7歳年上の既婚男を好きになってしまった。27歳女が、思い切って食事に誘ってみたら…
愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。
そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。
ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。
今宵も、ボトルの前に男と女がいる。
長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。
Vol.1 『密かな想い』小山一葉(27歳)
「何着て行こうかな…。こっちのジャケットかそれともワンピース?」
今日の自分が少しでも素敵に見えるように。
「あ、そうだ」
思い出したように、一葉は先日ユナイテッドアローズで買ったニットを探し始めた。
世間にはブルーマンデーという言葉もあるが、一葉は月曜日が好きだ。
友人とカフェでお茶したり、家の家事をしたりと普通すぎる土日をやり過ごした後の、月曜の朝のワクワク感といったら、言葉では言い表せない。
新卒で入社した広告代理店で、プランナーと働いている一葉だが、気持ちが高揚するほど仕事が楽しいわけではない。
月朝に気持ちが華やぐ理由はただ一つ。
会いたい人がいるからだ。
一葉が一方的に思いを寄せているのは、同じ会社の上司、高野だ。彼は一葉より7歳上の34歳。
『ひょろっと身長が高く、端正な顔立ち、横顔のシルエットが素敵な人』というのが彼の第一印象。2年前に他社から転職してきたそうで、一葉は半年前、彼のプロジェクトチームに加わった。
既婚で幼稚園に通う娘がいるらしいが、「素敵な人」と思うだけなら、男性アーティストの誰々がタイプ、という感覚と変わらない。
推しを応援するのと同じことだ。そう、最初は「推し」だった。
だから、彼が既婚かどうかは、最初はあまり気にしていなかった。
それが一葉も気づかないうちに「好き」にシフトしていた。
つまり、この思いは、一方通行の単なる片想いなのだ。
一葉の私見だが、社内の男性は、代理店男子のキャラを地で行くタイプが多い。例えば、自分に自信があって、仕事を成功させるためなら容赦なく人を使う。
一葉が、半年前に別れた彼もそうだった。
しかし、高野は彼らとは真逆だった。年下の社員を呼び捨てにしたり、使いっ走りにすることはない。
その人の能力に応じて仕事を任せ、それができないときには手を差し伸べる。そのタイミングも絶妙だ。
いつも折り目正しい仕立ての良いシャツを着ていて、清潔感がある見た目にも一葉は惹かれた。
高野と一緒のチームになってから、一葉は「仕事って楽しい」と思うようになった。仕事中に彼が視界に入っていると嬉しくて、自然とやる気が湧いてきた。
「もしかして私、高野さんのこと…」と気づいた時には、どっぷり好きになっていた。
しかし、好きで好きでどうしようもない恋は、いつだってどうにもならないと相場は決まっている。
◆
「小山さん、この間頼んだヒアリングは終わってますか?」
不意に高野から呼び止められ、一葉の鼓動は高まる。
「はい、一応終わってるんですが、まだ企画書ができてなくて…。すぐやります」
「いや、ヒアリングまで終わってれば十分です。参考資料を後で送るから、昼休みはちゃんと取ってね」
こんな高野の小さな配慮も、一葉にはとてつもなく嬉しい。
「一葉、久しぶりにランチでもどお?」
背後から別のチームに所属する同期の桜子が声をかけてきた。
「うん、行こう」
一葉は上着とスマホを手に、桜子と連れ立って外に出た。
「高野さんと同じチームだと仕事やりやすそう。一葉、忙しそうにしてるし、安心したよ」
「え、なんで?」
安心してるという一言が引っかかり思わず聞き返した。
「いや、ほら元彼と別れて、落ち込んでたからさ」
一葉の中ではすでに遠い過去になりつつある、元彼の話が桜子の口から出たことに驚いたが、気持ちはぴくりとも動かなかった。
「この前、恵比寿で彼が彼女と歩いているところを見かけたけど、なんともないよ。だって、半年も前だよ?別れたの」
さっぱりした様子で答える一葉だが、当時は本気で退職を考えるほど、落ち込んだ。
元彼は食事会で知り合った女性に気持ちが傾いてしまい、唐突に別れを切り出してきた。
付き合った期間は、1年とちょっと。彼からの猛烈なアプローチで始まった恋愛だったが、気づいた時には一葉の方が夢中になっていた。
振られたときは、食事もとれないほど落ち込み、心配してランチや食事に誘ってくれる桜子の前で涙を流した。
そんな時、産休に入った女性の代わりに、一葉は急遽高野のチームに配属されることになったのだ。環境が変化したことや、高野という「推し」ができたことで、元彼のことは案外すぐに忘れることができた。
「ところで、来週水曜日、IT系のハイスペ男子と食事会あるけど、一緒に行かない?」
今フリーの桜子は、最近精力的に食事会を企画しているらしく、ことあるごとに一葉を誘ってくれる。
一葉は、興味が持てず、いつも断ってしまうのだが。
「ごめん、行きたいんだけど、その日はプロジェクトの打ち上げがあるんだよね」
◆
水曜日。
一葉は、出先から直接赤坂に向かった。指定されたイタリアンレストランに着くと、すでに高野をはじめ同じチームのメンバーが着席していた。
「じゃ、色々あったけど、お疲れさま。今日はたくさん食べて、飲んでね」
高野が言うと、皆それぞれ「チン」とグラスを合わせた。
「あー、最高!」
時間に遅れまいと駅から走ってきた一葉は、ピルスナーのビールを一気飲みした。
「小山は、今回ほんと頑張ったよな」
