◆これまでのあらすじ
人気女性誌のWeb媒体でコラムの編集をする優斗(34)。過去の恋愛で、3回連続「そういうとこだよ」という言葉で振られたことにモヤモヤしている。連絡が途絶えていた元カノ・香澄からランチに誘われ、わずか1時間足らずのやり取りで彼女が言う“そういうとこ”の回収に成功する――。

▶前回:「元カノと復縁できるかも」と喜ぶ34歳男。タイ料理店でデート中、彼女の表情が曇り…




Vol.4 恋愛が最優先じゃない彼女


― 「しっかりした姿を見せたかった」…か。

僕は趣味のボルダリングをしながら、元カノ・香澄に言われたことを思い出していた。

次の瞬間、体がフワッと宙に浮く。

危険を感じたとき、本来なら物事がスローモーションに見えるという。視覚の時間精度が上昇するかららしい。だが、僕の場合は“思考の時間精度”が上がるようだ。

香澄の言った「しっかりした姿」に関連する語源が、いつもの3倍速でブワッと脳裏に浮かぶ。

“しっかり”の語源…金沢・加賀友禅。着物にまつわるあらゆる手入れのことをいう「悉皆/しっかい」からきていて、今は“考えや人柄などが堅実で信用できるさま”という意味で使われている(諸説あり)…。

― いや、活字ホリックすぎて引くし、それどころじゃないだろ!そういうとこがヤバいんだって!

「…あっ」

今やトラウマとなっている“そういうとこ”という言葉を自らに浴びせかけたところで、ようやく我に返る。

僕の体はバチンと大きな音を立てて、ボルダリングジムの分厚いマットの上に落下した。


― うゎっ…派手に落ちた。

ボルダリングには、“3級の壁”という言葉がある。

手や足先を乗せるホールドの形や位置、ムーブといわれる体の動かし方も3級を境に段違いに難しくなるばかりか、完登するにはフィジカルの要素も重要になってくる。

この日の僕は、3級最後のコースをクリアしようと気合を入れていた。

ゴールに向かって勢いをつけたところまではいい。けれど、指先がホールドをかすめただけで4mの高さから落下してしまったのだ。

少し離れたところにいる顔なじみのボルダラー・新垣さんが、大丈夫か?という表情を向けてくる。僕は、親指を立てて無事を伝えると、もう一度挑戦しようと立ち上がった。

「あとちょっとなんだよな〜。ゴールをつかむイメージはできてるんだけど」

しかし、足の強い痛みに襲われて、ひざから崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまった。






「痛いっ、痛いです!それ!」

病院の処置室に、大人の男が悶絶する野太い声が響く。

「林さん、靭帯が断裂しています。重度の捻挫ですね。もし松葉杖のレンタルが必要でしたら、今持ってきてもらいましょうか?」

「松葉杖!?そんなに重症なんですか?」

2週間は安静に…というかまともに歩けないでしょう――。医師から症状を伝えられると、慌てて仕事のスケジュールを確認する。

― 直近で取材は入ってないな、よかった。だけどこの足じゃ、明日の出社は…。

みるみるうちに腫れてくる足からスマホに目を移すと、20時だった。

編集長に、事の次第をメールで送る。「とりあえず明日はテレワークで!」と返信がきて、ホッとしたのもつかの間。社会人としての自覚の欠如に、いたたまれない気持ちに苛まれた。

― 香澄は「しっかりした姿を見せたかった」って言ってたけど、“しっかり”どころじゃないな、僕は。

病院の廊下に響く、ゴツゴツという不器用な松葉杖の音が、僕を余計に惨めな気持ちにさせる。

すると…。

「林さん!」

会計窓口で、時間外診療の預り金を払い終えると、ふいに呼び止められた。




「あれ?新垣さん!どうして病院に…?」

「これ、忘れて行ったから!上着がないと寒いだろうと思って」

新垣さんと僕は、ボルダリングジムで知り合った。

同じ3級の課題を登っているボルダラーで、同い年。広告代理店に勤めている彼とは共通点が多く、ジムを出たあと何度も飲みに行ったことがある。

新垣さんの手には、僕が着ていたジャケットと『ジョンロブ』のローファー、それとボルダリングシューズ。わざわざ届けに来てくれたのだ。

― あぁ、何か泣きそうだ…。ていうか、僕が女の人だったら間違いなく好きになってるよ。

ガラス窓に映るのはボルダリングチョークで全身白く薄汚れたうえに、ジムのスリッパを履いたままの34歳・男性の僕。これっぽっちも画が映えず、現実に引き戻される。

「ごめん!ありがとう。ていうか、よくこの病院ってわかったね」

「逆にこの辺、ここしかないなって。ジムから近いし、歩いて来れたよ」

「そっか。あのさ、迷惑かけたお詫びに…よかったらご飯でも行かない?」

「うーん、行きたいけど。怪我したばっかりなんだから、今度にしよう!また連絡するよ」

― タクシーまで呼んでくれるって、新垣さん…素敵すぎるだろ。

彼のスマートな行動に心打たれながら帰宅すると、編集長の計らいで僕の仕事は2週間テレワーク中心になった。



テレワーク中の、とある昼下がり。

― ヤバい…、家ってこんなに集中力が途切れやすかったっけ?

