-この人だけを一生愛し続ける-

そう心に誓った日は、もう遠い昔…。

結婚生活が長くなれば、誰にだって“浮つく瞬間”が訪れるもの。美男美女が行き交う東京で暮らすハイスペ男女なら尚更だ。

では、東京の夫/妻たちは一体どうやってその浮気心を解消し、家庭円満を維持しているのか。

これは、既婚男女のリアルを紡いだオムニバス・ストーリー。




第1話:妻子持ちの男・加藤誠一に届いた、美女からの誘惑


“もしかして…あの加藤誠一くん?”
“私、小学校で一緒だった木下百合。覚えてくれてるかな…”

深夜、妻と娘が寝静まった後のこと。

調べもののついでに久しぶりにFacebookを開いたら、見覚えのあるアカウント名からメッセージが届いていた。

“覚えてくれてるかな…”だなんて。

覚えていないわけがない。木下百合は、僕の初恋の女性なのだから。

千代田区内の区立小学校3年生のとき、僕のクラスに転校生がやってきた。

皆の前で物怖じすることもなく笑顔で挨拶する美少女に、おそらくクラスの男子全員がときめいたに違いない。

しかし絶対に、一番ドキドキしていたのは僕だ。

そう言い切れるのは、先生からの指示で、その転校生は僕の隣の席に座ることが決まっていたから。後にも先にもこの時ほど、学級委員をしていて良かったと思ったことはない。

「よろしくね」

至近距離にやってきた彼女が、ポニーテールの髪を揺らして微笑んだ。その瞬間のことを、僕は35歳になった今でも鮮明に思い出すことができた。

はやる気持ちを抑えながら彼女のタイムラインを覗いてみる。

まずは、レストランらしき場所でにっこりと笑うプロフィール写真を拡大。

お互い私立の中学に進んでからは一度も会っていないが、面影はしっかり残っていた。もともと美少女だったが、大人になり、より一層洗練された彼女の美貌は“高嶺の花”そのもの。

美少女からS級美女に変貌を遂げた神々しさに感動すら覚えながら、僕は思わずこう返信したのだった。

“覚えてるに決まってるよ。木下は俺の、初恋の人なんだからさ(笑)”


“高嶺の花”からのメッセージに浮かれる男は、知らぬ間に彼女のペースに巻き込まれていく




チャットは数秒ののちに既読となり、すぐに彼女が何かを入力しているらしき表示が出た。

僕は胸を高鳴らせながら、メッセージの到着を待つ。

すると次の瞬間、心浮かれずにはいられない言葉が届いたのだ。

“え…それ本当!?私も、加藤くんのことが好きだったよ。加藤くんが私の初恋の人♡”

-私の初恋の人♡-

なんて甘酸っぱい響きなのだろう。

数々のハイスペ男と出会ってきたであろう木下百合のような美女が、20年以上も会っていない同級生のことを覚えてくれていただけでも驚きなのに、ハートマーク付きでそんなことを言ってくれるなんて。

しばし余韻に浸っていると、続けざまにメッセージが届いた。

“プロフィールで勤務地が加藤歯科医院になってるってことは、加藤くん歯医者さんになったんだね!すごいね。ご実家を継いだのかな?今も麹町に住んでるの?”

僕の実家が歯科医だってことまで、覚えてくれていたとは。

“そう。俺、長男だからさ。家は九段下のマンションに住んでるけど”

そして浮かれた気分のまま即レスする僕に彼女がよこした返信は、まるで運命さえ感じさせるようなものだった。

“びっくり!私も今、九段下に住んでるの”
“え、そうなの!?”

その後のやりとりは、すごい偶然だね〜!と盛り上がったところで終わった。

しかしどういう風の吹きまわしか、彼女の方からちょくちょくメッセージが届くようになったのだ。

“加藤歯科医院のホームページ見たよ。加藤くん、めちゃくちゃかっこよくなっててびっくりした!初恋の人として、誇らしい気持ち♡”

それは一見、社交辞令にも見える。しかし見ようによっては、誘っているように見えなくもない。

僕は結婚当初に妻からの指示でFacebookのステイタスを“既婚”に変えてある。木下百合もおそらくそれを目にしているはずだが…。

ちなみに、彼女の方は結婚しているかどうか定かではない。

というのも、僕のように特にステイタスの設定もしておらず、タイムラインを遡ってみても決定的な投稿が一つもないのだ。

載せられているのは女性と一緒の写真ばかり。もしかすると、意図的に男の影が消されているのかもしれないが。

危険な香りがする。

しかしその香りが濃厚であればあるほど、男という生き物はそれを無視することができない。

別に今更、何をどうこうしようというわけではない。

しかし実年齢は5歳年下の妻と比べても圧倒的に若く美しい女と、なんとなく艶のあるやりとりができるのは正直、気分が上がる。

結婚して5年。2年前には娘も生まれ、医院の経営も家族サービスも精一杯、卒なくやってきたつもりだ。

ちょっとした非日常を味わうくらい、許されてもいいだろう?

