「金で買えないものはない」

愛だって女だって、お金さえあれば何でも手に入る。男の価値は、経済力一択。

豪華でキラキラしたものを贈っておけば、女なんて楽勝。

そんな彼の価値観を、一人の女が、狂わせていくー。

◆これまでのあらすじ

パリへ行く麻子に、最後に会いに行った憲明。うっかり彼女のことを抱きしめてしまい罪悪感を抱きながら帰宅すると…?

▶前回:弱った元カノを前に、理性を抑えきれなかった男。彼が犯してしまったタブー




「遅かったね。どこに行ってたの?」

21時。憲明が帰宅すると、はるかはすでに帰ってきていた。

失敗した。どうにか彼女より早く帰ってこようと思っていたのに。なぜ今日に限ってこんなに早いのだと真っ青になる。

彼氏にフラれた友達の話を聞きに行くと言っていたので長くなるだろうと踏んでいたのに、読みの甘い自分を呪った。

「ちょっと吉野と飲んできたよ」

疑われないようにサラリと答えるが、心臓はバクバク音を立てている。麻子を抱きしめてしまったのは、ほんの1時間前のこと。はるかを前にすると、罪悪感に襲われた。心がヒリヒリするが、ここは踏ん張りどころだと自分に言い聞かせる。

「随分早かったんだね。はるかの方こそ、お友達は大丈夫だったの?」

自然な会話を演出しようと、コートを脱ぎながら問いかけてみる。するとはるかは、呆れた顔でこう答えた。

「結局ヨリを戻すみたい。人を呼び寄せておいて、本当に迷惑な話よね。

あ、コート預かるよ」

手を伸ばしてきたはるかにコートを預けると、彼女はそのままブラッシングを始めた。

だが、すぐにその手を止め、憲明をじっと見つめた。

「憲明さんの匂い、いつもと違う。これ、女物だよね?」


1時間前の出来事。麻子のことが心配でたまらなかった憲明がやってしまったこととは…?


彼女が心配


1時間前。

「ご、ごめん…。つい」

麻子を抱きしめてしまった憲明は、ハッと我に返って彼女から離れようとした。

弱々しい姿を見て理性を抑えきれなかった自分が情けない。だが麻子は、憲明にもたれかかったまま予期せぬことを口にした。

「落ち着くまで、こうしていても良い?」

「…えっ」

憲明はひどく動揺したが、麻子を突き放すことなど出来なかった。今自分は、彼女が寄りかかる壁に過ぎないと、必死に言い訳をする。

幸いクローク前には他の客の姿はなく、スタッフも気を遣ったのか姿を消した。動揺から心臓が音を立てている。この近さだ。きっと彼女にも伝わっていると思うと、恥ずかしくなった。

