手紙に込めていた秘密が暴かれた時。失望した女が、着々と進める復讐計画
深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。
それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。
有馬紅子（ありま・べにこ）もそんな物語の一人として17年間幸せに暮らしてきた。
しかし突然、夫・貴秋が若い女と駆け落ち同然で家を出てしまい、紅子のプライドは消えかける。
しかし就職に成功し、新たな一歩を踏み出した紅子。初めての売り上げを上げその手段が、周囲のスタッフを魅了していく。そんなある日、紅子は、久しぶりに月城家に呼ばれることになったが、そこで手紙の謎が明かされ、夫の貴秋が、その送り主に気がつき、その主を呼び出す。
月城貴秋の攻撃：愚かにも僕はようやく悟り、覚悟を決めた
「こんなに閉ざされた部屋で2人きりなんて。密談にぴったりな場所をご用意してくださったのね」
21時過ぎ。約束の時間を少し過ぎて、この部屋に入ってきた田所さんは、椅子に座っている僕を見下ろしてそう言った。
170cmは超えているであろう長身の彼女を見上げて曖昧な笑みを返しながら、僕は少しの違和感を覚え、それが何故なのかはすぐに気がついた。
―今日は、赤い口紅じゃないからだ。
会う度に真っ赤に染められていた田所さんの唇に、今日は不自然なほど色味がなかった。そのせいか顔色も悪く見える。
そんなことを思いながら彼女に、僕と向かい合わせの席に座るように勧めた。店員がその椅子を引き、そこに彼女が座る動きで、彼女のオードトワレがふわりと香った。
―ムスクか。苦手な香りだ。
ムスクは麝香とも呼ばれ、元々は、ネパールやヒマラヤなどに生息する麝香鹿（じゃこうじか）という小柄な鹿の、オスの分泌物から採取されていたらしい。それは彼らが、メスを惹きつけるための香りと言われている。
田所さんが少し身動きする度に甘く粉っぽい空気が漂う。閉ざされた、5畳ほどの個室をこの匂いが満たしていくことに、僕の居心地の悪さは増してしまう。
彼女が座った時にテーブルの下で、かすかにお互いのつま先が触れ、僕が失礼、と言った時、彼女のシャンパーニュが運ばれてきた。どうやらこの部屋に入る前に注文を済ませていたようだ。
食事は？と問うた僕に、彼女は、お気遣いなく、と答えて皮肉っぽく顔を歪めた。
「楽しく会食するために私を呼び出されたわけではないでしょう？カッコつけるのは程々になさって、早く本題に入りましょう」
田所さんの言葉には苛立ちが含まれ、笑顔はない。
―別人だったんだな。今まで僕に見せていた彼女は。
愚かにも僕は…ようやく悟り、覚悟を決めた。そして、聞きたかったことを全て問うことにした。
貴秋の推測。なぜ彼は、手紙が涼子からのものだと気がついたのか。
「…これ、田所さんが、送ってきてたんでしょう。月城家に。紅子へのメッセージですよね」
僕は月城家に送られてきていた手紙のコピーを取り出し、机の上に置いた。現物は、いざという時の物証にするためにと、西条が保管している。
田所さんはそのコピーにちらりと目をやると、忌々しそうに、少しだけ顔を歪めた。
「そうですよ。私から紅子さんへのお手紙です。でもなぜ貴秋さんは…私からだと気がついたんですか？」
あっさりと肯定され気が抜けそうになったが、田所さんの苛立ちは増したように見えた。
「僕はね、ご存知の通り甘やかされて育ったものだから、情けない話だけれど、人を疑うことが苦手だ。
それに父や親戚達の汚い駆け引きを知り過ぎたせいで、駆け引きも嫌いで逃げてきた。でもね、だからなのか子どもっぽいメッセージには気が付きやすい。だから、この手紙にあった子どもじみた暗号に気がついたんです」
田所さんは手紙のコピーに視線を落とし、また僕を見たけれど、そこには何の感情も読み取れない。僕は不安になりはじめたけれど、気にしないことにして続けた。
