「産後初めて、幸せを感じた」育児に疲れた女の心を癒したのは…
結婚3年目の夫婦に、待望の第一子が誕生。
これから始まる幸せな生活に心を躍らせたのも束の間―。
ささいなことから2人の愛情にひびが入り始める。
すれ違いが続き、急速に冷え込んでいく夫婦仲。
結婚生活最大の危機を、2人は乗り越えられるのか?
◆これまでのあらすじ
夫ともうまくいかず、育児にも疲れ、八方塞がりの状態だった彩佳。友人・玲子のアドバイスを受け、勢いで自宅を飛び出したが…?
ピンポーン。
実家にたどり着いた彩佳は、震える指先でインターホンを押した。
母が「はぁい、どちらさまー?」と、甲高い声で応答した。
「あの、私…」
声を振り絞るように告げると、インターホン越しの母が、絶句したのがわかった。
それと同時に、外にいてもわかるくらいに、バタバタと部屋の中を走る音が聞こえてくる。
玄関の前で立ちすくんでいると、勢いよくドアが開き、玄関から心配そうな表情を浮かべた母が出てきた。
「どうしたのよ、急に」
「実は…」
彩佳が事情を話そうとするのを母が遮った。
「とりあえず中に入りなさい」
何の連絡もなく、突然帰ってきた娘。手には、財布とスマホが携えられているだけで、バッグひとつ持っていない。
「結衣ちゃんは私が預かるから」
何かを察した母は、彩佳の腕から半ば強引に結衣を抱き上げた。
◆
リビングに入り、ソファに腰掛けると、彩佳の目から涙がこぼれ落ちた。
「私、どうしたら…」
我慢していた思いが、堰を切ったように溢れ出る。
「ねえ、彩佳」
母が、神妙な面持ちで切り出した。
いつも優しい母親が、表情を硬くして彩佳に告げたこととは…?
母の愛情
何を言われるのだろうか。彩佳に緊張が走る。
― 母親なんだからしっかりしなさいって喝を入れられる?それとも、呆れられた…?
いつも優しい母の表情が硬い。焦った彩佳は、たまらず口を開いてしまう。
「突然帰ってきてびっくりしたよね。えっと…」
「寝なさい」
彩佳の言葉を遮って、母はピシャリと言った。
「寝なさい」
ポカンとする彩佳に向かって、「とにかく寝なさい」と、2階に行くように階段のほうを指差した。
「…わかった」
母親の有無を言わせない厳しい眼差しに、彩佳はすごすごと自分の部屋に向かう。
― あれ…?
部屋のベッドは、美しくベッドメイキングされている。まるで彩佳が帰ってくるのを待っていたかのようだ。
前に電話で話した時、布団は片付けたと言っていた気がする。
なんとなく引っかかったものの、ベッドを前にすると、まぶたが一気に重くなった。ベッドに倒れ込んだ彩佳は、そのまま泥のように眠った。
「うーん、よく寝た!」
自然に目を覚ました彩佳は、クリアな視界に驚く。ここのところ、いつも靄がかかったようにぼんやりとしていたのだ。
頭もスッキリしていて、最近悩まされていた頭痛もなくなっていた。
ベッドサイドに置かれた時計を見ると、時刻は22時近く。5時間も眠っていたようだ。
「こんなに眠ったの、久しぶりだな…」
出産してわかったことだが、子どもが寝ている時間がそのまま自分の睡眠時間になるわけではない。
寝ている間にも、家事や育児で、やることは山ほどあり、自分の睡眠時間はどんどん削られていくのだ。
― 結衣はどうしてるだろう?
