「私、小学校から大学までずっと同じ学校なの」

周囲からうらやまれることの多い、名門一貫校出身者。

彼らは、大人になり子どもを持つと、必ずこんな声をかけられる。

「お子さんも、同じ学校に入れるんでしょう?」「合格間違いなしでいいね」

しかし今、小学校受験は様変わりしている。縁故も、古いしきたりも、もう通用しない。

これは、令和のお受験に挑む二世受験生親子の物語。

親の七光りは、吉か凶か―?

◆これまでのあらすじ
名門一貫校出身の果奈は、息子の翼を小学校から同じ学校に入れたいと考えている。翼の成長は順調。しかしお受験に必須な能力である「クマ歩き」をトレーニングする最中、果奈はぎっくり腰になってしまい…。

▶前回:お受験に必須の“あの能力”をトレーニング。息子を訓練する母が直面した、思わぬトラブル




Vol.10 夫の思惑、妻の変化


「いやー!」

車内で突然「2人目を作ろう」と言い出した光弘に向かって、果奈は叫んだ。

「なんでそんな話になるのよ」

大声が、ぎっくり腰をしたばかりの体に響く。

「だってさ、果奈は翼のとき、妊娠5ヶ月で産休に入ったじゃないか。2人目を作ったら、育児休業と合わせて1年半ぐらいは休めるだろ?」

「光弘、忘れちゃったの?5ヶ月目で休職したのは、切迫流産で通勤できなくなったから。育児休業も、休んでいるんじゃなくて、赤ちゃんのお世話をしているのよ」

光弘は、都合の良いことだけ覚えているようだ。

「それに2人目ができたら、翼は心のケアが必要になるかもしれないし、お受験どころじゃなくなるわ。赤ちゃんのお世話だって24時間続くのよ」

― お願いだから、もっと育児を理解して!

「とにかく、2人目を産んで育てながらお受験は、私にはできないわ」

「わかったよ。またこうやって母さんたちに助けに来てもらえば、できると思ったんだけどな」

光弘がため息をついて、車を発進させた。

診察を終えて病院から帰宅すると、義母が翼のお迎えから戻り、一緒に遊んでいるところだった。

吉祥寺の実家から通ってくれている果奈の母もいるので、家の中は賑やかだ。

「光弘、翼のプリント見てあげてくれる?」

果奈が頼むと、光弘が翼に向かって呼びかけた。

「翼!パパとプリントやろう。早くこっちおいで」

「やだー。もっと遊ぶ!」

ばあば2人にかまってもらってすっかり甘えん坊になった翼は、案の定嫌がった。

「いいから来い。さっさとやって、早く終わらせるぞ」

「光弘、それじゃ翼は来ないわ。きりの良いところまで遊ばせてから声かけしないと」

果奈がアドバイスすると、光弘は目を丸くして言った。

「果奈ってさあ、いつもそんなふうに翼に気を使っているの?もっと効率よく進めないと」


ほら行くぞ、と光弘が翼の腕をつかんで抱き上げる。

抱っこで子ども部屋に連れて行くことにはなんとか成功したが、中から翼の奇声が聞こえてきた。

― 手伝いたいのはやまやまだけど、動けないのよ。がんばって、光弘!

