「まさか元カレに会ってた?」表参道で彼女と同棲中の30歳男。深夜に気づいた、異変とは
人の心は単純ではない。
たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。
軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。
これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。
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鼻歌のメッセージ【前編】
「美波。何を歌ってるの?」
部屋での夕食を終え、洗い物をしている美波に向かって、圭也が尋ねた。
美波は、何のことかわからないといった様子で応える。
美波と一緒に表参道のマンションで暮らし始めて1ヶ月。圭也は今年で30歳となる。
ひとつ年下の美波との1年半の交際を経て、結婚を視野に入れての同棲だった。
同じ部屋で過ごす時間が長くなり、圭也にはひとつ気づいたことがある。
美波はよく、歌を口ずさんだり、鼻歌を歌ったりするのだ。
「ううん、なんでもない。洗い物ありがとう」
圭也はそう言って一旦リビングに戻り、ソファに腰をおろした。
目の前には、大型テレビを取り囲むようにオーディオ機器が設置されている。
圭也と美波には、音楽という共通の趣味があるのだ。
邦楽洋楽を問わず幅広いジャンルを好んでいるため、部屋の音楽環境を整え、よく2人でソファに並んで座って聴いて過ごしている。
しばらくすると、キッチンのほうからまた美波の鼻歌が聞こえてきた。
口ずさんでいるのは、明るい曲調の歌だった。
― ふ〜ん。あの歌か…。
圭也は音楽に詳しく、美波とは好みも似ているため、メロディーを聞けばだいたいの曲は認識できる。
美波が洗い物を終えて戻ってきたところで、圭也はソファの脇に隠していた包みを取り出した。
「美波。合格おめでとう。はい、プレゼント」
美波に差し出すと、ポカンとした表情を浮かべる。
「受かったんだろう?試験」
「え、ええっ!なんでわかったの…?」
美波は目を丸くして驚いた。
美波は大手不動産会社に勤めており、キャリアアップを目指してファイナンシャルプランナー試験に挑戦していた。
今日はその合格発表の日であることを、圭也は覚えていた。
「だって、美波。あんなに勉強頑張っていたから。絶対合格するって信じてたよ」
圭也の言葉に、美波が目を潤ませる。
同棲を始めてから、美波が時間を見つけては参考書を開いている姿を、圭也はよく見かけていた。
努力を評価していたし、良い結果を望んでいたが、合格を確信したのは美波の歌う鼻歌を聞いてからだった。
美波の鼻歌には、そのときの感情が反映される。
明るい歌を口ずさむときは、いいことがあったときや上機嫌のとき。逆に、暗い歌を口ずさむときは、不安や悩みごとがあるとき。
美波の感情は、手に取るようにわかった。
先ほど美波が口ずさんでいた歌がまさに明るい曲調だったため、圭也は試験結果の合否を察することができたのだった。
「うわっ!可愛い!」
美波がプレゼントの包みを開け、入っていたアクセサリーを手に取る。
ゴールドのチェーンのセンターに、鮮やかなターコイズを配したネックレス。
実はこれもまた、美波が最近口ずさんでいた曲の歌詞のなかに登場するものだ。気になっているのだろうと推測して購入したのだ。
「圭也、ありがとう!嬉しい…」
美波が抱きつき、圭也の胸に顔を埋める。
― ほんと。わかりやすいなぁ、美波は…。
圭也はこうして、美波の鼻歌から感情を読み取り、その時々に応じて適切な対応をとっていた。
暗い歌を口ずさんでいるときは、それとなく声をかけて悩みを聞き、寄り添うこともある。
感情をいち早く察することで、先回りした行動が可能となり、美波の居心地のいい空間が提供できていると実感している。
圭也は、美波の心を掌握している気になっていた。主導権を握っているのは自分だという自覚もあった。
◆
翌日。
金曜日ということもあり、圭也は同じ証券会社に勤める同僚たちと酒を飲みに行き、いつもより帰宅時間が遅くなっていた。
美波に連絡を入れていなかったことを思い出し、謝るつもりでドアを開けて玄関に入ったが、部屋の明かりがついていない。
― そういえば、出かけるって言ってたな…。
昨夜の美波との会話のなかで、「明日は大学時代の友だちと会ってくる」と言っていたのを思い出した。
着替えを済ませてソファで寛ぎ始めたところで、玄関のドアが開く音が聞こえてくる。
美波が、リビングに姿を見せた。
「お帰り。楽しかった?」
美波が、「うん」と頷く。
「なんか喉乾いちゃった」
キッチンに向かい、冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出して飲み始める。
すると、喉が潤い調子が出てきたのか、例のごとく美波の鼻歌が圭也の耳に届いた。
― 美波のやつ、また歌ってるよ…。今日はなんの曲だ?