急いでリビングに向かうと、父がソファで新聞を読んでいた。
「彩佳、よく眠れたか?結衣ちゃんは、母さんと一緒にあっちにいるぞ」
「わかった、ありがとう」
彩佳は、そっと客間の和室の扉を開ける。
薄暗い照明の下で、結衣はぐっすりと眠っていた。
隣でゴロゴロしていた母が、「リビングに行く」と合図したので、彩佳は「わかった」と、小声で頷き、リビングに戻った。
◆
「あ、昌也に連絡しておかないと」
玲子の言葉で、無我夢中で逃げるように自宅を後にしてタクシーに飛び乗ってきた。
あの時は昌也に連絡するなんて考えられなかったが、今なら落ち着いてできる。
スマホを手に取ると、和室から戻ってきた母が「昌也さんには伝えておいたからね」と、察したようにつぶやいた。
「とりあえず今晩はこちらに泊まるって言ってあるから。いつ帰るかは彩佳から連絡なさい」
母は昔からよく気がきく。今回も、事態を悪化させないように動いてくれたのだろう。
「ありがとう」
「詳しいことは後から。とりあえず夕食を食べなさい」
母は、すぐに食事を用意してくれた。
たっぷりと眠り、元気を取り戻した彩佳。だが、昌也とのことを尋ねられ…
頼るべき人
「おいしい…」
夜だから胃に負担のないものをと、母が用意してくれたのは、おろしうどん。
大根おろしをたっぷりと入れたうどんは、だしの香りがよい。子どもの頃、体調不良といえば母が作ってくれた懐かしの味だ。
お腹を空かせた彩佳は、ペロリと一皿を平らげ、おかわりをお願いする。
「やだ、元気じゃない」
母は笑いながら、おかわりを出してくれた。温かいうどんに、彩佳はお腹だけでなく心も満たされていく。
― はあ、幸せ…。
どうしてだろう。産後、たくさんの高価なプレゼントやジュエリーをもらったのに、こんなに幸福感に包まれたのは初めてだった。
「今日はゆっくりしなさい。結衣ちゃん、とっても良い子に寝てるわ。ママ休んでって言ってるのよ」
母の優しい言葉に、彩佳の目に涙がにじむ。
「ほらほら、お風呂に入ってきて。詳しい話はそれからね」
「こんなにゆっくりお風呂入ったの、久しぶり。ありがとね」
お風呂から上がった彩佳は、母がいれてくれたほうじ茶を口にする。
「結衣ちゃん、起きたけどミルクを少しあげたらまた寝たわ」
「良かった、ありがとう」
すると母は、見計らったように「何があったの」と、静かに尋ねた。
ソファで寛いでいた父も、ピリッとした空気を察したようで、見ていたテレビを消す。
彩佳は、一度大きく深呼吸をした。
「最近、すぐ昌也にイライラするし、落ち込むこともしんどいって思うことも増えたの。でもそれをうまく伝えられなくて、それでまたイライラして。そんな繰り返しで…」
さきほどまでの幸福感から一転、不意に胸が締めつけられるように苦しくなる。
自分でも訳がわからないが、ずっとこんな調子なのだ。すると母が、「全部昌也さんから聞いてたわよ」と、口を開いた。
「…え?」
「少し前に昌也さんから、彩佳が大変そうって、泣き声で電話があったのよ。それ以来、ちょこちょこLINEをもらってたわ。まあでも、彩佳は周囲から心配されると妙に意地っ張りになるから見守ろうって伝えたの」
さりげなく自分の弱点を突かれ、彩佳は耳が痛い。だが、昌也と母が連絡を取っていたとは驚きである。
「あなた、これまで割と要領良くやってきたから、育児みたいに思い通りにいかないことは初めてでしょう?」
さすがは母。図星だった。これまで、仕事も結婚も、要領良くやってきた彩佳にとって、こんなにペースを掴めないのは初めてだった。
「…うん、そうかも」
うつむきながらボソッと答えると、母が「育児って、本当に大変でしょう?」と優しく投げかけた後、こう続けた。
「だからこそ、ひとりで抱え込んじゃいけないの。頼れる人にちゃんと頼らないと。
それには、自分から働きかけることが大切じゃない?大変、大変って言ってるだけじゃ伝わらないわよ」
母の言葉が、じんわりと胸に沁みる。
「そうだよね、私、ひとりで大変、大変ってなって…」
目から涙が溢れ出た。
「彩佳、あなたが一番頼るべき人は誰だと思う?」
母の言葉に、彩佳はハッとした。
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次回最終回。出産を機にすれ違い続けた彩佳と昌也。一体どうなるのか…?