結局プリントを終えるのに時間がかかり、夕食とお風呂の間も翼はずっと機嫌が悪い。

いつもよりだいぶ遅い時間にようやく翼が眠ると、疲れ切った光弘が言った。

「果奈…俺が21時過ぎに帰ってきたときに、翼が熟睡しているのは、魔法か何かなのか?」

「違うわよ。翼なりのペースがあるの。特にあの子はこだわりが強いんだから、無理やり従わせるのは絶対にダメ」

果奈が、翼に気を使うのは当然だ。

果奈と光弘だって、お互い最低限の気を使いながら生活しているのに、どうして子どもは自分の意のままにできると思うのだろう。

「俺が甘かったよ。もっと翼のことも、お受験のこともよく知らないとだめだな。はあ、たった数時間の育児でこんなに疲れるなんて…」

光弘は、ソファに横になり、かすれる声で言った。

「俺は変わる。クマ歩きも、俺ができるようにさせてやる。それで…」

続けて何かを続けて言おうとしたが、そのまま眠ってしまった。






6月。果奈のぎっくり腰もすっかり良くなり、私立小は、学校見学会シーズンに入った。

果奈たち家族も、啓祥学園や、併願校候補の見学を申し込んでいる。

『初等部受験生ママ集まれ!』のLINEグループでは、志望校にはできるだけ多くの回数足を運び、連絡が取れる先生がいれば挨拶をするように、と言われている。

翼はまだ年中だが、LINEグループの教えに従って、見学会に参加することにしたのだ。

そして、今は校長になった恩師と会う約束も取り付けている。

「翼、今日はママも通った学校を見に行くよ。先生にもご挨拶できるんだぞ」

光弘が、スーツのジャケットに袖を通しながら言う。

育児の大変さを身をもって知った光弘は、翼にクマ歩きをマスターさせ、勉強の相談にものってくれるようになった。

ある日、光弘が明るく染めていた髪を突然黒く戻した時には、度肝を抜かれた。しかし、果奈はそんな光弘の変化を心強く思っている。

― 私たち、失礼のないようにうまくやれるかしら。

果奈は緊張していたが、久しぶりに啓祥学園の正門をくぐると、懐かしさで胸がいっぱいになった。




学校見学は、果奈が知らない若い先生が担当してくれた。

今や進学校となった母校だが、先生の熱心な説明を聞いていると、その方針転換がただの生徒集めのためだけではないことが伝わってくる。

選択授業や、課外活動も果奈の在学中よりも増えた。考える力が伸びるカリキュラムだ。

「子どもだから」という先入観にとらわれず自分で考えさせることで、選択に責任を持てるようになっていくというのだ。

結果、中学受験や留学を選択する生徒が増え、現在の進学校スタイルが出来上がったそうだ。

先生の説明を聞き、果奈は今の啓祥学園小の人気の理由が分かった気がした。

― 大学までエスカレーターで行けるっていうバリューではなくて、カリキュラムの魅力によって選ばれているのね。

広々としたキャンパスには、小学生から大学生まで皆が使える大きな図書館や温水プールがある。私立校ならではの設備に、光弘は驚いている。

見学の後、参加者たちは一同にホールに集められ、校長先生の話を聞いた。

― 先生、お元気そう!

果奈たちきょうだいを3人とも担任として受け持ってくれた男性教師。その恩師が校長になったのを機に、二世受験には厳しくなり、ペーパーの難易度が上がったとLINEグループではうわさされている。

しかし物腰柔らかな雰囲気は、果奈の記憶の中の恩師と変わりない。

話が終わり、参加者たちが三々五々帰っていくのを見計らって、果奈は声をかけた。

「先生、お久しぶりです」

「ああ!果奈さんですね。お久しぶりです。お兄さんたちも、お元気ですか?」

懐かしそうに目を細める先生を見て、果奈は一気に子ども時代に戻ったような気持ちになった。


「先生、息子の翼です。まだ年中ですが、来年の受験を考えているんです」

「そうですか。がんばってくださいね」

先生が翼に向かって優しく言う。

そして、果奈に向かって微笑んだ。

「うわさになっていると思うけれど、親子、兄弟で受験生を内々に優遇はしていません。本当に本校で学びたい子に学んでもらえるようにね」

先生の言葉に、光弘が口を開いた。

「逆に二世受験が不利になる、ということは…?」

― 余計なことを!

果奈は、笑顔を顔に張り付けたまま光弘に念を送るが、もちろん光弘は気づいてはくれない。

「有利も不利もありませんし、本校を受験するかしないかも自由ですよ。でもね、私は小学校受験をする理由、というものを全ご家庭で考えてほしいのです」

優しい先生の口調に、果奈は胸をなでおろした。

「それを考えるうえで、あなたがこの学校で学んだことが、役立つことを願っていますよ」

― 先生は、私が卒業してもなお、私を導いてくれようとしている。

先生との時間に感謝しながら、果奈は家路についた。




帰宅後、果奈はソファに座り、啓祥学園の学校案内を読んでいた。

今日先生と話して、果奈は改めて思った。

― 勉強が大変になったとしても、中学受験する子が増えたとしても、生徒への愛情は昔と変わらない。私、啓祥学園で学んでやっぱり良かった。

学校案内のページをめくっても、果奈が知っている啓祥学園はそこにはない。

でも、学校が最も大切にしていることは、脈々と受け継がれているのだ。

「翼、寝ちゃったよ。…啓祥学園、良い学校だったな。設備はもちろんだけど、先生方が真剣に子どもと向き合っているのが伝わってきた」

光弘が果奈の隣に座った。

果奈は、他の学校のパンフレットを次々と開いて言った。

「そうね。でもこの学校も、ここも…。みんな子どもの健全な成長と幸せを願っているのよね。それぞれ特色は違うけれど」

「そうだな」

光弘も学校案内を手に取る。

「私ね、翼が翼らしくいられる小学校に行ってほしい」

お受験まであと1年と少し。翼には、いろいろなことを学んで、じっくり考えてほしい。

翼には、それができると果奈は信じている。

すると光弘が、果奈の目を見て問いかけた。

「果奈。それって、啓祥学園にはこだわらないっていうこと?

…例えば、翼が啓祥学園を選ばなかったり、やっぱり公立に行きたいって言ったりしても応援できる?」

果奈の心は決まっていた。

「もちろん!」






あっという間に季節は夏になり、再び受験シーズンが来ようとしている。

幼児教室では、受験前特有の殺伐とした雰囲気が漂っているが、果奈は何かが吹っ切れたようなすがすがしい気持ちでいた。

― 翼の受験まであと1年。この1年で、この子らしさを思い切り伸ばす!

啓祥学園の合格を勝ち取るために一つひとつ駒を進めるようにこなしていた、今までの幼児教室通い。

でも今は、果奈もまだ知らない翼の無限の可能性にかけよう、という新しい目標ができたのだ。

果奈が啓祥学園出身であること。

それはお受験という場に身を置く限りは無視できない事実だろう。

でも、それを気にし過ぎていたのは、果奈自身だ。

― 私は啓祥学園で学んだことを誇りに思っている。でも、それと翼は関係ないわ。

「さあ、翼、思いっきり楽しんでいらっしゃい」

果奈は翼の髪をなでながら言うと、笑顔で幼児教室の授業へと送りだした。

▶前回:お受験に必須の“あの能力”をトレーニング。息子を訓練する母の身に、まさかのトラブルが

▶1話目はこちら:「この子を、同じ学校に入れたい…」名門校を卒業したワーママの苦悩

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ようやく気持ちが吹っ切れた果奈。いよいよお受験本番が現実味をおびて…