東京の女性は、忙しい。

仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。

2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。

そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。

温かくポジティブな風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。

▶前回:「親の期待に応えるのはやめた」大企業でのキャリアを捨て、慶應卒28歳女が飛び込んだ世界は…




沙莉(30) 臆病な自分が嫌いで…


「この案件、大庭さんに任せるね」

「…は、はい」

2つ上の先輩・村上に資料を渡され、沙莉は曖昧にうなずいた。

沙莉は、神奈川県の大手地方銀行の東京支店で、貸付業務を担当している。

人生に関わるような大切な相談も多い。やりがいを感じる日々だが、その分プレッシャーもある。

― また重要そうな案件だ…。

村上が手渡してきた書類には、難易度の高い依頼が書かれていた。

融資の額が大きく、スムーズには通らなそうな案件だ。

「こ…これなら、村上さんがやってくださったほうが、確実かなと思うんですが」

沙莉は恐る恐る、問いかける。すると彼は困った顔でゆっくり首を横に振った。

「大庭さんならできるって。そんなに臆病にならないで、やってみてよ」

責められたような気分になり、沙莉はとっさに「すみません、そうですよね」と謝る。

臆病――その言葉は、自分のためにあるのではないかと沙莉は思う。

何かをしようとするとき、決まっていつも失敗する気がするのだ。

― きっと、受験も就活も、希望どおりに進んだためしがない過去のせい。

沙莉は自分でそう分析している。

― 情けないなあ、私。

ランチタイムがきて、落ち込んだ気持ちで一人、近くのカフェチェーンに入った。

注文するのは、いつもパスタにコーヒー。

支店に、気を許せる同僚はいないから、ランチはいつも一人だ。

レストランや食堂に単独で入る勇気はない。かといって、デスクで孤独にご飯を食べるのも寂しい。だから毎回、カフェでランチタイムを過ごす。

「あれ?沙莉ちゃん?」

席につき、パスタの到着を待ちながらコーヒーに口をつけた瞬間、沙莉の顔を覗き込む人がいた。


白いブーツに、シックなグレーのニットワンピース。目線を上げると、華やかな笑顔。

― ん?どこかで見かけたような。

「…えっと」

「留美子です。ほら、中学が一緒だった」

「あ!」

留美子は、沙莉と同じ、鎌倉にある中学校に通っていた生徒だ。

― 確か2年生のときに同じクラスで…何度か一緒に帰ったこともあったっけ。

留美子は「ひとり?ちょっと話そうよ」と言い、沙莉の向かいに座る。

「沙莉、元気?成人式以来じゃない?」

「う、うん。留美子…すっごくおしゃれになったね。一瞬、誰だかわからなかった」

そう言った途端に、留美子は、広告代理店を辞めて、今ファッションの仕事をしていると別の同級生から聞いたのを思い出す。

「そっか、そういえば聞いたよ。留美子、ファッションデザイナーになったんだっけ…?」

「そうそう」

「へええ、かっこいいなあ。昔からセンスよかったもんね」




2人でコーヒーを飲みながら、近況を話す。

留美子は最近実家に帰って、不仲になっていたお母さんと仲直りしたらしい。仕事は忙しいけれど楽しいらしい。

留美子の笑顔に圧倒されながら、沙莉は話に耳を傾けた。

留美子は沙莉の仕事についても興味深そうに聞いてくれる。

「私はね、今は神奈川県の銀行の東京支店にいるの」

「へえ。銀行で働いているなんてかっこいい」

― かっこいいって言われても、別に私、活躍できてないしなあ…。

「そういえば沙莉ちゃんって、大学時代は全国を飛び回ってボランティア活動してたよね。地銀に入ったのも、地元に貢献するため?」

「ええ?よく覚えてるね、大学時代の話なんて」

沙莉は愛想笑いしながら「今は全然違う仕事。融資業務」と答える。

「もともとはそのつもりで入行したんだけど、希望通りには配属されなくて。毎日、数字と向き合うプレッシャーに追われてる」

「そっか。でも、諦めずにずっと主張してたら、叶えてもらえたりしないの?」

― 主張するのは怖い。支店のみんなに白い目で見られそうだし。

沙莉はごまかすように「うーん」と言って笑った。

留美子はあっという間にコーヒー1杯を飲みきってしまって、慌ただしく言った。

「ごめん私、このあと打ち合わせなの。たまたま入ったカフェで沙莉ちゃんに偶然会えるなんて、ラッキーだった」

急に立ち上がった留美子を見て、沙莉は慌てて「あのさ」と問いかける。

気になることがあったのだ。

「ん?」

「あの…。広告代理店辞めて、ファッションを仕事にするって決めたとき、怖くなかった?」

「怖かったよ。そりゃあもう」

留美子は、真顔になって言う。




「私って臆病だから、やるかやらないか迷ってるとどんどん怖くなるタイプなの。

だからこそあのときは、動けなくなる前にやってみようって決めた」

「じゃあ」と言って留美子は手を振る。その姿が、やけに眩しい。

― 留美子も「臆病」なんだ…?

