クリスマスイブ、29歳女が彼氏に嘘をついて会いに行った男
「彼以外を、好きになってはいけない」
そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。
人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。
これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。
◆これまでのあらすじ
彼氏・大介とバー『onogi』に訪れた美津。そこに店主の弟・守が現れる。彼は24歳の若さで、横浜店の店主を務めていた。酔った美津は、年下の彼を諭すように結婚について本音を語る。
「美津さん…迷ってるのに結婚するなんて、そんなのダメだよ」
守は不満げに、グラスのフチを指先でなでた。
その言葉を聞き流し、美津は遠くを見てつぶやくように言う。
「…私ね、ずっと仕事が生きがいだったの。経済誌で記者をやってて。あの時は、それだけで堂々と生きていられたわ。でも異動になって…」
美津は長いまつ毛をふるわせて、それから自分のことを鼻で笑った。
「異動になったとき、自分が結婚するって公言してたせいだと思ったわ。…でも結局、私、切られたのよね」
それから、宙に吐き出すように声を漏らした。
「私、必要とされてないんだなあ。誰からも…」
「でも、彼は美津さんを必要としてるんじゃないですか?4年も付き合ってるんでしょう?」
先程からずっと眠ったままの大介を、2人で見る。
「そうね、4年ね。…ああ、長く付き合いすぎたのかな」
深刻な表情の美津に対して、守は返すべき言葉を必死に探す。唯一、彼女に言えることといったら、守にはこれしか思い浮かばなかった。
「美津さん。僕のやってる横浜店に、いつでも来てください。…美津さんが癒やされるような特別なカクテル、考えておきます」
思いのほか美津が嬉しそうに顔を輝かせたので、守は安心したのだった。
大介と過ごす平凡な日常。守との出会いで、美津の心境は大きく変わる
木曜の夜。食器を洗い終えた大介が、美津の横に腰掛けた。右手には、結婚式場のパンフレットを持っている。
「ねえ、美津。これは?どう?」
パンフレットの中で、美しい外国人の男女が教会の前で笑っている。
「こういうドレス、美津に似合いそうじゃん。スタイルいいしさ」
「そうね…」
大介は、パンフレットを見て美津に似合うドレスを考えていた。一方、美津は「自分に似合う新郎」をひとり空想していたのだ。
― うーん…。
美津は頭の中で、試しに篤志を自分の隣に置いてみる。
― 割としっくりくるわ。でも…。
あの夜から、篤志からの誘いをはぐらかしていた。自分より若い子とデートをしていることを知ったあの夜の、がっかりした気持ちは消えない。
そのとき、ふと美津の中である考えが浮かんだ。
― …守くん。彼は、しっくりくるかも。
彼の白い肌と、深いブラウンの瞳。自分の美貌と釣り合っているかもしれない。
― 恋愛対象として見る気は、さらさらなかったのに…。
美津は、自分の空想をごまかすように大介の手を握る。彼を今すぐ手放す気はないのだ。
大介は、なんでもない日常の中で、家事をやってくれたり自分のためにミルクティーを入れてくれたりする。
…その健気な姿を想像すると、この人を手放せないと美津は思ってしまうのだ。
しかし、それでも守のことを、ふとしたときに考えてしまうのだった。
美津が、大介に“会食”と偽って仕事終わりにタクシーに乗り込んだのは、その3日後のことだ。
― 自分は、飢えているのだろうか。
自問しながら、車窓が切り取る横浜の街を見る。高層ビルのライトが点灯し、煌々と輝くみなとみらいの風景が美しい。
今日は、12月24日。そう、クリスマスイブだ。
だからこそ美津は、まっすぐ家には帰りたくなかった。そろそろ大介から正式なプロポーズをされるような予感がしていたからだ。
