ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。

貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?

特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。

きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。

これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。

▶前回:患者に恋心を抱いた女医。でも彼には恋人がいて…。彼女と別れさせるために、女がとったまさかの行動は




Vol.7 隆史(28歳)記憶に残る、ビタースウィートなコーヒーの香り
Valentino「ヴァレンティノ・ウオモ」


― 渋谷の街もすっかり変わったなぁ。

そんな月日の流れを感じながら、僕は、時折ひとりBunkamuraのオーチャードホールへ行く。

子どもの頃、一度は憧れた芸術の世界。その道で生きることを手放して大人になったが、音楽やバレエを鑑賞することで、芸術とのつながりを絶やさぬようにするためだ。

ピアニストの父と舞台女優の母を持ち、音楽や芸術に囲まれて育った僕は、ダンサーになることを目指していた。

しかし上智大学に入り、同級生たちの就活の熱気にのまれ、“良い就職先”として人気のあった製薬会社にあっさりと入社を決めたのだ。

日本橋の製薬会社に勤めて6年目、今年で28歳。

今はダンスとまったく関係のない仕事をしているが、自分にはそれが合っていたように思う。

Bunkamuraからオーチャードロードに出ると、甘い香りが鼻をくすぐった。『ブラッスリー ヴィロン』の店先で焼いているクレープの香りだ。

― VIRONでコーヒーでも飲んで行くか。

僕は、渋谷の中心にありながらパリの雰囲気を感じられる『ブラッスリー ヴィロン』の気取らない店構えが好きだ。

文化村通りに面した1階はクロワッサンが美味しいブーランジェリー。右手奥の階段を上がると2階はブラッスリーになっていて、食事やカフェが楽しめる。

普段は1階でパンをテイクアウトすることが多く、2階へ上がるのは久しぶりだ。

「ブレンドを1つお願いします」

クレープの甘い香りに包まれながら店の奥へと進み、席についてコーヒーをオーダーした。

― この隠れ家のような雰囲気。昔、誰かの手を引いて階段を上がった気がする…。


『ブラッスリー ヴィロン』には、ひとりで立ち寄ることがほとんどで、いま頭をかすめた記憶がいつのものなのかわからない。

しかし僕はその瞬間、胸が高鳴るのを感じた。

― この甘い香りはチョコレート…いや、ヌテラか。

ヌテラとは、フランスで日常的に親しまれているヘーゼルナッツ風味のチョコレートクリームのことだ。両親のヨーロッパ出張が多く、お土産にヌテラを買い込んでくるので、幼い頃から僕の家では朝食の定番だった。

「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」

ヌテラに懐かしさを感じていると、コーヒーが運ばれてきた。

ヘーゼルナッツとチョコレートの香りが、コク深いローストコーヒーと絡み合う。ビターの先に通り抜けたのは、甘やかで凛とした香り。

― このヌテラとコーヒーの香り…。奈々だ。

僕は“ある女性”のことを思い出した。




奈々との出会い


10年前、僕と奈々は上智大学のダンスサークルで出会った。

新歓シーズンも終わった5月半ばのある日、奈々がひとり練習場所へやってきたのだ。

「あれ、今日から入部?」
「そう。授業選択に夢中で、出遅れちゃって…できるだけたくさん、語学の授業を聴講できないか先生たちに掛け合ってたの。はじめまして、奈々です」
「僕は隆史といいます」