2つ上の先輩、鷺坂が調子良く一葉を褒めた。すると隣に座っていた高野も、それに同調した。
「僕もそう思います。クライアントのフォローも丁寧だし、企画段階から意向を汲み取って形にしようっていう気持ちが、ちゃんとクライアントにも伝わったんじゃないかな」
実は、高野から面と向かって褒められたことは一度もない。
「おっ!高野さんに褒められるとは!」と周りに茶化されたが、一葉は内心飛び上がるほど嬉しかった。
「いや、本当に今回は、小山さんがいなかったら、成功しなかったかもしれない」
高野から褒められ、胸がいっぱいになる。
「いえ、高野さんがフォローしてくれなかったら、頑張れなかったと思うので…」
思わず本音が漏れ、一葉はハッと我に返った。
誰かが酔った勢いで「高野さんって、奥さんとどこで知り合ったんですか?」とプライベートに突っ込む。
すると「大学の同級生」とだけ高野は簡潔に答えた。
「奥さん大事にしてそー」と新人女子が言う。
しかし、高野は何も言わないまま、「ワイン、ボトルで入れようか」と店員に向かって手をあげた。
「小山さん、赤と白。どっちがいい?」
「うーん、迷います」
不意に振られて一葉は戸惑う。
「どっちかというと白。でも、シャンパンとかスパークリングが好きです。あまり詳しくないんですけど」
「じゃあ、プロジェクトが成功した打ち上げということで、スプマンテを開けますか」
そう言うと、高野はスパークリングワインをオーダーした。
◆
3ヶ月後。
「小山さん、引き継ぎは終わった?」
高野に声をかけられ、一葉は振り向いた。
「口頭での引き継ぎは全て終わっていて、PDFの引き継ぎ資料は、クラウドにまとめておきますね」
一葉がこの会社に出社するのは、あと2日だ。
3ヶ月前、あのプロジェクトの打ち上げに参加した数日後、懇意にしているクライアント担当者と、関係のある会社から「うちに来ませんか」と一葉は声をかけられたのだ。
今の仕事に不満はないし、いい環境だと思う。
だが、一緒に仕事をする時間が増えれば増えるほど、彼の人間性を知り、好きという気持ちが溢れてくる。一葉は、いつからかこの状況を「辛い」と思うようになっていた。
高野は既婚者で、恋愛関係に発展することさえ許されない。
時計の針は12時を少し回っていた。
「高野さん、お昼でもご一緒しませんか?」
一葉は、思い切って高野をランチに誘ってみた。
最後の思い出くらい作ってもいいだろうと、数日前から声をかけるタイミングを計っていたのだ。
「いいね。でも、今日は急用で出ちゃうから、夜はどう?サクッと」
返ってきたのは、想定外の答え。
一葉が即答すると、「今日はこのまま戻らないから、場所は後で連絡します」と言って高野は出かけて行った。
夜、指定されたのは、麻布十番にあるビストロだった。
「よく来るんですか?」
「ワインが好きだから、ワイン仲間と時々集まる場所なんだよ」と高野は答えた。
料理は高野が慣れた様子でオーダーしてくれた。
「あの、今までありがとうございました。私、ちゃんとお礼を言いたくて」
「いや、こちらこそ一緒に仕事ができて楽しかった」
高野の「楽しかった」というフレーズが刺さり、一葉は思わず目を逸らす。
声に出して言いたかったのは、お礼なんかじゃない。
決して言葉にしてはならない気持ちを必死で封じようとして、一葉の頬に一筋の涙が伝った。
「参ったな…」
高野は小さく呟いた。
2人の間に沈黙が流れる。
どこかのテーブルで、ポン!とコルクを抜く音がした時、高野が言った。
「転職のお祝いに、僕の大好きなシャンパンをご馳走させて」
会社では見たことのない、優しい眼差しだった。
高野がオーダーしたのは、『ルイナール ブラン・ド・ブラン セカンドスキン』。
まるで繭のような独特の質感の紙パッケージに覆われたボトルが印象的だ。
「パッケージが素敵なので、このまま用意させていただきました。こちらのルイナールは、世界で初めてのシャンパーニュメゾンで、セカンドスキンと呼ばれるこのパッケージは、プラスチック不使用、100%リサイクル可能なサステナブルなパッケージとなっております」
ソムリエがパッケージを解くと、透明のボトルから黄金色の美しいシャンパーニュが輝いている。
それはグラスに注がれると一層、宝石のように煌めき、まっすぐな泡を立ち上らせた。
「フルーティーだけど少し香ばしい感じもして、美味しいです」
果実を思わせる酸味に程よいコクとキレがある。爽やかで上品な味わいは、高野のようだと一葉は思った。
「2年以上の研究開発を経て、このデザインが完成したらしいよ。地下38メートルにあるルイナールのセラーをイメージしていて、ボトルを皮膚のように包み込みワインを守る。
企画を立て、形にすることを仕事にしている身としては、この発想もすごいなって」
そう言うと、高野も嬉しそうにグラスに口をつけた。
― 私のために、大好きなシャンパンを…。
このワインのボトルが空くまでは一緒にいられる、高野と一緒にいられる時間が一葉には、ただ愛おしかった。
こうして同じ空間でグラスを傾ける時間は、本当に幸せで、同じくらい切ない。
ゆっくりと食事を進めながら、これまで話したことのなかったことを話題にした。大学時代のこと、好きなもの、好きな場所…。
ただ一つ、恋愛というワードを意図的に除いて。
さっきまで黄金色に輝いていた美しいボトルは、すっかりただのクリアボトルになっていた。
夢のような時間が終わろうとしているのだと一葉は思った。
「高野さん、最後にお話できて嬉しかったです。次の職場で教えていただいたことを発揮できるよう頑張ってみます」
その瞳には、小さな決心を宿していた。
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