そうと決断した理由は何だったのでしょうか。

宇津木さん:選手たちから「監督、アテネも頑張りましょう」と電話をもらったことで、「もう一度メダルを獲りたい」という気持ちに火がつきました。上野由岐子選手を筆頭に若い選手が育っていたこともあり、メダルの可能性を信じて「アテネもやらせてください」と会議で伝えました。

また、私生活では、シドニーオリンピック後に結婚をし、夫に相談できたのも心強かったと感じています。夫に「アテネはどうしようか」と話したとき、「ユニフォーム姿、カッコいいよ」と言ってもらえて。「頑張ろう」という気持ちに切り替えることができました。

落胆する宇津木さんを励ました落合博満監督の言葉

監督として選手たちへの心配りを大切にしていた

── アテネオリンピックでも、銅メダル獲得と大奮闘でしたね。

宇津木さん:アテネオリンピックの前年は、SARS(重症急性呼吸器症候群)が流行し、国際大会が相次いで中止されたため、オリンピックに向けた「国際経験」を積むことは叶いませんでした。しかし、選手全員がやるべきことをやったことで、メダル獲得に繋げられたと感じています。

ただ、私自身「金メダル」にこだわっていましたし、周囲からもお叱りを多くもらい、反省が残る大会となりました。大会直後は、協会の役員に挨拶すらしてもらえないこともあり、「頑張った選手に『ご苦労さま』すら言えないのはなぜか」と言い返したこともあるほど。

アテネ後の沖縄キャンプで、当時、中日ドラゴンズの監督だった落合博満さんにお会いしたとき、「銅メダルを取ってもダメなんですね」と話したら「世界で3位だぞ、なんでそれがダメなんだ!」と励まされてしまいました。

2004年アテネオリンピック時の宇津木さん

── オリンピックでの監督経験から得たものは何ですか?

宇津木さん:オリンピックでの経験は、周囲からの期待と責任の大きさを実感する機会となりました。また「環境が変わっても、自分を変えてはいけない」ということも学びました。

シドニーで銀メダルを獲ったことで、アテネへの期待が高まり、練習中にテレビ取材が入ることも増えました。「いつも通り」にしているつもりでも、どこかでカッコつけてしまい自分を見失っていたのかもしれません。そのことが、日々の練習に影響してしまったのでは、と考えることがあります。以前のように、バットを振り回して大声を張り上げて指導していたら、アテネではあるいは…と。

ただ、オリンピックでメダルを獲ったことで、ソフトボールをやっていない人からも「感動をありがとう」という言葉をたくさんもらうことができました。私は現役時代から「ソフトボールをメジャーにしたい。もっと認めてられる競技にしたい」という思いを強く持っていたので、その点では貢献できたのかなと感じています。

PROFILE 宇津木妙子さん

うつぎ・たえこ。1953年、埼玉県で生まれる。1972年に日本リーグ1部のユニチカ垂井に入団後、日本代表選手として世界選手権に出場。1985年に現役を引退。ジュニア日本代表コーチを経て、実業団チーム・日立高崎の監督に就任し、1部リーグ優勝チームへと育てる。その後、日本代表監督に抜擢され、2000年のシドニー五輪では銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダルを獲得。2004年には、日本人では初めて国際ソフトボール連盟に指導者として殿堂入りを果たす。現在もソフトボール界の普及活動に尽力している。

取材・文/佐藤有香 写真提供/宇津木妙子