妊娠検査薬に、うっすら赤い線が入って…。33歳の女が狼狽した理由
これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。
デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。
女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。
実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。
彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?
▶前回:「付き合う前に、絶対お泊まりしたい」変わったこだわりを持つ女が、3回目のデートで男に迫ったら…
ケース6:思いがけない妊娠に戸惑う女・高橋日菜子(33歳)
「うそでしょ…」
うっすらと浮かび上がる赤い線。震える指先でスマホを手にとり「妊娠検査薬 偽陽性」と検索する。
事実を書いているのかどうかよくわからないサイトの中から、できるだけ自分に都合のいい情報を選び取り、心を落ち着かせる。
― まだ、確定じゃない。大丈夫大丈夫。
予定日になっても生理が来ない。10日も遅れたのは、33年生きてきて今回が初めてだ。
相手はおそらく、最近関係を持ったばかりの章二だろう。大手代理店で広告プランナーをしている彼は、まだ入社3年目の25歳。
「今は、仕事を精一杯頑張りたい」と無邪気に笑う顔が脳裏に浮かぶ。彼に「あなたの子を妊娠したかも」と告げたら、どうなるだろうか…。
日菜子:話したいことがあるんだけど
章二へのメッセージを打っては消し、打っては消しを繰り返す。
やっぱり、どうしても言えなかった。
突然の妊娠疑惑に、日菜子が取った行動は…
私はライフスタイル誌を中心に、いくつかの連載を持つライターだ。
寝る間を惜しんで書いた“令和の独身男女”に関する連載が、書籍化されることになった。その出版イベント後に『ドローイング ハウス・オブ・ヒビヤ』で行われた食事会で、章二と出会ったのだ。
「デジタル広告担当の磯山です。うちの若手エースなんですよ!」
代理店の部長が紹介してきた章二は、弓なりの眉に大きな目が特徴的なイケメンで、身長は185cm以上ありそうだった。
「まだ入社3年目なんですが、日菜子さんの本のデジタル広告は、すべて磯山が仕掛けました」
「僕は何もしてないです。内容が素晴らしかったので売れて当然ですよ」
発売前は不安すぎて眠れないほどだった。それなのに発売後すぐ重版がかかったのは、彼が仕掛けてくれた斬新な宣伝のおかげだったのだ。
ペコペコと頭を下げて謙虚に振る舞う章二に、編集部員の1人が「可愛い〜!」と声をあげる。
その後もかいがいしくテーブルをまわる彼の姿が気になって、ずっと目で追いかけ続けてしまった。
章二:僕、連載のファンでした。あらためて、新刊発売・重版おめでとうございます!
思いがけず彼から個別でLINEがきたのは、翌朝のことだった。そして「ファンなんて大袈裟な…」と思いながらも、お礼をかねて食事へ行くことになったのだ。
「日菜子さんのことが好きです。これからも日菜子さんの書く文章を、隣で読みたいです」
赤坂の『インフィニート ヒロ』で4度目の食事をした後、章二は目をキラキラさせながら言った。
8歳下の彼が放つ言葉が、ライターとしての自分に向けられたものなのか、女としての私に向けられたものなのかわからない。
でもワインを1本空けると、そのままなだれ込むようにして章二の部屋で抱かれてしまったのだ。
彼は赤坂から少し四谷寄りに建つ、デザイナーズマンションに住んでいた。シンプルに整理された部屋の壁一面が本棚になっていて、私ですら読んだことないような文芸書が並んでいる。
すると章二は、本棚の奥から分厚いファイルを取り出す。そこには私の連載3年分の切り抜きがあった。
「ね?ファンだって言ったの、嘘じゃないでしょ?」
この3年、仕事に人生を捧げてきた私。もちろん、その間は異性と付き合うこともなかった。そんな私の仕事ぶりを褒めてくれたのが嬉しくて、彼と一線を越えてしまったのだ。
その夜は幸せな気持ちで眠ったが、翌朝になると途端に不安が襲ってきた。ハッキリ「付き合おう」とは言われていなかったから。
代理店で活躍する25歳の有望株が、8歳上のしがないライターなんかに恋愛感情を抱くはずがない。
― 遊ばれてるのかも。
章二が素敵な男性だと知れば知るほど、私は彼を疑い、連載の忙しさもあって誘いを断るようになった。
そんな矢先の妊娠疑惑。ネガティブで警戒心が強い私が避妊しなかったなんて、どうかしていたと思う。
「妊娠したかもなんて、絶対言えないよ…」
私は便座に座ったまま目を閉じ、まぶたの裏に浮かんだ“ある人物”のことを考えていた。
日菜子の脳裏に浮かんだ、もう1人の人物とは?