10分ほど経った頃だろうか。鼻をすすっていた麻子が、そっと身体を離した。

「ありがとう、もう大丈夫よ。ごめんね、迷惑なことしちゃって」

先ほどまでの青白い顔とは打って変わり、顔に少しだけ赤味が戻っていた。その姿に胸を撫で下ろした憲明だが、間近で彼女の顔を見るなり不安を覚えた。

目の下にはくっきりとクマが出来ているし、肌も荒れている。しっかり休めていないことはすぐに分かった。

−随分、無理してたんだな。

元恋人の弱った姿に、胸が締め付けられた。

「あんまり頑張り過ぎるなよ」

そう言うのが精いっぱいだった。今の彼女に何と声をかけるのが正解なのか、正直分からない。麻子は子どものようにこくんと頷く。

これまでのように、「別に大丈夫だから」と、強気に言い返してくれたほうがよっぽど良い。そうすれば、「頑張って来いよ」と、送り出せるのに。

思えば麻子はこれまでずっと、他人に負担や心配をかけまいと頑張ってきたのだろう。胸が痛んだ。

しかし、はっとして時計を見ると、時刻は20時半を指している。

はるかには出かけることを伝えていない。面倒なことにならないよう、彼女より早く帰らなくては。

一瞬、麻子ともっと話していたいという思いがよぎるが、それをどうにか押し殺した。

「そろそろ行くな。ほんとに無理はナシだぞ。わかったな?」

なんとかそれだけは伝えると、憲明はその場を去った。






そして急いで帰宅したものの、はるかに先を越されたという訳だ。

「吉野の女友達も一緒だったから。何かの弾みで、ついちゃったのかも。

香水、けっこう強かったもんなあ…」

はるかに問いただされた憲明は、あまりの剣幕に思わず後退りした。

まさか、コートに麻子の香りが移っているだなんて考えもしなかった。何も考えず、はるかにうっかりコートを渡した自分も情けなくて仕方がない。

とりあえず頭に浮かんできた言い訳をそのまま並べてみたものの、無理があることは自分でも分かっていた。

ピリピリと張りつめた空気がその場を覆う。これ以上詰め寄られたら白状してしまいそうだった。

ジリジリと攻撃を続けていたはるかだが、憲明が目を逸らした瞬間、突然抱きつき、キスをしてきた。そして、そのまま寝室に行こうと、手を引っぱる。

「ごめん、今日は…」

麻子を抱きしめた後で、どうにも、はるかを抱く気にはならなかった。

「なんで?抱けない理由でもあるの?」

何かに取りつかれたように強引に攻めてくる彼女に耐えきれず、つい声を荒げてしまう。

「やめてくれ!」

その声と勢いに驚いたのだろう。はるかが、がっしりと掴んでいた手をパッと放した。その隙に、憲明は彼女から離れる。

呆然と立ち尽くすはるかに向かって、こう告げた。

「…ごめん、今日は外に泊まる」

財布とスマホだけを掴んでポケットに入れた。寒いのは承知だったが、コートを取っている暇はない。憲明は、振り返ることなく部屋を後にした。


ホテルで一人になった憲明。脳裏に浮かぶのは、やっぱり…?そしてある決心をする。


見て見ぬふりは出来ない


部屋を出た憲明は、流しのタクシーを拾った。

「東京駅の方に。とりあえず、出してもらえますか」

タクシーが東京駅に向かう途中、スマホでホテルを検索する。

東京駅の近くなら、日本橋に銀座、丸の内と選択肢が多いと踏んだ。すぐにスマホでホテルを探し始める。

−良かった、空いてた。

画面に表示されたのは、憲明も何度か利用したことがあるホテル。幸運なことに、デラックスルームが残っていた。

当日夜の予約だし、狭いビジネスホテルでも仕方ないと思っていたが、良い部屋が見つかってほっと息をつく。これで今晩はゆっくり一人で眠れる。

宿泊先のホテルを運転手に告げた憲明は、座席に深く身を預けた。




部屋に入った憲明は、ぼんやり外を眺めた。感情が入り乱れた自分を鎮めるため、大きく深呼吸する。

弱った麻子の姿を目の当たりにして、衝動的に抱きしめてしまった。今だって、頭に浮かんでくるのは、彼女のことばかりだ。

プロポーズを断られたことが許せなくて意地を張っていたが、心の中には麻子がいる。この数ヶ月間、必死でそれを追い払おうとしてきたが、そんなことは出来なかったのだと、今改めて気付かされた。

その気持ちを認識してしまった以上、はるかと付き合うことは難しい。自分勝手で幼稚な行動だということは分かっているし、周囲に非難されるのも覚悟の上。

それでもやっぱり。麻子が好きなのだ。すると、憲明の本心を見透かしたかのようなタイミングで、吉野からLINEが入った。

『今日来ると思ってたよ。麻子のこと、まだ気になってるんだろう』

「夜分に悪い」

メッセージを見た憲明は、堪らず吉野に電話をかけてしまった。

「あの後、麻子と話したんだ。俺、やっぱり…」

「だろうな」

吉野は最後まで聞かずに割り込み、語気を強めた。

「だったらさ、ズルズル付き合ってないではっきりさせろよ。麻子のこと、追いかけたいんだろ」

今まさに考えていたことだった。吉野の言葉が、憲明の心に突き刺さる。

押し黙っていると、彼はこう続けた。

「今さら格好なんかつけられるわけないんだからさ。ちゃんと話せよ」

ちゃんと話せというのは、はるかとのことだろう。逃げるようなことはするなという旧友からのアドバイスに、憲明は「ありがとな」と頷く。

電話を終えると、吉野からすぐにメッセージが届いた。そこに記されていたのは、麻子が搭乗する予定のフライト情報。憲明は、心を決めた。



「ただいま」

翌日。

帰宅した憲明は驚いた。はるかが、ニコニコしながら出てきたのだ。

「おかえり〜。お腹空いたでしょう?」

何事もなかったかのように明るく振る舞っている。昨日の怒った姿との落差に、憲明は混乱した。

いざ食事を始めると、楽しそうにペラペラと話を続けて、憲明が話す隙を与えてくれない。

「あのさ…」

「今度の土曜だけど、ここのレストランに…」

話を切り出すと、それに話を覆い被せてくるのだ。それでも、心を決めた今長引かせても良いことはない。

食事を終えるなり洗い物をしに行ってしまったはるかを追いかけて、憲明はキッチンまで押しかけた。

「話がある」

そう切り出すと、はるかは「聞きたくない」と、手で追い払う仕草をした。きっと彼女は、憲明の心変わりを察知しているのだろう。

「ご両親との食事会だけど、ごめん、行けない。本当に申し訳なく思ってる」

「それって、つまり…」

ギロリとこちらを睨んだはるかの顔は、恐ろしく怒りに満ちていた。

「別れて…」

憲明が切り出したその瞬間。ガッシャーンという音が、部屋中に響いた。

−痛い。

足元に目をやると、ガラスが粉々に飛び散っている。はるかが、洗っていたグラスを床に叩きつけるように落としたのだ。

「どうして。どうして私じゃダメなのよ!」

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はるかとの修羅場を迎えた憲明。一方の麻子も、心を決めかねていた…。