前回、友人と会うと言って出かけて帰ってきた日は、友情にまつわる歌を楽しそうに口ずさんでいた。
今日もまた、ご機嫌なナンバーを歌い始めるのかと思ったのだが、どうも様子が違う。
― あれ?なんか暗い歌だな…。楽しくなかったのか?
楽しいひと時を過ごしてきたとは思えない、暗い曲調の歌を口ずさむ美波に、圭也は違和感を覚えた。
美波の振る舞いが、圭也はいまいち腑に落ちない。
「友だちと食事をしてきたんだよな?」
念のため尋ねると、「そうだよ」と美波は何か隠している様子もなく平然と答えた。
美波の感情はいつも手に取るようにわかるはずなのに、今日はそうはいかない。圭也は、どこかもどかしさを覚える。
美波は寝室に向かい、着替えを始めた。
そこで再び、歌を口ずさみ始めた。
圭也は耳を澄ませ、しばらく聞き入る。
― んん?なんの曲だ?邦楽ではあるようだけど…。
メロディーも、僅かに聞こえる歌詞も、まるで記憶にはないものだった。
美波とは趣味が共通しており、何の曲か認識できないということは滅多にないのだが…。
胸がざわついて仕方がない。
関係は安泰だと思っていたのに、急に雲行きが変わってきたように感じられた。
◆
美波が友人と出かけた日以来、暗い歌を口ずさむ機会が増えていた。
圭也がいつものように声をかけ、さりげなく感情を共有してもらおうとしても、美波からは「何もない」といった対応でかわされてしまう。
悩みごとの類ではなさそうではあるものの、違和感が拭えない。
関係がぎこちなくなってしまったように感じ、今も圭也は、ひとり部屋で過ごしながら悶々としていた。
― こういうときは明るい曲でも聴いて…。
圭也は音楽を聴いて気分転換を図ることにする。
ラックからCDを取り出し、オーディオの電源を立ち上げた。
差し込み口に挿入しようとしたところ、すでに1枚ほかのCDが入っていることに気づく。
取り出して見てみると、盤面にバンド名と思われるロゴが記載されていた。
― 『SPINOSAURUS(スピノサウルス)』。誰だろう。聞いたことないなぁ…。
圭也はふと、先日、美波が聞き覚えのない曲を口ずさんでいたのを思い出した。
もしかしたら関係があるのかもしれないと、CDを再生してみる。
メロコア系の日本のバンドのようで、聴きやすい曲調ではあるが、他に特筆すべき特徴はない。
1曲目から順に再生していき、すぐに美波の口ずさんでいたメロディーを見つけた。
圭也はスマートフォンを取り出し、バンド名を入力して検索をかける。
プロフィールが表示され「インディーズで活動していた4人編成のバンド」であることがわかった。
同じ大学に在籍していた男性メンバーで構成され、すでに2年前に解散しているとのことだった。
そこで、その大学が美波の出身校であることに気づく。
メンバーのプロフィールから、美波と同期生であることが窺い知れた。
圭也の頭に、先日の美波の言葉が蘇る。
「大学時代の友だちと会ってくる」
確かにそう言って出かけて行った。
そしてもうひとつ、さらに過去に遡り、美波の言っていたある言葉を思い出す。
それは、まだ付き合って間もない頃。お互いに好きな音楽の話を夢中になってしていたころの言葉だ。
「昔、ちょっとだけバンドのボーカルの男の子と付き合ってたことがあるの」
恋人の過去の恋愛について気になりはしたが、あえて気にしていない素振りを見せ、無理やり頭の隅に追いやった情報だ。
― もしかして美波は、このバンドのボーカル…。元カレに会っていたのか…?
美波に対して、そんな疑念が湧き上がる。
部外者の介入など予想だにせず、このまま自然と結婚に進んでいくのだろうと悠長に構えていた自分に、圭也は苛立ちを覚える。
襲ってくる不安感が、心臓の刻むビートを速くさせた。
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