「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

交際4年の彼氏・大介との結婚に、迷いを感じ始めた美津。バーで出会った経営者・篤志に惹かれ既婚と知りつつも不倫関係に陥る。偶然、篤志が他の女性を口説いているところを見てしまい、美津は白けた気持ちになるのだった。

▶前回:「僕にはね、妻がいるよ」旅館での密会中、男にアッサリ告げられた女は抵抗したが…




「掛川さん。カウンター空いたので、よければ移動しませんか?」

声をかけられ、美津は視線を上げる。そこには店主・誠司が、紳士的な笑みを浮かべて立っていた。

「ありがとうございます。美津、移ろうか」

椅子から立ち上がり移動しながら、美津は額に手を当てる。

― なんか、頭がぼーっとするわ…。

先ほどの篤志の姿が、頭から離れないのだ。

大介の隣に無言で腰掛け、店内を見る。美津たちのほかには、1組の客しかいなくなっていた。

「美津さ…」

「ん?」

「最近、深夜帰宅が多いよね。…今は、どういった案件で忙しいの?」

― もしかして、男の人と会っているって、バレてた…?

美津は焦りながら、とっさに自然な態度を装う。

「春の…お花見特集よ。全国の桜の名所の記事を書いてるの。この前の京都も、その一環で行ってきたわ」

自分の頭の回転の速さに感謝しながら、ダークラムに口をつける。

「ふーん、なるほどね。結局、異動しても忙しいわけか」

「うん。楽な部署だと思ったけれど、そんなことなかったわ」

嘘だった。今、美津は業務時間が余るくらいの仕事しか任されていない。

「よかったね。美津は忙しい方がイキイキするからな」

大介は目を細めて笑ったあと、少し声を曇らせた。

「あのな、悪かったなって思ってるんだ。美津が異動になったとき、僕、喜んじゃって。美津はがっかりしてたのに」

「…いいのよ、謝らないで」

― 謝るべきことを隠しているのは、私の方だし…。

うつむく大介を、美津は無言で見つめた。


大介に嘘をつく美津。すると、バーの扉が開きある男がやってくる…


大介と美津の横にいた客が、店を出て行く。

そのとき、入れ替わりで若い男の子が店に入ってきた。

クリっとした目と白い肌が印象的な男の子だ。オーバーサイズの白いパーカーには、スポーツブランドのロゴがついている。

「にーちゃん!おひさ〜!」

「え、守?」

カウンターでグラスを拭いていた誠司が、顔をあげる。

「掛川さん、すみません。こいつ、弟の守です。今、系列の横浜店で働かせていて…」

守は「お邪魔します」と挨拶し、美津の左側に2つ分の席を空けて座る。

そのとき、店の電話が鳴った。

電話に出た誠司は、眉間にシワを寄せる。そして電話を切り、守を見て重い口を開いた。

「母さんからだった。風花が、蕁麻疹みたい」

ふと美津は、誠司と初めて会った日の取材メモを思い出す。確か、彼はシングルファーザーだ。「風花」は、娘の名前だろう。

「え。じゃあ、あとは俺がやるから、兄ちゃんは帰ってそばにいてあげて」

誠司は、慌ただしく店を出て行った。そして気づけば、守がカウンターの中に入っている。

「…いや、弟さん。大変そうだし、今日は失礼しますよ」

財布を取り出した大介を、守は引き止めた。

「ここからはサービスするんで、よかったらもう少しいてください。…本店のカウンターに立つの、久々で嬉しいんです」

ニカッと笑った守は「何飲まれますか?」と優しく聞いてくるのだった。




美津は、守のことを色々と質問してみた。

慶應大学を卒業してから『onogi』の横浜店の経営を、兄から任されていること。現在、24歳であること。

守と美津が楽しくおしゃべりを続けていると、大介がコクリコクリと船を漕ぎ出した。そしてついに、頭をがくりと落とし眠り始めてしまったのだった。

「…ごめんなさい、大介ったら。もう帰りますね」