「全ての手紙をまとめて見てみると、改行が不自然な手紙が1通だけあって。ふと思いついたんですよ。そういう手紙って、推理小説とかに出てくる場合メッセージが隠されていることが多いなって。
僕は小さな頃から推理小説が好きでしてね。コナン・ドイルだったか…手紙の1番上の文字を読んでみるとメッセージが隠されている、という話があったんです。
ちょっとそれをやってみたんですよね。改行が不自然なのは最初の手紙だけ。最初の手紙なら、尚更送り主にとって意味を持つものだろうと思いましたから。
数回読み返しているうちに、こういう風に読めるな、って、閃きました」
『�爐↓瓩覆燭鮴萋�パーティでお見かけしました。
�爐↓瓩瞭�のようにあなたが
�犹笋豊畧爾鬚�けてくれると信じていましたが、
�犁い�ついて�瓩い燭世韻覆�った。やはり
�犹笋廊瓠�
�爐↓瓩覆燭傍い�ついて頂けるような価値は無い
�狃��瓩覆里任靴腓Δ�』
「最後の女を、おんな、と平仮名に置き換えると、最初の文字は�爐��瓩砲覆蠅泙后�つまり、並べて読むと”ああ私に気がついて私はあお”ですよね。どうでしょう？」
田所さんは、表情は変えぬままシャンパーニュを口に含むと、僕から目をそらした。
「お恥ずかしい話、僕は紅子の友人にあまり詳しくない。でもね“私はあお”という言葉で連想できる人がいた。しかも自ら僕に近づいて来た人。それがあなた。田所さんだった。
追い詰めたはずの貴秋に…涼子の逆襲がはじまる！
田所さんは、僕が数年前に知り合ってから、パーティで会う度に青いドレスを着ていた。そのドレスを褒めた僕に、話してくれたじゃないですか。紅子にこう言われたことがあるって。
“私の紅が赤なら、涼子さんのお名前は、涼しげな青のイメージね”と。そして、“私たち赤と青のペアね”と笑ってくれたと。それ以来、青いドレスを好んで着るようになったんですよね。
それに、次の手紙が…分かりやすかった」
『あなたのために私は変わります。あなたと、
私のたったひとつのお揃い以外を変えて、いつか必ずおそばに参ります。
待っていてくださいますか』
「お揃いなのはホクロ、ですよね。右目の下にあるホクロがあなたと紅子はお揃いだから」
僕がそこまで一気に喋りきって黙ると、そこまで何も言わずに聞いていた田所さんが、唇をきつく噛みしめ、声を絞り出した。
「…あなたのような、間抜けな男でも気がつくメッセージにしたのに…なぜ、あの賢い紅子さまが…気がついて下さらないのか」
田所さんの声は悲しく響き、彼女はゆっくりとうつむいた。僕は彼女が泣き出してしまうのでは、と思ったけれど、言葉を選びながらさらに続けた。
「田所さん。あなたがなぜ紅子にこんなにまで執着し、なぜ匿名で手紙を書いたのか、何故僕に近づいてきたのか、僕にはまだ理解はできていない。
でも君は間違っている。本当に紅子に気がついて欲しくて、伝えたいことがあるのなら、こんな子どもじみたトリックでメッセージなど送らずに、正々堂々と…」
すると僕の言葉を止めるように、低い笑い声が聞こえ、田所さんがゆっくりと顔をあげた。そして僕をにらんだまま喋りだす。
「呑気なおぼっちゃまには理解していただけないことでしょうね。あと、駆け落ちしたあなたが、今さら紅子さまを守ろうとでも？正々堂々など、よくもまあ言えたものですね。それに…貴方は私と同じ穴のムジナよ？」
そして彼女は立ち上がると、呆気に取られている僕に近づいてきた。
「…貴秋さん、私を呼び出して確かめたかったのはそれだけじゃないでしょう？あなたが恋に落ちたはずのあの花屋の女性。あなたの初恋の人と同じ名前の沙知子さん。彼女のことこそ、私に聞くべきなのでは？」
田所さんが僕の背後に回り、その手が肩に触れる。ジャケットの上からだというのに、ひやりとした冷たさが肌に伝わった気がして、僕はゾッとした。
「勝ち誇ったように、随分と意気揚々に…今までお話しになっていたけど、私が喋らせてあげてただけよ。あなたはカードを出しきってしまった。それに弱みを握っているのは、私であって、あなたではない」