― まだ、なんて答えたらいいのかわからないの…。ごめんね、大ちゃん。
自分に言い訳をしてから、美津は『onogi』横浜店のドアを開けた。
本店の重厚感とは違って、花や観葉植物が美しく配置されている店内。カウンターに座った美津に、守は微笑んだ。
「美津さん。待ってましたよ」
しばらくして守は、カクテルグラスを美津の前に置く。
「ラム酒がお好きだって、兄ちゃんから聞いたんです」
一口飲むとラムの芳醇な香りに、紅茶と蜂蜜がほんのり香った。
「美津さんだけの、特別なカクテルです」
守にクラッときた美津は、酒の勢いで“ある嘘”をついてしまう…
イブの夜なので、店内は客で混み合っている。
活気に満ちた空間で、華麗な手つきでお酒を作る守を、美津はただ静かに見つめていた。
初めて会った夜は、素直な守のことがお子さまのように見えていた。しかし、オーナーとして立ち振る舞う彼は、天性の無邪気さを残したまま別人のように堂々としている。
恋に落ちる瞬間というものがあるなら、まさにこれだと美津は思った。
時計が22時を回った頃、店内はようやく空いてきた。そのとき、守が美津の方に近づいてきて、小さい声で笑いかける。
「はあ、忙しかった…。そうだ、美津さん」
彼は一旦バックヤードに戻ってから、雑誌を何冊か手に持って戻ってくる。
「これですよね?美津さんの雑誌」
彼が持っていたのは、美津がずっと担当してきた経済誌と、現在担当している主婦向けの季刊誌の数冊。
「美津さんの名前が出てる記事があって、つい読んじゃいました。本当にすごいですね」
守の目が、キラキラしている。
「この前、美津さん『必要とされてない』って言ってたじゃないですか。でも、絶対そんなことないです。こんなに素敵な記事を書ける人が、必要とされないわけない」
守は、ニカッと笑って力強い声色で言うのだった。
「僕が美津さんだったら、結婚は妥協しません」
それだけを言い残して、作業に戻っていった。しばらくすると店内の客が誰もいなくなったので、美津は立ち上がる。
「ありがとうございました。美味しくて、結構飲んじゃったわ」
「はは、ありがとうございます」
栗色の髪を右手でクシャッとさせながら守は笑う。美津は、久々に飲みすぎた感じがした。かすかに世界が揺れている。
「大丈夫ですか?」
守の瞳が美津を捉えていた。彼からの視線をそらさずにじっと見つめると、今まで気づかなかったが、意外に背が高いのだと美津は感じた。
「美津さん、帰れます?」
― もしここで、帰れないって言ったら、どうなるんだろう?
美津が立ち尽くしていると、守は「座ってて」と言った。
「急いで片付けるから、一緒に出ましょう。僕がタクシー止めるので」
2人は、一緒に店から出た。イブの夜は、一層寒さが増している。
「タクシー、タクシー…」とつぶやいて、探し始める守。その袖を、美津はつまんで引っ張った。
「…守くん」
― こんなイブの夜に、1人で帰れない…。
美津は、守の綺麗な瞳を見上げた。大介のことは、1ミリも頭に浮かんではいなかった。
「守くん。私…帰れない」
「美津さん…?」
ハの字眉で、守は美津を見る。
「ダメです、美津さん。僕は恋愛って、ちゃんとするのが大事だと思うんです。でも美津さんには彼氏が」
しゃべる守の口を、美津は唇でふさいだ。
「…ちょっと!美津さん、酔ってますね」
「酔ってない」
「ダメです。美津さんには彼が」
「…あの人とは、別れたの」
美津の嘘に、守はパチパチとまばたきをした。
「だからイブなのに、1人で飲みに来たのよ」
そう言いながら美津は、あくまでも冷静にこう考えていた。
― ああ、大ちゃんになんて言おう。入稿ミスが見つかって、仕事に戻ったことにすればいいわ。
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エゴのために嘘で身を固めた美津。その暴走は止まらない…