ただ時間を知りたいだけなら、スマホやスマートウォッチでいい。

女性がわざわざ高級時計を身につけるのには、特別な理由がある。

ワンランク上の大人の自分にしてくれる存在だったり、お守り的な意味があったりする。

ようやく手にした時計は、まさに「運命の1本」といえる。

これは、そんな「運命の時計」を手に入れた女たちの物語。

▶前回:「いつか、彼と結婚できるかも…」淡い期待抱きながら、不貞関係を続けた29歳女の顛末




Vol.6 塔子(35歳)格差恋愛
ブライトリング ナビタイマー オートマチック 35


「先生、珍しい時計してますね」

デスクの脇に置いている腕時計を見て看護師が声をかけてきた。

この日の最後の診療を終えたばかりで、塔子はカルテを打ち込む手をとめて答えた。

「これ?大事な時計なの。素敵でしょ?」

「どこの時計なんですか?」

看護師が時計をまじまじと見た。

「ブライトリングっていうメーカーのものなの」

「ベルトのカラーがピンクっていうところも珍しいですが、文字盤のデザインも見たことないです」

塔子は腕時計を手に取ると、ふわりと笑みを浮かべた。

「でしょ?こう見えて素材はアリゲーターなの。ピンクって身につけているだけで気分があがるのよ」

ヴァンクリ、ブルガリ、シャネル、エルメス…塔子は、十数本の腕時計を所有している。

普段は、その日の服装に合わせて時計を選ぶのだが、このブライトリングはここぞという時、あるいは、どうしても気分を上げたい時に選ぶ、とっておきの時計なのだ。

「今日は金曜日ですし、気分を上げたい何かがあるんですか?」

「ええ、まあね。私、そろそろ失礼するから後はよろしく」

塔子は、くるりと椅子の向きを変え、立ち上がった。

― 気分をアゲたい、とはちょっと違うけどね。

塔子は、今日付き合っている彼、孝之にどうしても伝えなくてはならないことがあるのだ。


格差カップルの悲劇


孝之は、製薬会社のMR。以前勤めていた大学病院に出入りしていた。

仕事上の付き合いはなかったが、初めて口を利いたのは、塔子が退勤後に立ち寄った院内のスターバックス。

「内科の先生ですよね?」と彼に声をかけられたことから始まった。

人懐っこい彼の笑顔に釣られ、なんとなく世間話をした。それ以来、院内で会うたびに話すようになった。




名刺をもらい、連絡先を交換すると孝之は食事に誘ってきた。

彼は塔子より4つ下だったが、同じ医療業界だから話も合う。食事に行ってからは急速に距離が縮まり、孝之からのアプローチで付き合うようになるまで、時間はかからなかった。