何度となくやりとりを繰り返すうち、少しずつハードルが下がっていたことは間違いない。結局は僕の方から、彼女に誘いのメッセージを送ってしまったのだった。

“俺だって、木下がますます美人になってて驚いたよ。平日夜は忙しい?せっかく繋がったんだし、時間が合えば食事でもどうかな?”


ついに、高嶺の花と再会!?しかし浮かれる男の前に立ちはだかる、勘の鋭い妻の壁…


勘の鋭い僕の妻


「…ずいぶんとご機嫌ね?」

木下百合と約束をした朝。

歯磨きをしながらつい鼻歌を口ずさんでしまった僕に、ちょうど洗濯機を回しにやって来た妻が怪訝な目を向けた。

「いや?別に…そうそう、今日は午後診療のあと学会に出かけてそのまま会食があるから遅くなるよ」

努めて冷静に、さりげなく。僕は妻に疑われることのないよう細心の注意を払った。

その甲斐があり、洗濯機の操作を終えたらしい妻は一言「そう」とだけ呟くとリビングへと戻っていった。

その後ろ姿を見送る僕は、ホッと胸をなでおろす。

アリバイ工作、完了…の、はずだった。

しかし結論から言うと僕は結局、木下百合と再会できずに終わったのだ。




“至急、電話ください”

その夜、浮かれ足で約束の場所へと向かう僕を現実に引き戻したのは、妻から届いた短いLINEだった。

妻がこうして敬語を使うのは、まず間違いなくヤバイ事態が起きている時だ。

背筋がヒヤリ、と冷たくなる。

できることなら逃げたいが、ここで妻に従わなければますます事態は悪化するだけ。僕は観念し、すぐにコールバックをした。

「あなた、私に嘘ついたわね。衛生士の女の子に確認したら、今日学会の予定なんかないって言われたわよ。一体あなた今、どこにいるの?」

ワンコールで電話に出るやいなや、妻は早口でまくし立てた。

衛生士に確認した…?

何をしてくれているのだと呆れるも、今そんなことを言おうものなら火に油だ。

「え、いや、それは衛生士が知らないだけで…」
「今、どこにいるの?」

慌てて答えた僕の声を、しかし妻がドスの効いた声で遮る。

僕が今どこにいるか。その答えは、木下百合と待ち合わせた白金の『ロッツォ シチリア』だ。

だがまさかそれを言うわけにはいかない。疑心暗鬼となった妻の恐ろしさは、この5年の結婚生活でよくよく知っている。居場所を突き止めたが最後、必ず僕を連れ戻しにやってくるに違いない。

時刻は18時55分。

あと5分もすれば、ここに木下百合がやってくる。妻と鉢合わせなんて修羅場は何がなんでも避けなければならない。


何かに気づいたらしい妻からの激しい追及に、夫がとった行動とは?


非日常が魅力的なのは…


「…わかったよ。小学校の同窓会があったんだけど、そんな風に疑うなら断って家に戻るから。それでいいだろ?」

「同窓会なら、なんで学会だなんて嘘つくのよ。だいたいあなた同窓会なんて参加するキャラだっけ?その設定自体、怪しすぎるでしょ」

「同窓会にキャラとか関係ないだろ。とにかく、もう帰るから」

…ダメだ、これは。

まったく追及の手を緩めようとしない妻。

完全に白旗を揚げた僕は、店にキャンセル料を支払ってでも予約を取り消すことを決意した。

そして妻との通話を終えてすぐ、木下百合に連絡をする。

“ごめん。妻に疑われてて、今日は家に戻らないと。この埋め合わせは別の機会に必ず!本当にごめん”

約束時間直前のドタキャンなんて、本当に申し訳ないと思う。しかしこの時の僕にはそれ以外の選択肢がなく、ただただ謝るしかなかった。

急いで送ったメッセージは、瞬時に既読となった。

しかし彼女からの返信がくることはなかった。…その夜も、次の日も。

それから数日は、せっかくのチャンスをふいにしてしまった自分が心底情けなく、どうにかして再び木下百合と会う方法はないだろうかと考えたりもした。

けれども1週間も経てば、僕は彼女のことなどすっかり思い出さなくなってしまった。

それもそうだ。

木下百合は僕の日常にちょっとした華を添えてくれはしたが、別になければないで困ることもない。非日常はあくまで特別だから魅力的なのであって、日常を失ってまで求めるものではないのだ。

いつも通り医院での仕事を終えて家に戻ると、料理好きの妻が用意してくれる食事と可愛い娘が待っている。




冷静になってみれば、この当たり前の幸せこそが僕の帰る場所なのだ。

そう改めて痛感した僕は、むしろあの時電話をよこした妻の勘の良さを誇らしくさえ思うのだった。

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加藤誠一にメッセージを送った木下百合の目的は、一体何だったのか?