冬三夜「間男注意」


彼、福田伸太郎がプロポーズしてくれたとき、私の胸に湧き上がったのは達成感と安堵だった。

27歳からの2年間、虎視眈々と続けた“ときめきのない関係”。そこには、“打算”というにはあまりにも真面目な思惑があった。

アプリ事業を売却して35歳で億のお金を手にし、38歳になった今も、新事業が順調な伸太郎。私は、彼に狙いを定めてからの2年間を、全集中で過ごした。

もちろん、温厚で、大金持ちのわりには素朴で抜けたところがある伸太郎を、人としてキライなわけじゃない。むしろ、友達としては結構好き。

だからこそ、まったくときめかなくても一生一緒にやっていけると踏んだのだ。

彼と出会ってから、私は港区での激しい夜遊びを封印し、表向きは“老舗証券会社に勤める清楚な美人OL”というテイでやってきた。東京女子大卒というのも、手堅くてちょうどいい経歴だ。

そもそも彼と付き合うことができたのは、作戦勝ちというほかない。まず私は、何をやってきたのかわからない港区女子とは一線を画する存在として、彼の前に出現した。

IT系経営者の交流会に、友人に頼み込んで出入りし、ほどなくして伸太郎にターゲットを絞った。

私よりキレイな子はいる。

でも、「素人としては相当の美人」と「まっとうな女の子」というパッケージは、派手な世界を好まない伸太郎に一番訴求するポジションだった。

お付き合いに持ち込んでからも、私は細心の注意を払った。

彼が所有する広尾の素晴らしい低層マンションにも、長居しすぎず、節度を持って通った。手土産を持ち、手料理を振る舞いながら、距離感を保った。

そして、交際2年でついにプロポーズ。

この時は、人生最大のミッションから解放されたような気がして、心底ホッとした。

そして、29歳の私は、婚約期間というゴールデンエイジに、封印していた「ときめき要素」をある方法で補充することを誓った。


セレブ妻に王手をかけた女がとった、危うい行動とは?


秘密の関係


「愛弓が大金持ちのおっさんの奥様になるの?あんな垢抜けない“のび太みたいな男”で、満足できるわけ?自分は、遊びまくってきたのにさ」

久しぶりの呼び出しに浮かれたのだろうか、玲児が私の体をもてあそびながら、軽口をたたく。

「うるさいな、ぴったりでしょ?私はね、絶対にお金持ちになりたいの。その辺の貧乏主婦なんて、今の時代悲惨よ。うちの会社の男の人なんて、年収1,000万がせいぜい。そんなんで何ができるっていうの」

「ひで〜!俺、来季の年俸900万なんだけど!」

「…プロ野球選手と言っても、下っ端は大変なのね。もう玲児は潮時じゃない?こんなにイケメンでいい体なんだから、もう少しほかで稼ぎようがあるかもよ?まあ、私には関係ないけどね」

私が24歳、玲児が22歳の時に食事会で出会い、それから5年間つかず離れずの関係。お互い他にも付き合っている人が登場しては消えていたが、恋人の有無に関しては、追及を避けていた。