驚きながら、留美子に手を振り返す。凛とした後ろ姿が、沙莉に小さな勇気をくれた。

ようやくパスタが到着したとき、沙莉の頭の中には「地方創生」の文字がちらついていた。

― もう一度、主張してみてもいいのかな?

大学時代、沙莉はボランティアサークルに所属していた。

長野で育林活動をしたり、江の島でビーチクリーン活動をしたり。

東北の被災地支援のために、漁師のおばあちゃんが作った手作りの商品を売るイベントを、各地で開催したりしていた。

目の前の人と長時間話して、「ありがとう」をもらえる活動。

ずっと臆病で自分を好きになれなかった沙莉だが、ボランティアのおかげで、あの頃は自分をちょっと好きになれたのだった。

― 社会人になって、臆病な私に逆戻りだ。やっぱり、諦めてないで言ってみようかな。

今いる銀行では地方創生に力を入れている。当然、サークル活動よりも規模の大きい活動ができる。

少しイメージしただけで、沙莉は仕事に対して、久々に胸の高鳴りを感じた。



留美子と再会して5日。

週末を挟んで出社した沙莉は、ある決心をしていた。


― 地方創生ができる部署に異動したい。怖がらないで、主張しよう。

いきなり上司に相談するのはハードルが高いので、まずは歳の近い村上に、決意を聞いてもらおうと決めた。

留美子の言うことを思い出し「怖くなってしまう前に、意思を伝えよう」と思ったのだ。

「あ、あの」

意を決して村上を呼び止め、会議スペースに誘導する。

「私…地方創生の仕事をしたいんです」

大学でボランティアをやっていたこと。そのために入行したこと。諦められず、今一度挑戦したいこと。

真剣に話す沙莉に、村上はあっけにとられている。

「だから、ダメ元で希望を出そうと思うんです。…迷惑ですか?」

「えっと…急なことでびっくりした。でも、大庭さんの決意を聞けてうれしいよ」




「本当は、怖いんです。…融資業務でまだ半人前だというのに、他のことに挑戦したいなんて。支店の皆さんは、どう思うかなって」

村上は、にっこりと頷いてくれる。

「確かに僕の立場からすれば、大庭さんに抜けてほしくはないけれど。まず、異動希望を出してみたらいいと思うよ。必ず通るとは限らないけれど、もうすぐ新年度だしタイミングはいいかもね」

「はい…。上司に相談してみます」

沙莉がお礼を言うと、村上は背中を押すように微笑んだ。

「大庭さんは、半人前じゃないよ。仕事が丁寧で助かってる。欲を言えばもっと積極的になってほしいと思ってるから、もし異動できたら成長のチャンスになるんじゃないかな」



それから半年後。

9月の秋めいた季節の中、沙莉は車を運転している。

春休みにボランティアに精を出し、人事部に熱意を伝え続けた結果、沙莉は6月から念願通り地方創生の部署に配属された。

今日は、静岡県にある海沿いの町でお祭りが開催される。

ここ3ヶ月、静岡の地方銀行とタッグを組んで創生に携わっている町だ。だから、プライベートで参加することにした。

「気持ちいいね。静岡、久々に来たなあ」

村上が、助手席で微笑んだ。彼もプライベートで参加してくれるという。

思い切って異動希望を相談したのをきっかけに、村上は、沙莉のことを今まで以上に気にかけてくれるようになった。

定期的に飲みに行く仲になり、部署が変わった今の方が距離が縮まっている。

「今日は楽しみだなあ。大庭さんの成長を間近で見れそうだ」

村上は感慨深い様子で言う。

「正直、大庭さんのことは、悩みの種だったんだよ。何を言っても後ろ向きに捉えるから、先輩としてどう関わったら正解か、すごく悩んでたんだ。

だからボランティアの話をされたときはすごく意外だった。この子、情熱を隠してたんだって」

「すみません」と沙莉が恐縮すると、村上は「責めてないって」と笑う。




「このあたり久々に来たけど、温泉もあって、海も近くていいよね」

「はい。しかも高速があるからアクセスもいいんですよ。最近は、自治体と連携して、観光支援の施策を考えているところです」

ハンドルを握りながら、沙莉は意気揚々と話す。

自治体の人。地域で店舗などを営んでいる人。沙莉を待ってくれている人が、この町にはたくさんいる。

それだけで、沙莉はものすごく満たされた気持ちになる。

「大庭さん、ほんとイキイキしたね。数ヶ月前とはだいぶ印象が違うよ」

沙莉自身が、一番驚いていることだ。

自分の毎日を誰かに自慢したいような、明るい気分。大学時代以上に、自分を好きになれている。

「きっといろんな人に信頼されているんだろうな。先輩として、誇らしいなあ」

村上はいつもこうやって、沙莉のいいところをたくさん褒めてくれる。

それも、ここ数ヶ月で沙莉が自信をまとえている大きな要因だ。

― 小さな勇気で、こんなにも毎日が変わるなんて。

笑顔でハンドルを左に切ると、地平線を覆うように紺色の海が広がった。

キラキラ輝く水面を、沙莉はうっとりと見つめる。

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