「…僕に弱みなんて…無いはずだ」
自信を持って言い切ったつもりだったが、胸の鼓動がなぜか早くなる。田所さんはそんな僕をまるで気にしない様子で続けた。
「あなたの弱みを握っている上に、何をするかわからない相手を敵に回すのは得策じゃないでしょう？あなたはもう、紅子さん側の人間じゃないのだから」
思わず見上げた彼女の目に、テーブルの上に置かれたキャンドルの青白い光が映り込み…青い炎が爛爛と、瞳の中で燃えているように見えた。
自分が指定した場所なのに…まるで蜘蛛の巣におびき寄せられ、絡めとらてしまったかのように…なぜか僕は、彼女の視線から逃げることができずにいた。
田所涼子、突然の辞表。そして坂巻が紅子についに…。
「有馬さん、田所さんが辞表出したみたいなんですけど、ご存知でした？」
「…えっ？」
思わずそう返してしまった私の反応に、坂巻さんが、有馬さんでもそんな風に驚くんですね、と少し笑った。
ブランドの大回顧展に向けた代理店との打ち合わせの帰り道、私たちはタクシーの後部座席に並んで座り、会社に帰る途中だった。
「なんか突然のことだったみたいで、上も困惑してて。とりあえず辞表を保留してるみたいなんですけど本人の意志が固くて、断固として辞めたいと。今は有休消化という形で休養を取らせてるみたいですけど」
「…涼子さんが、辞められる…」
あの日、私が思いのたけをぶつけてしまった後、涼子さんは暗い目をしたまま、何も言わずに立ち去られた。
私は自分の正義を貫いたつもりでいたけれど、彼女を酷く傷つけてしまったのでは、と、あれから1週間以上がたった今でも、後悔は消えていなかった。
「有馬さんとは昔馴染みだと、田所さんが嬉しそうに話してくれたことがあったんで、何かご存知かと思って聞いてみたんですけど。何かあったとしか思えないですよね、広報部のエースが突然の辞表なんて」
坂巻さんの言葉に、そうですね、と返すのが精一杯だった。まさか私ごときの言葉で涼子さんが辞意を、などと自惚れてはいないけれど、あの日の涼子さんは明らかに様子がおかしかったから。
―もっと…親身になれたはずだわ。
今夜にでも一度電話を入れてみよう。私がそう思った時、坂巻さんの、あの、という声が聞こえ、窓の外を眺めていた視線を坂巻さんに戻した。
「…今度、良かったら、メシ…あ、食事でも行きませんか？」
なぜか横顔のまま、こちらを見ずにおっしゃった坂巻さんを、私は不思議に思った。お食事なら割と頻繁にご一緒しているからだ。
加藤さんと坂巻さんと私、3人での食事会は、私が本社に戻った後も、定期的に続いていて、そこでの会話に私は助けられることも多かった。
「はい、また是非。加藤さんもきっと楽しみにしてらっしゃいますわ」
そう答えた私に、あーそうじゃなくて、とブツブツと何かをつぶやかれた坂巻さんは、今度はしっかり私の方を向いておっしゃった。
「あの…3人じゃなくて、2人で。2人きりの食事に、お誘いしています」
「2人きり、ですか？」
聞き返した私に、坂巻さんは早口で言った。
「ほんとは、大回顧展終わるまでは、お誘いするつもり無かったんですよ。でも、有馬さんのこと狙ってるヤツが、結構増えてきてるみたいだから…。気がついてま…せんよね。あー俺、焦って、先走りするとかカッコ悪い…」
坂巻さんの言葉の意味が分からず私が黙ったままでいると、窓の外を見たり、私を見たり、を繰り返したあと、「あー、もう言っちゃいます。すいません！」と宣言するように大きな声を出された。そして。
「俺…有馬さんのこと、女性として意識してます。素敵な女性だと尊敬してます。そう思ってる、ってことだけでも知っておいてもらえますか。今すぐじゃなくていいです。でも俺のこと、男として、見てもらいたくて」
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涼子が握った貴秋の弱みとは？そして坂巻の気持ちに紅子は？