割り切った関係だったが、実は、ブラックなところで馬が合って、本音を言い合える奇妙な仲だった。




「まあ、愛弓はさ、昔からブレないもんな。しょーがないけど、満願成就、祝ってやるよ。その代わり、これからも会ってくれよ?」

「うーん、でもね、結婚したらもっともっと用心しないと。めったに会えなくなるかもね。まあ、伸太郎は鈍いから、浮気なんて疑わないと思うけど…。

見つかったら大変。せっかくのセレブ妻の座、失くすわけにいかないのよ。その分、婚約期間はギリギリセーフってことで、楽しみましょ」

「ちぇ、俺は結構愛弓のこと本気だったのにさ。つまんないの」

鼻先を擦り寄せてくる年下の「愛人」を、私はうっとりと抱きしめた。伸太郎には言えないけれど、ときめきと興奮を与えてくれるのは、間違いなく玲児だ。

自分の汚さも、ずるさも、玲児が受け止めてくれる。

玲児がいたからこそ、これまで私は伸太郎ともうまくやってこれたのだ。

この婚約期間中は、存分に楽しむ。でも、結婚した後は、細心の注意を払う必要がある。

チヤホヤ要員としてひそかにキープしていた男たちを整理して…まあ、玲児ひとりならば、頻度を落とせば、きっとうまくやることができるはずだ。

「じゃあさ、結婚する前に、箱根あたりに1泊でいいから旅行しない?年末にさ、ちょっと早く帰省するとか言えば不自然じゃないだろ?仕事、オフシーズンなんだ。聞き分けのいい愛人にご褒美があってもいいんじゃない?」

私は考えるフリをしながら、腕の中でため息をついた。

リアクションとは裏腹に、意外にも私の心は踊っていた。

年末は愛媛に帰省することになっている。新年には、伸太郎が愛媛まで来てくれる予定だ。確かに、1泊2日くらいはうまくごまかせそうな気がする。

…しかし事件は、その楽しみにしていた旅行当日に起こった。


浮かれる愛弓に、冷水を浴びせるような1通のLINEが…!?


不可解な男の行動


「え?ちょっと待ってよ、どういうこと?」

朝から入念にメイクをしていると、ドレッサーの上に置いたスマホにメッセージが入った。指紋認証して開くと、用心して表示名を女性の名前に変更してある、玲児からだった。

内容を目にして、すぐに折り返しで電話をする。

「もしもし、玲児?ちょっと何考えてるの?旅行をドタキャンとかありえないから!今どこにいるの?仕事ってなによ、暇人のくせに!」

怒りのあまり、激高する私に、玲児は、小さな声で何かもごもご言っている。

「ごめん…その、とにかく行けないです。宿は、キャンセルしておきます」

「さては、女ね?他の女にバレて身動きできないってこと?冗談じゃないわよ、バカにしないで。私がこの旅行のために、どれだけお芝居したと思ってるのよ」

私は自分が婚約中であることを棚に上げて、玲児を責めた。仕事ならば、後から合流するとかして、必死で帳尻を合わせてくるはず。

「旅行自体をキャンセルしたい」と当日の朝に言い出すなんて、絶対に行けない理由があるということだ。

女が理由としか思えない。これまでは他に女がいたとして、最優先は私だったのに、いつの間にか2番手の扱いになっていたのだ。

「もういい!これでお別れよ、せいせいするわ!」

私は、一方的に電話を切った。

旅行を密かに楽しみにしていた分、ショックだった。

― 玲児、いつの間に本命の彼女を作っていたんだろう。

これまでは他にも女がいるときは匂わせていたのに、今回はまったく気がつかなかった。悔しくて、自分勝手だとわかっていながら悲しくて、スマホをベッドにたたきつけた。






なにもする気がしなくて、ゴロゴロしていた。

― やっぱり、他に女がいたんだ…。

半日以上経っても、玲児からは何の連絡もない。

こんなこと5年の付き合いで、初めてのことだった。私たちは、お互い言いたいことを言うのでケンカになるが、玲児が折れて連絡してくるのがお約束だった。

LINEも電話もないということは、これで終わりにする、という意思表示だろう。

実家には、明日の夜、箱根旅行から戻ってきて、そのまま羽田から飛行機で帰る予定だった。

今さら今日の便に変更するなんて面倒だ。かと言って、この部屋で独りで夜を過ごすなんてまっぴらだった。

時計を見ると、もう15時。

その時、放り投げていたスマホが振動した。玲児かもしれない。情けないほどに素早く飛びつくと…なんと伸太郎だった。

伸太郎とのあいだで、今がどういう設定だったかを、素早く思い出す。

彼には、今日の最終便で愛媛に帰省すると伝えていたから、今私が部屋にいるのは、不自然じゃない。

「もしもし?伸太郎?どうしたの〜」

平静を装って電話に出た。

「愛弓、まだ家?」

「うん、そうだけど」

「よかった!あのさ、愛弓の大好きなバンドが人数絞ったライブ配信を年末にするって話、前にしたでしょ?なんと、今夜の関係者席、お偉いさんのドタキャンが出たからどうですかって、代理店の人から今連絡あったんだ!」

