夫へのイライラが止まらない。出産後、彼の言動が許せなくなった妻は家を出て行き…
ただ時間を知りたいだけなら、スマホやスマートウォッチでいい。
女性がわざわざ高級時計を身につけるのには、特別な理由がある。
ワンランク上の大人の自分にしてくれる存在だったり、お守り的な意味があったりする。
ようやく手にした時計は、まさに「運命の1本」といえる。
これは、そんな「運命の時計」を手に入れた女たちの物語。
▶前回:35歳の彼女の誕生日、プレゼントがきっかけでケンカに発展…。年上女が喜ぶモノとは
Vol.7 産後クライシスな夫婦
ハリー・ウィンストン「HW エメラルド」
「はい、はい。花織ちゃんどうしたの?」
萌花は起き上がり、ベビーベッドから赤ちゃんを抱き上げた。
娘の花織は、3週間前に生まれたばかりだ。
妊娠中から夫婦で楽しみにしていた初めての育児だったが、萌花は退院後すぐに思い知った。
― 出産したばかりで、まだ調子も万全なわけじゃないところに、新生児のお世話って本当に大変…。
「夜中に一度ぐらい授乳を代わってほしいくらいだわ…」
萌花は、ベッドで爆睡している夫の祐樹を見ながら恨めしそうにつぶやく。
「ねぇ、祐樹。祐樹ってば」
ゆすってみたが、祐樹は萌花の手を払うと、反対向きに寝返りを打った。
― はぁ…。何よ、言ってたことと全然違うじゃない。
そもそも退院後すぐは、日吉にある萌花の実家に里帰りしてゆっくり体を休めるつもりだった。
でも「実家に帰らないでいいよ。俺、一緒に世話するから」という夫の言葉で、退院後は里帰りをしなかった萌花。
妊娠期間中は、育児グッズを選んだり、生まれてくる子どものために車を買い替えたりと、夫からは相当な思い入れを感じることができた。
だが、出産後の夫の動きは鈍い。
― 夜は起きなくても、昼間少しでも育児に参加してくれたらいいのに…。
「萌花、泣いてるよ!」と知らせてくれるだけで、何の役にも立たない。
萌花の腕の中にいる花織は、何が気に入らないのかますます大声を上げて泣き始めた。
「花織、お願いだから、いい子で寝てくれる?」
萌花の瞳からは涙が溢れてきた。
萌花と夫、祐樹は友人主催のパーティーで知り合い、2年付き合って結婚した。
萌花が31歳、祐樹が34歳の時だ。
夫の家は、不動産業をしており、祐樹も家業を継いでいる。
付き合っている当初から、一般的な家庭とは明らかに違っていた。
とにかく、経済的に潤っている。
結婚後は、夫の実家が所有している外苑前にあるマンションの一室に住んでいる。
萌花たちのマンションと夫の実家は目と鼻の先。義父母との関係も良好だし、夫は優しい。
世間ではこういうのを玉の輿というのだろう。なんの不満もない、理想的な結婚生活だった。
妊娠がわかった時は、夫やご両親は手放しで喜んでくれた。
妊娠検査をしたのは別の病院だったが、義母から「産むのはちゃんとしたところで」と言われ、山王病院を紹介された。ここの産婦人科は、御三家といわれるセレブ産院だ。
断る特別な理由もなく、萌花はそれに従った。
― こんなに恵まれた環境で出産ができるなんて、私って本当に幸せ。
萌花はそう信じて疑わなかった。
でも、娘を授かってからというもの、夫と義両親に対して「あれっ?」って思うことが多くなった。
最初は、出産方法をめぐってだった。
山王病院では無痛分娩を選ぶことができる。自身の姉から産後の大変さを聞いていたため、出産する病院にその選択肢があるのなら、選びたいと思っていた。
義実家で食事中に萌花が、なんとなく出産方法を話題にした時。
すると、義母は「お腹を痛めて産まないなんて…」と一言。
一応、祐樹は「萌花の好きにしていいよ」と言ってくれたが、義母の意見を押し切って無痛を選ぶことはできなかった。
また、生まれてからも、夫と夫家族への違和感は募っていく。
それは娘の名付けについて。
親が子どもにあげる最初のプレゼントが名前。だから娘の幸せを願い、祐樹と2人で考えたいと思っていた。
しかし、夫が、「母さんはどんな名前がいいと思う?」との一言から風向きが変わったのだ。親子でああでもない、こうでもないと盛り上がり、結局、夫が母と相談して名前が決まってしまった。
「花を織ると書いて花織、可愛い名前だな。萌花の“花”も入ってるし」
夫は満面の笑みを浮かべている。
― 私の名前が一文字入っているし、素敵な名前だとは思うけど…。名前は私たち夫婦で決めたかったな。
今さら水を差すのもどうかと思い、萌花は了承した。
こうしたいくつかの出来事を、萌花は「自分が少し我慢する」という方法で乗り越えた。
◆
暗がりで、1時間ほどゆらゆらとあやしていると、ようやく花織が寝たので、萌花はそっとベビーベッドに寝かせた。
― やっと寝た…。
萌花は再びベッドに横たわる。隣のベッドには、先ほどとなんら変わらぬ状態で、寝息を立てている夫の姿。
萌花は、意識がなくなりそうなほど眠いにもかかわらず、モヤモヤした気持ちが拭えず、なかなか眠れなかった。
― はぁ、いつまで続くんだろうこんな生活。
娘の天使のような寝顔を見ながら、萌花は深くため息をついた。
◆
1週間後。
「萌花〜!ただいま」
22時ごろ、花織を寝かせ、ほっと一息ついた時、バタバタと大きな音を立てて祐樹が帰ってきた。
