「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

彼氏・大介とバー『onogi』に訪れた美津。そこに店主の弟・守が現れる。彼は24歳の若さで、横浜店の店主を務めていた。酔った美津は、年下の彼を諭すように結婚について本音を語る。

▶前回:「結婚相手選びは、エゴと焦りとの戦いなの」婚約者に嘘をつく女が年下男子に語った本音




「美津さん…迷ってるのに結婚するなんて、そんなのダメだよ」

守は不満げに、グラスのフチを指先でなでた。

その言葉を聞き流し、美津は遠くを見てつぶやくように言う。

「…私ね、ずっと仕事が生きがいだったの。経済誌で記者をやってて。あの時は、それだけで堂々と生きていられたわ。でも異動になって…」

美津は長いまつ毛をふるわせて、それから自分のことを鼻で笑った。

「異動になったとき、自分が結婚するって公言してたせいだと思ったわ。…でも結局、私、切られたのよね」

それから、宙に吐き出すように声を漏らした。

「私、必要とされてないんだなあ。誰からも…」

「でも、彼は美津さんを必要としてるんじゃないですか?4年も付き合ってるんでしょう?」

先程からずっと眠ったままの大介を、2人で見る。

「そうね、4年ね。…ああ、長く付き合いすぎたのかな」

深刻な表情の美津に対して、守は返すべき言葉を必死に探す。唯一、彼女に言えることといったら、守にはこれしか思い浮かばなかった。

「美津さん。僕のやってる横浜店に、いつでも来てください。…美津さんが癒やされるような特別なカクテル、考えておきます」

思いのほか美津が嬉しそうに顔を輝かせたので、守は安心したのだった。


大介と過ごす平凡な日常。守との出会いで、美津の心境は大きく変わる


木曜の夜。食器を洗い終えた大介が、美津の横に腰掛けた。右手には、結婚式場のパンフレットを持っている。

「ねえ、美津。これは?どう?」

パンフレットの中で、美しい外国人の男女が教会の前で笑っている。

「こういうドレス、美津に似合いそうじゃん。スタイルいいしさ」

「そうね…」

大介は、パンフレットを見て美津に似合うドレスを考えていた。一方、美津は「自分に似合う新郎」をひとり空想していたのだ。

― うーん…。

美津は頭の中で、試しに篤志を自分の隣に置いてみる。

― 割としっくりくるわ。でも…。

あの夜から、篤志からの誘いをはぐらかしていた。自分より若い子とデートをしていることを知ったあの夜の、がっかりした気持ちは消えない。

そのとき、ふと美津の中である考えが浮かんだ。

― …守くん。彼は、しっくりくるかも。

彼の白い肌と、深いブラウンの瞳。自分の美貌と釣り合っているかもしれない。

― 恋愛対象として見る気は、さらさらなかったのに…。

美津は、自分の空想をごまかすように大介の手を握る。彼を今すぐ手放す気はないのだ。

大介は、なんでもない日常の中で、家事をやってくれたり自分のためにミルクティーを入れてくれたりする。

…その健気な姿を想像すると、この人を手放せないと美津は思ってしまうのだ。

しかし、それでも守のことを、ふとしたときに考えてしまうのだった。




美津が、大介に“会食”と偽って仕事終わりにタクシーに乗り込んだのは、その3日後のことだ。

― 自分は、飢えているのだろうか。

自問しながら、車窓が切り取る横浜の街を見る。高層ビルのライトが点灯し、煌々と輝くみなとみらいの風景が美しい。

今日は、12月24日。そう、クリスマスイブだ。

だからこそ美津は、まっすぐ家には帰りたくなかった。そろそろ大介から正式なプロポーズをされるような予感がしていたからだ。

― まだ、なんて答えたらいいのかわからないの…。ごめんね、大ちゃん。

自分に言い訳をしてから、美津は『onogi』横浜店のドアを開けた。

本店の重厚感とは違って、花や観葉植物が美しく配置されている店内。カウンターに座った美津に、守は微笑んだ。

「美津さん。待ってましたよ」

しばらくして守は、カクテルグラスを美津の前に置く。

「ラム酒がお好きだって、兄ちゃんから聞いたんです」

一口飲むとラムの芳醇な香りに、紅茶と蜂蜜がほんのり香った。

「美津さんだけの、特別なカクテルです」


守にクラッときた美津は、酒の勢いで“ある嘘”をついてしまう…


イブの夜なので、店内は客で混み合っている。

活気に満ちた空間で、華麗な手つきでお酒を作る守を、美津はただ静かに見つめていた。

初めて会った夜は、素直な守のことがお子さまのように見えていた。しかし、オーナーとして立ち振る舞う彼は、天性の無邪気さを残したまま別人のように堂々としている。

恋に落ちる瞬間というものがあるなら、まさにこれだと美津は思った。

時計が22時を回った頃、店内はようやく空いてきた。そのとき、守が美津の方に近づいてきて、小さい声で笑いかける。

「はあ、忙しかった…。そうだ、美津さん」

彼は一旦バックヤードに戻ってから、雑誌を何冊か手に持って戻ってくる。

「これですよね?美津さんの雑誌」

彼が持っていたのは、美津がずっと担当してきた経済誌と、現在担当している主婦向けの季刊誌の数冊。

「美津さんの名前が出てる記事があって、つい読んじゃいました。本当にすごいですね」

守の目が、キラキラしている。

「この前、美津さん『必要とされてない』って言ってたじゃないですか。でも、絶対そんなことないです。こんなに素敵な記事を書ける人が、必要とされないわけない」

守は、ニカッと笑って力強い声色で言うのだった。

「僕が美津さんだったら、結婚は妥協しません」

それだけを言い残して、作業に戻っていった。しばらくすると店内の客が誰もいなくなったので、美津は立ち上がる。

「ありがとうございました。美味しくて、結構飲んじゃったわ」

「はは、ありがとうございます」

栗色の髪を右手でクシャッとさせながら守は笑う。美津は、久々に飲みすぎた感じがした。かすかに世界が揺れている。

「大丈夫ですか?」

守の瞳が美津を捉えていた。彼からの視線をそらさずにじっと見つめると、今まで気づかなかったが、意外に背が高いのだと美津は感じた。

「美津さん、帰れます?」

― もしここで、帰れないって言ったら、どうなるんだろう?

美津が立ち尽くしていると、守は「座ってて」と言った。

「急いで片付けるから、一緒に出ましょう。僕がタクシー止めるので」




2人は、一緒に店から出た。イブの夜は、一層寒さが増している。

「タクシー、タクシー…」とつぶやいて、探し始める守。その袖を、美津はつまんで引っ張った。

「…守くん」

― こんなイブの夜に、1人で帰れない…。

美津は、守の綺麗な瞳を見上げた。大介のことは、1ミリも頭に浮かんではいなかった。

「守くん。私…帰れない」

「美津さん…?」

ハの字眉で、守は美津を見る。

「ダメです、美津さん。僕は恋愛って、ちゃんとするのが大事だと思うんです。でも美津さんには彼氏が」

しゃべる守の口を、美津は唇でふさいだ。

「…ちょっと!美津さん、酔ってますね」

「酔ってない」

「ダメです。美津さんには彼が」

「…あの人とは、別れたの」

美津の嘘に、守はパチパチとまばたきをした。

「だからイブなのに、1人で飲みに来たのよ」

そう言いながら美津は、あくまでも冷静にこう考えていた。

― ああ、大ちゃんになんて言おう。入稿ミスが見つかって、仕事に戻ったことにすればいいわ。

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エゴのために嘘で身を固めた美津。その暴走は止まらない…