美津がそう言うと守は水を2杯置いて、カウンター越しに毛布を手渡してきた。

「あの…よかったらあと1杯だけ。どうしても飲んでもらいたいカクテルがあって。だから旦那さんに、毛布を」

「カクテル?…いいですね」

そう言いながら毛布を広げ、大介の背中にかける。

目の前でカクテルを作る守。少年感の抜けない見た目とは裏腹に、華麗な手つきでカクテルをつくる。

「本当は今日、兄ちゃんに新作のカクテルを試飲してもらおうと思ってここに来たんです」

トンと、美津の前にカクテルが置かれた。

「よかったら、飲んでください」

大きく潤んだ目が、美津をまっすぐ見つめる。カクテルに口をつけてみると、弾けるような柚子の香りで満たされた。

「…おいしい!」

美津の反応に、守はパッと口を開く。

「だよね?美味しいですよね?」

「うん、本当に美味しいわ。すごい、守くん。誠司さんも顔負けのバーテンダーになれるんじゃない?そしたら、自分のお店も出せるわね」

美津が褒めると、守は小さく首を横に振った。


無邪気な守が見せた、意外な側面とは?


「俺ね、自分の店を出すとかは別に興味ないの。そんなことより、兄ちゃんの手伝いがしたいんです。兄ちゃん、1人で子ども育てて大変だろうし」

美津は、言葉を失う。5歳も年下なのに、なんて献身的な子なのだろうと思った。

経済誌の記者をやめてからのここ数ヶ月。美津は、雲をつかむような理想の自分の姿を追いかけてばかりいるというのに。

「…えらいのね。ねえ、守くんも何か飲んだら?この人、まだぐっすり眠っているし」

2人で大介の寝顔を見て、顔を見合わせて笑う。

「じゃあ、お言葉に甘えて」




美津の横に移動してきた守は、ウイスキーを飲みながら、だんだんと饒舌になっていった。

「俺ね、兄ちゃんを世界一尊敬してるんです。…兄ちゃんは、俺の父さん代わりでもあって。父さん、俺が小学生の時に女関係でモメてどっか行っちゃったの」

「そう…」

「うん。だから兄ちゃんからいろんなこと教わったんです」

突然の告白に、言葉選びに困る美津。しかし守は少し顔を近づけて笑った。

「ねえ、そんな気まずい顔しないで。俺、誇らしいと思って話してるんですよ」

近づいてきた守からは、柔軟剤のような香りがした。この子は女の子からモテるだろう。美津は他人事のように思う。

「でも…本当の父親も兄ちゃんの元嫁も、みんな浮気。俺、浮気なんか大っ嫌い。そんなに簡単に裏切れる相手なら、結婚なんかしなきゃいいのに」

グラスを持ち上げて氷をカラコロと鳴らしながら、語気を荒らげる守。そのつるんとした頬を見て、美津は思う。

― 人間はね、20代後半で色々な現実が降ってくるのよ。君はまだ知らないだろうけど。

美津は、諭すように話し始めた。

「私だって、あなたくらいの年のときは思ってたわ。いつか、互いに一生裏切らないだろうなって人が現れて、この人しかいないって思って、なんの迷いもなく結婚するんだろうなって」

美津は思わずため息をつく。守が、チラリと大介の背中を見た。

「…え、彼は?違うの?」

守のまっすぐな視線が刺さってくる。そう、この人は違うの。美津は言葉にしないまま心で答えた。

「…あのね、守くん。結婚相手選びっていうのは、エゴと焦りとの戦いなの。もっといい人がいるんじゃないかっていうエゴと、この人でいいからそろそろ結婚した方がいいかなっていう焦りの」

守は、パチパチと瞬きをして静止した。

「…ま、24歳の君には、まだわからないよ」

ふざけて、守の頭をポンポンとなでてみる。軽く口をとがらせた守は、すねたように言った。

「わかんないよ。…でも、迷ってるのに結婚なんてダメだよ。絶対おかしいよ」

カウンターに突っ伏した大介は、小さないびきをかいて変わらずスヤスヤ眠っているのだった。

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