“サレ妻”は苦しみから抜け出すために、男の友人を頼るが…?
あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。
それならば、壊れた心は?
最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。
夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。
◆これまでのあらすじ
家族3人で穏やかな生活をしていた美郷は、経営者の夫・孝之が秘書の木村可奈と一夜の過ちを犯していたことを知る。
小学生の娘・絵麻のためにも再構築の道を選んだ美郷は、孝之と可奈を別れさせ元通りの生活に戻ろうとする。だが、孝之からの夫婦生活の誘いを反射的に撥ねのけてしまうのだった。
南向きの大きな窓から、ダイニングテーブルに朝の日差しが降り注ぐ。
心地の良い冬の朝。家族3人分の朝食。これまでと同じ幸福。
そんないつもと同じ光景の中で、娘の絵麻だけが食欲なさげに皿の上のプチトマトを弄んでいた。
「どうした、絵麻。食べないのか?」
穏やかに問いかける孝之に、絵麻がつまらなそうにつぶやく。
「だって絵麻、ベーグルあんまり好きじゃないんだもん。いつもみたいにママの焼いたパンかホットケーキがいいなぁ」
テーブルの中心には、昨日買っておいた近所の『マルイチベーグル』のブルーベリーベーグルが、マテュースの皿に無造作に盛りつけてある。
加えて、サラダボウルに盛ってあるのは茹でただけのブロッコリーと、洗っただけのプチトマト。
朝食の定番だった、ホームベーカリーの焼きたてのパンや果物をあしらったホットケーキ。…そんなものは、気がつけばしばらくご無沙汰になっていた。
「ホームベーカリーのパンは、また今度ね。ワガママ言ってないで、早く支度しないと学校に間に合わないよ」
私は申し訳なく思いながらも絵麻の支度を急かすと、出発する2人を玄関まで見送りに行く。
だが、取るに足らない日常をこなそうとするなかで、私たち家族の間には言い知れない緊張感が走るのだった。
ジョージ ジェンセンの靴べらを使って、孝之がジョン・ロブの革靴に足を入れる。
その様子を、絵麻が鋭い目つきで一部始終見つめる。
そして、娘の瞳は急に私の方へと向けられるのだ。
娘が私たちをじっと観察する理由。それは…
絵麻の無言の視線のなかで、私と孝之は微笑みを浮かべた。絵麻という観客を、全力で楽しませる舞台役者になりきって。
「いってらっしゃい。気をつけて行ってきてね」
「行ってきます。美郷、愛してるよ」
見送る私の頬に、孝之が小さなキスをする。
そして、それを見届けた絵麻はようやく安心したように表情を和らげると、元気よく「行ってきます!」と挨拶をしながら、転がるボールのように玄関から飛び出して行くのだった。
その様子を見てホッとした様子の孝之が、声のトーンを少し落とし、口元に微笑みを浮かべながら言った。
「じゃあね。今日も帰りは絵麻が寝るころになるかな。頑張ってきます」
そう言い残して孝之も家を出ると、重たい玄関の扉がガチャンと鈍い音を立てて閉まった。
「本当に仕事なんだか…」
ただ1人残された私は、今しがた孝之がキスをした頬を抑えながら独り言をつぶやく。
そして、誰もいない玄関に響いたその声のあまりの冷たさに、我ながらゾッとするのだった。
自分の卑屈さを振り切るように急いで玄関を離れると、そこに待ち受けているのは雑然としたリビングだ。
畳まれていない洗濯物。生気を失いつつあるグリーン。散らかったダイニングテーブルを片付ける気にも、残されたベーグルに手をつける気にもならない。
ホームベーカリーの朝食はおろか、昨晩の夕食も近くのイタリアンのテイクアウトで済ませてしまった。
毎日くまなくかけていた掃除機も、こまめに生け替えていた玄関の花も、気がつけばほったらかしになっている。
― 私、なんのために頑張ってたんだっけ…。
孝之と木村さんとの三者面談を終え、反射的に孝之を拒んでから数日が経っていた。
陽の光が満ち溢れるリビングの中、絵麻のかいけつゾロリの本が放置されたソファに腰をかけ、ぼんやりと考える。
孝之の手が私の肩に触れた夜のこと。
「ごめん…。これが、肩についてたから…」
そう言って孝之が私に見せてきたのは、絵麻の集めている可愛らしいシールだった。
そのとき、私は想像以上に怯えた顔をしていたようだ。その顔を見て、孝之もどう反応していいかわからないようだった。
以来、何もかもやる気を失った私は、こうしてただただ暗い水の底に沈んでいるような無気力感に悩まされている。
何もする気が起きないのに、思考だけが止められないのが苦しい。
― …本当に、仕事に行ってるの?