「ちょっと、花織が寝たばかりなのよ。起きちゃうじゃない!」
その日は、日中もあまり眠ってくれず、萌花は食事もままならなかった。
「萌花、どうしたの?そんな怖い顔して。これ君へのプレゼント」
祐樹は意気揚々と萌花にネイビーの手提げを手渡す。萌花が受け取った手提げの中央には、「HARRY WINSTON」の堂々たる刻印。
萌花は伏し目がちにそれを受け取り、祐樹に急かされながら箱を開封した。
「…腕時計?」
入っていたのは、小さなレクタングルの腕時計。ベゼルや文字盤の至るところにダイヤモンドがあしらわれている。赤いベルトは華奢で、女性らしく洗練されている。
萌花がうっとりと時計に見惚れていたとき、祐樹がとんでもない言葉を放った。
「花織が生まれた記念に。あと、これから育児を頑張ってもらいたいからね」
「頑張ってもらいたいってどういう意味?」
時計を手にしたまま萌花は唖然となった。だが、祐樹はその様子に気づいていない。
「子育てが大変ってことを花織が生まれてから痛感したよ」
高価なプレゼントを持ち帰り、祐樹なりに気を使っているのは萌花も知っている。
しかし、子育てに関しては、ほぼ人ごと。
萌花は顔を上げ、キッと祐樹を見据えて言った。
「意外と大変って、祐樹は何が大変なの?」
「祐樹が手伝ってくれるって言うから、私は実家に帰るのをやめたのに…。
あなたは、子育ては手伝わずにプレゼントで私の機嫌とり?そもそも、育児に追われていたら、高級時計なんてつける余裕ないのよ」
ここまで言うと、次から次へと今まで溜めていた夫に対する文句が口から飛び出してきた。
「夜中にぐずったって起きるわけじゃないし、昼間だって『泣いてるよー』って知らせるだけで、自分は何もしない。いいパパになるって言ってたけど、口ばっかり!」
憤る萌花に、祐樹は無言のまま。
これまで夫と義両親に抱いてきたわだかまりも、萌花は全て吐き出した。そして、ひとしきり文句を言い終えると、少し気分がすっきりした。
「悪いけど、私、当初の予定どおり実家に帰るわ。今から!」
そう言うと、萌花はアプリでタクシーを呼び、実母に「これから実家に帰ってもいい?」とLINEを送った。
◆
翌朝9時。
「よく寝た〜!」
萌花は、実家で心ゆくまで眠り、すっきりと目を覚ました。夜中に一度だけ花織が起きたが、ミルクを与えるとまたすぐに静かになり、萌花を手こずらせることもなかった。
リビングに行くと、花織は萌花の父に大人しく抱っこされていた。
母の作った朝食を食べ、食後にコーヒーを飲む。久しぶりにイライラしていない、ゆったりと気持ちの良い朝。
「さっき、祐樹さんからLINEが来たわよ。迎えに伺いたいって」
母は萌花と相談して折り返す、と返信したそうだ。萌花は、出産後の一部始終を母に話した。
「男性ってそういうものよ。自分で産んだわけじゃないし、ある日いきなり父親になるんだもの」
「まあ、言われてみればそうだけど」
確かに、もっと具体的に、指示を出して手伝いをお願いしていれば、ちょっとは違っていたかもしれないと萌花は思った。
「釣った魚に餌をやらない人が多いのに、出産の記念に時計をくれるなんて、いい旦那さんじゃない」
「そうだけど…。なんか腹が立つんだよね、モノで解決された感じが。
でも、一日ゆっくり寝たら、元気出てきた。私も寝不足で、ずっとイライラしっぱなしだったのかも。今日、帰ろうかな」
実家は帰ろうと思えば、すぐに帰って来られる場所。息切れしたらまた充電しに帰ってくればいいのだ。
夕方になり、祐樹に連絡したら迎えに来た。
いつもとは違って、どこかしおらしい夫の様子に、萌花はつい笑ってしまいそうになる。
そして、実家でも、自宅に戻ってからも祐樹は平謝りを繰り返した。
「もう、いいよ。この時計に免じて許してあげる」
萌花は、昨日祐樹からプレゼントされた時計を手にしながら言った。
「前に雑誌で見たことあったけど、実物は比べ物にならないくらい綺麗…」
萌花の手首にピッタリと沿う小さな腕時計は、ハリー・ウィンストンの「HW エメラルド」というモデルだ。
エメラルドといってもエメラルドが使われているわけではない。ケースのフォルムにエメラルドを象ったハリー・ウィンストンのアイコン的腕時計なのだ。
53個のダイヤモンドがベゼルをぐるりと1周している。
それだけではない。ダイヤル(文字盤)にもインデックスの代わりにダイヤモンドが、12時と3、6、9時の位置にはルビーが配されている。
「5月に生まれた花織の誕生石はエメラルド、7月生まれの萌花の誕生日石はルビー。記念だから、なんか意味があった方がいいなと思ってこれに決めたんだ」
萌花は、ロレックスのデイトジャストや、カルティエのサントスを持っているが、それらはあくまでも時計なのだ。
だが、このHWエメラルドは、時計というよりハイジュエリー。
― 祐樹なりに、私と花織のことを大事に思ってくれてるのよね。
「萌花、来週末はこの時計をつけて、2人で食事に行こう。うちの母さんに、花織を預かってほしいって、お願いしておいたよ」
「ありがとう。楽しみ!何着て行こうかな」
萌花は、照明の光を受けて輝く、腕時計を見つめ答えた。
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