まだ仕事が終わっていないというのに、この日何度目かのSNSサーフィンに興じていると、一通のDMが送られてきていることに気づく――。


「このアカウントって、僕…フォロー外されてた気がするけど」

Instagramの新着DMには、『マリーナベイ・サンズ』の夜景を眺める女性のうしろ姿のアイコン。ノースリーブのリゾートワンピースからは、スリムだけれど、適度に筋肉がついたヘルシーな腕がスラリと伸びている。

その横には、“美紀”の名前とピラティスインストラクターという肩書が表示されている。

『美紀:怪我したって聞いたよ。大丈夫?』

既読をつけた数秒後、立て続けにもう1通送られてきたものだから、うっかり2通とも開封してしまった。

『美紀:新垣さんが教えてくれたの。病院に行ったって』

― どうして、美紀が…?

まさか、彼女から連絡がくるとは思わなかった。




2020年、美紀と僕は交際していた。

出会いは、ボルダリングジムだ。僕より先に入会していた彼女は、中級者向けの4級のコースを練習していた。

― すごいな、女性でもこんな難しいコースを登れるんだ。

手でつかむことなんて到底できそうにない丸くてツルツルしたホールドを易々と登っていく姿が、軽やかだけれどダイナミックで、思わず息をのんだのを覚えている。

「えっと…右手で3番をつかんだら、左脚が上がるのか…?」

そんなある日、苦戦しているコースを前にルートやムーブを考える僕のとなりに彼女がやってきた。

「このコース、難しいですよね。スタートの体の向きがわからなくて、私…しばらく反対側を向いてました」

壁を登るときの真剣な表情の印象が強い分、爽やかな笑顔とのギャップは破壊力抜群だ。

美紀とは、ジムで顔を合わせるたび、ちょっとした会話をするようになった。

お互いの成長に「ナイス!」と声をかけ合うと、同じく常連の新垣さんを交えて同い年3人で盛り上がる。そこから僕らは、たまに食事に行く仲になった。

手の第二関節の下はいつも皮がむけているし、硬いマメの見せ合いをするなんて、傍からみれば色気とは無縁かもしれない。

だけど、ボルダリングを通して、美紀が1つの課題に真剣に取り組む姿はまぶしくて、とっても魅力的だった。

交際を申し込んだのは、僕からだ。




ところが、交際は1年で幕を閉じた。

スポーツクライミングがオリンピック種目に初めて選ばれ、2021年の大会に向けて、僕の配属先であるアウトドア雑誌でさまざまな選手の特集を組むことになった。

『優斗:ごめん、今週末また急に取材が入って。予定キャンセルさせてもらってもいいかな?』

『美紀:そっか。じゃあ、私も気になってた解剖学の講座受けに行ってこようかな』

『優斗:本当ごめん!でも美紀はすごいね、僕も頑張らなきゃ』

『美紀:大げさだよ〜』

美紀は30歳で、外資系の化粧品会社を退社してピラティスのインストラクターになったタイミングだった。

向上心が強く、いつでも自分のやりたいことに積極的で勉強家なところを尊敬していたし、恋愛が最優先でないところにどこか安心していたのかもしれない。

美紀も、僕と会わないあいだにやりたいことができるなら、お互いこれくらいの距離感がベストなんだろう。こんなふうにも思っていた。

約束がリスケになることが増えても、連絡をマメに返せなくなっても美紀は一度も不満を漏らさなかった。

それなのに、しばらくして彼女から別れを告げられた。

少し悲しげな“そういうとこだよ”という言葉をもってして――。ちなみに僕は、この“そういうとこ”が何なのか…未だにわかっていない。

― あれからLINEのアカウントも変えたみたいだし、インスタのフォローも外したってことは…。僕とは関わりたくないんじゃないのかな?

そうは言っても、心配してくれているのだから返事をしないほうが失礼だ。少し緊張しながらDMを返す。

『優斗:久しぶり。大した怪我じゃないから大丈夫だよ。ありがとう!』

すぐにまた、美紀から返事が送られてくる。

その思いもよらない内容に、僕は勢いよく立ち上がる。捻挫を悪化させたんじゃないかというくらいの強い痛みが走った――。

▶前回:「元カノと復縁できるかも」と喜ぶ34歳男。タイ料理店でデート中、彼女の表情が曇り…

▶1話目はこちら:早大卒34歳、編集者。歴代彼女に同じセリフで振られ…

▶NEXT:4月1日 月曜更新予定
元カノ・美紀からのメッセージには何が書かれていたのか…?