私が思い出していたのは、山形の実家で1人暮らしをしている母のことだ。そもそも私のネガティブな性格は、彼女から受け継がれたものだった。
29歳のとき、結婚前提で付き合っていた彼氏を実家に連れて行ったことがある。翌日、母は電話をかけてきてこう言った。
「いい子だけど、イケメンだから浮気するんじゃない?大丈夫?」
母の勘は当たった。しかも浮気がバレた挙句「日菜子は1人で生きていけそうだから」という、意味のわからない理由でフラれたのだ。
それから、私は男性に対して臆病になった。
元々楽天的だった母がネガティブになったことにも、理由がある。私が高校2年生の頃、父が突然の脳梗塞でこの世を去ったからだ。
「そこまで具合悪くないから、大丈夫だよ」
前日から体調が悪そうだった父に、母は心配して会社を休むように言っていた。でも父はそう答えて会社に出かけて行ってしまったのだ。そしてそのまま、帰らぬ人となった。
母子2人で生活するようになってから、彼女はあらゆる「大丈夫」を信じなくなった。大学受験のときだってそうだ。
予備校で合格ラインと言われたにもかかわらず、ギリギリまで「まだ大丈夫じゃないわよ。勉強しなさい」と言っていた。
やはり、母の勘はよく当たった。私は第一志望の大学に落ちたのだ。
その後も事あるごとに、母は私のことを心配していた。念願叶って、大手出版社の誌面に連載を持ったときも「フリーライターなんて大丈夫?」と言った。
「私の人生なんだからほっといて!」
彼女から距離を置き、1人で生きていこうと決めたのは3年前のこと。それから実家には一度も帰っていないし、連絡を取るのも数ヶ月に一度。母から「元気ですか?」とLINEがくるだけだ。
そのときは決まって「元気。そっちは?」と返信した。
― だから、もし妊娠してても1人でなんとかしなきゃ。
私はお腹に手をやったまま、トイレから動けずにいた。
◆
数日後。私は、自宅マンションから1駅先の産婦人科へ向かっていた。
都合のいいネットの情報だけを信じ、いつか生理がやってくるものだと祈っていたが…。その日はいつになっても来なかったのだ。
待合室に着くと、私と同じ年齢くらいの女性たちが大勢座っていた。彼女たちは皆、私より幸せそうに見える。
― 大丈夫、私は1人でも大丈夫。
受付を済ませたそのとき、スマホの通知が鳴った。…思いがけないタイミングでの、母からのLINEだった。
母:元気ですか?
いつもの定型文だ。私はすぐに「大丈夫だよ」と返信する。すると間髪入れずに、母から着信があった。私は急いで病院のトイレに駆け込み、電話に出る。
「も、もしもし…?」
母と話すのは実に3年ぶりで、声がうわずる。
「日菜子、何かあった?」
電話の向こうから聞こえる懐かしい声。あれだけ躊躇していたのに、今日だけは堰を切ったように言葉が次々出てくる。
「実は私…。妊娠したかもしれなくて」
沈黙が流れた。「相手は?」だとか「どうするの?」とか、母から厳しい言葉が返ってくるのを覚悟して待つ。
「今、病院にいるのね?1人?」
「うん、そう」
「大丈夫。日菜子なら、大丈夫よ」
母の口から飛び出したのは、思いがけない言葉だった。いつもネガティブな彼女から「大丈夫」と言われたのだ。途端にこらえきれなくなって、涙が溢れた。
「高橋さん、どうぞ」
看護師から呼ばれる声が聞こえた。…どうなるかわからないけれど、なんだか大丈夫な気がする。
日菜子:今日の夜、会える?
章二にLINEを打つと、私は涙を拭いて立ち上がり、診察室へと入った。
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