あれほど過剰に孝之を拒んでしまったというのに、生理的な感覚とはうらはらに、気を抜けばすぐに黒くよどんだ疑念が心に侵食してくる。
孝之を支えたい。その一心で、専業主婦として居心地の良い家を精一杯整えてきたけれど…。
たった一度の過ちは、一旦、解決をしたあとでも遅効性の毒のように私を蝕み「孝之のために何かを頑張ろう」という気持ちをすっかり失わせてしまっていた。
― 会社に行くふりをして、また木村さんと会ってたら…?
目の前で木村さんを拒否してくれたとはいえ、それすらもパフォーマンスだとしたら?孝之をあれほど愛していると言っていた木村さんが、こんなに簡単に諦めるだろうか?
とめどなく湧き出る疑念が、これ以上の気力を奪っていくことを恐れた私は、声に出して自分自身にこう言い聞かせる。
「再構築するって、私が決めたんじゃない。ダメダメ。暇だからロクなことしか考えないのよ」
とにかく、無理矢理にでも疑念を振り切らなければならない。そう考えて、ニュースでもチェックしようとスマホを覗きこむ。
そして、無造作にスマホを操作するうちに、思い出したのだ。
数日前、家出していた時に、珍しく誰かからFacebookメッセージが届いていたことを。
未開封のままだったFacebookのメッセージ。その送り主とは?
家出中、孝之からの連絡を見たくないあまり無視し続けたメッセージ。
送り主が孝之ではないことはわかっていたが、それでも見る気になれなかった。理由は、心に余裕がなかったことと、今どきFacebookで送られてくるメッセージなんて、なにかのスパムに違いないと決めつけていたからだ。
「このアプリを開くのなんて、いつぶりだろう」
そうつぶやきながら久しぶりに開いたFacebookは、まるでタイムカプセルのように時が止まっていた。
最後の投稿は、絵麻の出産報告だ。小さな小さな絵麻を抱いた、今よりも7歳若い孝之の笑顔の写真。
私はその投稿から反射的に目を逸らすと、確認をとっとと済ませるべく、新着マークがついたメッセンジャーのアイコンをタップした。
何気なくメッセージを確認した私は、だらしなくソファにもたれていた姿勢を正して、小さな驚きの声を上げる。
「えっ…。これって…?」
そこにあったのは、思いもよらない人物からのメッセージだったのだ。
メッセージの内容は、至極簡潔なものだった。
『久しぶり。バンクーバーで一緒だったミサトだよね?ちょっと頼みたいことがあって、連絡しました。返信、待ってます。』
差出人の名前は、“Ken Mogami”。
私は、焦れた指先でその名前をタップし、プロフィールを確認する。
37歳、同い年。出身地、兵庫県。
“最上賢”で、間違いない。…最上くんからのメッセージだったのだ。
「わぁ、最上くん…!昔から全然、変わってない!!」
プロフィール画像には、白いシャツに身を包んだ細身の男性が写っている。
細い金属フレームのメガネ。ネコ科の動物を思わせるような、しなやかで鋭い眼差し。
一度も微笑みなど浮かべたことのないような、きつく結んだ薄い唇。
人好きのする孝之とは真逆の、人を寄せつけない独特な雰囲気…。
冷たい印象を抱かせるけれど、22年経ってもまったく変わらないその姿に、私はむしろホッとする感覚を覚えた。
『バンクーバーで一緒だった』というのは、中学時代の3年間、毎夏参加していた留学プログラムのことだ。世界各国のティーンエイジャーがバンクーバーに集い、ひと夏をともに過ごし環境問題について考えるユースセミナー。
参加者の多くは欧米人と、ほんの少しの中国人か韓国人。日本人はいつも、私と最上くんの2人だけだった。
最上くんとの思い出は、その留学プログラムだけだ。それでも、たった2人だけの日本人ということで、なんとなく親しみを感じていたことを思い出す。
「最上くん、元気そう…」
予期せぬ再会に興奮した私は、懐かしさのあまりせわしなく指先を動かし、最上くんのプロフィールをじっくりチェックする。
だが、ノスタルジーにひたる私の指を止めさせたのは、最上くんのプロフィールに克明に記された、“交際ステータス”の欄だった。
『交際ステータス:離婚』
こんな項目まで律儀に更新しているのが、いかにも最上くんらしい。が、その投稿についたコメントが、一際私の目をひいた。
『Come on Ken, Women CHEAT.(元気出せよ賢、女は裏切るものだ)』
女は、裏切るもの…。
― 最上くん、もしかして…奥さんに浮気されて、離婚したの?
最上くんの現在の居住地は『東京』となっていた。
もしかしたら最上くんなら、この苦しみから抜け出すヒントを持っているかもしれない。
そう感じた私は、ほんの少しだけためらいながら、話を聞くために最上くんのメッセージに返信したのだった。
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昔の男友達は、妻の浮気を経験済み…?彼はどうして、離婚を選んだのか