塔子が、大学病院を辞めて現在の総合病院に移ってからも、2人の関係は続いた。

気づくと4年が経過し、孝之は31歳。塔子は35歳になっていた。

35歳といっても、塔子は結婚に焦っていなかった。自分1人で生活していく分には、何不自由のない今の暮らしを塔子は気に入っている。

孝之から結婚の話が出たことはなかったし、きっと孝之も今の距離感を気に入っているのだと思っていた。

しかし、その関係はあることがきっかけで微妙に歪んでいったのだ。

半年ほど前のことだ。

塔子は、孝之に呼ばれて表参道に出向いた。

孝之は、父親からプレゼントされた愛用のブライトリングをオーバーホールに出すため、ブライトリング ブティック 表参道に行きたいという。

ブライトリングというブランド名は聞いたことがあるが、塔子は、どんな時計か今まで気にしたこともなかった。

2人で店内に入ったとき、塔子はある時計に目が釘付けになった。

「この時計、見て。知的な感じで素敵。こんなデザイン、見たことない」




「ナビタイマーっていうモデルだよ。僕の父が生まれた1952年にできたモデルらしくて、親父も初めて買ったブライトリングは、ナビタイマーだって言ってた。

パイロットウォッチとして作られたモデルだから、航空計算尺がついているんだ。

僕のは、クロノマットっていうスポーツウォッチ」

直営店でブライトリングを買うと、クラブ・ブライトリングのメンバーになると孝之はいう。

専用サロンがあり、さまざまなイベントや、メンテナンスサービスを実施するなど手厚すぎるサポートが受けられる。また、時計によって培える人脈も魅力。

孝之の両親は2人揃ってブライトリングを愛用しているという。

店のスタッフがレディースのナビタイマーを出してくれた。

「うわぁ、こういう少し大きめのサイズ感も存在感があって素敵ね!」

すると、感心する塔子に、孝之が言った。

「じゃあ、今年の誕生日プレゼントはコレにするよ」

値段は70万弱。塔子が持っている腕時計には、これを超えるものが何本もある。

だけど、人からもらうとなると話は別。

「えっ?いいよ。悪いから欲しかったら自分で買うよ」

それは、医師である自分への驕りだったと今なら思う。だが、その時の塔子には一切の悪気はなかった。

ふと孝之の方を見ると、微妙に悔しそうな表情をしている。いつも穏やかで笑顔を絶やさない孝之の意外な一面を見たような気がした。

塔子の年収は1,500万前後。一方、一般企業に勤める孝之は、自分よりは少ないだろう。

そう思って、塔子はこれまでプレゼントをねだることもなく、デートの時も支払いを孝之まかせにすることもなかった。

だから、欲しかったら自分で買う、というのは孝之の懐事情を配慮したために出た言葉だった。



翌週は、塔子の誕生日だった。

2人で出かけたのは、代々木にある『ピッツェリア・ロマーナ・イルペンティート』。

塔子はこの店の軽い食感のピザが大好きで、ワインと共にあれこれつまんだ後に、ピザを1枚平らげた。

「あー、満足。お腹いっぱい」

だが、目の前の孝之は、食事が進んでいない。

塔子が心配すると、孝之は緊張した面持ちでテーブルの下から袋を取り出し、差し出す。

「おめでとう。これ、プレゼント」

袋に刻印されているのは、ブライトリングのマーク。

「えっ?まさかこの間の?」

その場で箱を開けると、中には淡いピンクのレザーベルトのナビタイマーが入っていた。

ビーズがぐるりと取り囲むようなデザインのベゼル、そして、文字盤にはダイヤモンドがあしらわれている。

「ナビタイマー オートマチック35」

「ピンクのベルト、可愛い。でも本当にいいの?」

孝之は頷き、時計を塔子の手首に添わせた。

しかし、その直後、想定外の話を始めたのだった。


「実は、来月から転勤になったんだ。北海道の函館に」

「えっ?」

思わぬ報告に、塔子は驚きのあまり次の言葉が出てこない。

「なかなか会えなくなるから、可能なら一緒に来てほしい。結婚を前提に一緒に暮らせないかな」

きっと孝之にとっては、相当な決心が必要だったはずだ。

「結婚って、今までそんな話したことないよね?それに函館って…」

塔子は動揺した。その様子を見て、孝之は残念そうに言う。

「びっくりさせちゃったな。塔子は仕事が好きだから、結婚なんて考えたことなかっただろ?」

塔子はグラスに残っていたワインを飲み干す。

「うん。今じゃなくて、もっと先でいいと思ってた」

店の雰囲気にそぐわず、2人のテーブルの空気だけが、重く沈み込んでいくようだ。

そして、次の瞬間、孝之が冗談めいて言った言葉は、塔子にグサリと突き刺さった。

「やっぱ結婚よりもキャリアが大事か…。子どもを持ちたいとか、考えたことないの?」

塔子はムキになって答える。

「考えてないわけじゃない。でも、もし結婚して子どもができても、仕事を続けられる環境じゃなかったら…せっかく医師になったのに」

「結婚したら仕事を辞めろなんて、俺、言ってないよ?結局、塔子は今の生活レベルを落としたくないんだろ?俺の方が収入低いし、生活、心配だよな?

2人の間に絶対的な溝ができたような気がした。

孝之からもらったナビタイマーは、場にそぐわない華やかなオーラを放っていた。



孝之が引っ越すまでの間、2人で何度か会った。

だが、「結婚」「転勤」この2つの地雷を踏まないようお互いに気をつけている微妙な距離感。以前のように何も考えずに笑い合うことができなくなっていた。

引っ越しを2週間後に控えたある夜、孝之が言った。

「俺がいきなり転勤とか結婚とか言い出したせいだな。ごめんね」

孝之が謝る必要なんてない。そう思っているのに、塔子はその気持ちを口に出すことができなかった。

結局、孝之から「別れよう」と言われ、塔子は了承した。






白衣から着替え、病院を出ると塔子は手を上げ、タクシーを止めた。

「トランクに荷物をお願いします」

リモワのキャリーには2泊分の荷物が入っている。塔子はタクシーに乗り込む。

「羽田の国内線ターミナルまで」

行き先は函館。孝之の転勤先だ。

実は、お互い合意の上で別れたものの、塔子は「孝之がいない日常」をうまく受け入れることができなかった。

仕事、プライベートが空虚に感じ、何もやる気が湧いてこない。彼からの最後のプレゼントを身につけ、出てくるのはため息ばかり。なんで別れてしまったのだろうと後悔の念が込み上げてきた。

めそめそと落ち込んでいる自分が嫌で、思い切って、LINEを送ってみた。

「今更ごめん。函館で元気にしてるかなーと思って」

すると……。

「函館って食べ物美味しいし、めちゃいいとこだよ」

孝之は以前と変わらぬ様子で、返信をくれた。

塔子は、思わず電話の通話ボタンを押した。スマートフォンから孝之の声が聞こえると、塔子は反射的に数ヶ月前のことを謝った。

そして、収入の差とか、生活レベルなんてどうでもいい。やっぱり一緒にいたい、と伝えたのだ。

以降、2人の遠距離恋愛が始まった。塔子は月に2度、孝之に会うために函館に行く。

「塔子の年収なら、毎週だって来れるだろ?」

「当たり前じゃない!」

そんな冗談めいたやりとりも今ならできる。

空港に向かう車中で、塔子は孝之にLINEする。

「空港で何か買っていこうか?」

「千疋屋総本店のマンゴープリン」

でも、塔子は、半年後には今勤めている病院を辞め、函館に行こうと計画している。

今日は、そのことを伝えに函館に向かっているのだ。

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