「え、嘘、ほんとに?え、今夜?…私、飛行機キャンセルする。帰省は、明日すればいい!行きたい」

どうせ、ひとりでもやもやしながら過ごす夜だ。ぜひとも行きたい。普段熱心なファンだと伸太郎は知ってるから、飛行機をキャンセルしたというのもおかしくはないはず。

「よかった、こんなチャンス、一生に一度あるかないかだもんね。じゃあ、すぐに車で迎えにいくよ。あと1時間ちょっとで開演だからね」



アコースティックバージョンのライブは、抽選で当たったファンが100人、関係者が50人という特別感満載のものだった。

私は伸太郎に連れられて、関係者受付に向かった。ファンたちがこちらをうらやましそうに見る。

本来なら、私も「そっち側」の人間だっただろう。これからは、選ばれた「こっち側」の人間になるのだ。伸太郎と結婚することは、やはり間違っていなかったと思える瞬間だ。

たとえ、玲児と二度と会えなくても…。

今朝の顛末を思い出して、落ち込みそうになるのを、私は必死で押しとどめた。

「福田さん!ご無沙汰しています、ちょうどよかった、こちらにご紹介したい人がいるんですよ」

伸太郎が男に呼び止められ、話し始めた。「先に入ってて」と目で合図されたので、私は受付に名前を告げる。

ドタキャンのピンチヒッターだから大丈夫かな?と名前を言ってから気づいたが、きちんと私の名前がキレイに印字されたチケットを渡された。

このチケットは、果たしていつから用意されていたんだろう、と不思議に思う。

「あの、このチケット、福田が急にお願いしたと聞きました。ご迷惑をおかけしたんじゃないですか?ありがとうございます」

受付の責任者のような男に、私はカマをかけてみた。

「……?いいえ、そんなことはございません、あらかじめお2人のお名前を頂戴していましたから、何も問題はありません。お気遣いありがとうございます」

男は、礼儀正しく頭を下げた。

チケットは、事前に用意されていたのだ。まるで今夜、私がここに来るのが決まっていたみたいに。

遠くにいる伸太郎の横顔を見る。いつ見ても人の好さそうな笑顔だ。

例えば。

婚約中の女と旅行に行こうとした男の元に、地位と名誉がある“夫になる予定の男”が、急に乗り込んできたら。

その男が「今すぐ別れろ、さもなくば社会的に報復する」と言ってきたら。

私ならば気が動転し、震える声で電話をかけて旅行を取り止めるだろう。土下座して、穏便に済ませて欲しいと懇願するはずだ。

醜聞は、プロ野球選手にとって選手生命にかかわる…。

“夫になる予定の男”が、彼女を常に監視していたのであれば、女の行動は、すべてお見通しだったはずだ。

そして、その男は、ライブのチケットをあらかじめ用意し、ギリギリのタイミングで空きが出たから一緒に行こうと演出することだって可能なのだ。

伸太郎が開発していたアプリがどんなものだったのか、私は興味がなくてきいたことがない。

でも今は、それは聞かないほうがいいような気がした。

私はもう、彼と結婚することを決めているのだから。

たとえ、彼の本性がぞっとするほど嫉妬深く、手段を選ばない、計画的で狡猾な男だとしても。

私は挑むように微笑むと、ゆっくりと伸太郎に近づいていった。

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都会のコワい話を連載中の、独身ライター。カフェで執筆に行き詰まっていると、マダムが向かいの席に座った。