― 真面目だなぁ。このサークルにはいないタイプだ。

さらに話を聞くと、奈々は踊ることに興味はないが、音楽とダンス鑑賞が好きという理由でサークルに興味を持ったらしい。

そんな彼女は同級生になかなか馴染めないようで、端の方でダンスを見ながら音楽を聴いたりノートに何か書いたりして時間を潰していた。




輪の中心にいる僕と、輪の端にいる奈々。

接点は無いように思われたが、夏休みを前にして、僕は彼女に救われることになる。

僕が何度も欠席してしまい単位を落とすだろうと諦めていた「国際経済学」のノートを貸してくれたのだ。

「ノートありがとう。奈々ちゃんのおかげで単位取れそうだよ」
「それは良かった」
「本当にありがとう!お礼がしたいから、食事でもどうかな?」

彼女のノートは参考書よりもわかりやすく、試験を無事パスした僕は彼女をお礼の食事に誘うことに成功した。



ダンス以外で僕たちの共通の趣味は、食だった。

最初の食事は、『エリオ・ロカンダ・イタリアーナ』。老舗なら間違いない、と選んだイタリアンレストラン。

女の子とふたりきりの食事に、格好つけたい気持ちもあった。そんな若い僕の見栄を温かく見守り、きちんと応えてくれた素晴らしいレストランだった。

次の食事は、奈々のリクエストで『カナルカフェ』へ行った。彼女は水上に浮かぶこのカフェにたまにひとりで来ていたが、レストランの方に行ってみたいと思っていたらしい。

デッキサイドのカフェではなく奥のレストランへと案内されたとき、なんだか大人の恋人同士のような気分になり妙に照れくさかった。

僕と奈々は恋人同士ではないが、カップルのように扱われることに心地よさを覚えていた。




お金がないながらも、社会勉強として良いレストランへ食事に行き、ちょっとだけ上質な料理をいただく。

サークル外で会ううちに僕と彼女の距離は近づいた。

奈々がみんなのいる場に姿を見せることは少なくなっていたが、僕たちはサークル内公認の仲良しとなっていた。

みんなが彼女のことを「奈々ちゃん」と呼ぶが、僕だけが「奈々」と呼ぶ。

そんな小さな違いが僕をいい気分にさせた。

ふたりで並んで歩く時、心地よい香りがして尋ねたことがある。

「奈々って、なんか独特な甘い香りがするよね」

「実は、香水なの。わたし甘いものが大好きだから、いつも甘い香りをまとっていたくて」

「いつもお菓子ばっかり食べてるから、いい匂いがするのかと思った」

「さすがに違うよ!でも隆史が言う通り、家でお菓子ばかり作ってるのは本当。いつかパティシエになりたいと思ってるんだ。本気でね」

「いいじゃん!奈々が作ったお菓子、食べてみたい。でもさ、奈々の香りって甘いだけじゃないよね。芳ばしいというか…スパイシーで苦いような複雑な香り」

「グルマン系の香りが好みなんだけど、人と被りたくなくて。メンズの香水なの。めずらしいでしょう」

僕たちは、そうやって、ふたりだけの思い出をたくさん作った。

でも――

「将来の夢を叶えるために頑張りたいから、誰かとお付き合いするつもりはないの」

彼女にそう言われてから、僕たちに“付き合う”という選択肢はなくなった。



クリスマスが過ぎ、桜が新緑に変わり、2度目の夏休みを迎えた頃。

僕は秋のダンスイベントの全体構成を任され、連日頭がダンスのことでいっぱいになり、奈々と会う機会が自然となくなった。

そして、イベント当日も、彼女は会場に姿を見せなかった。

打ちあげの場で僕は電話をしてみたが、つながらない。数少ない彼女の連絡先を知る同級生も、LINEの返事がないと言っている。

それから何度か連絡を試みたが、彼女から返事がくることはなかった。


半年後、奈々とクラスが一緒だったという女子から、彼女が人間関係と進路に悩み、大学を退学したことを聞いた。

「授業が自分の夢と直結しないから、時間がもったいないって思ったんだって。それにあんまり友達もいなかったみたいだし…」
「そっか…」
「気まずいから隆史にも連絡しづらい…みたい」

退学後もバイトに明け暮れ、お金を貯めて海外へ行くとかで、いつしか連絡がつかなくなってしまったとその学生は言っていた。




ここにいると、そんな学生時代の記憶が一気に蘇ってくる。

初めて『ブラッスリー ヴィロン』に来た時に、手を引いて階段を上がったのは奈々だ。

この独特な香気は、8年越しの記憶を蘇らせるのに十分なインパクトだった。甘くて苦い、唯一無二の香り。

― そうだ。奈々はパティシエになりたいと言っていた…。

この香りの正体が気になり、手元のスマホでそれらしい香水を検索する。

『ヴァレンティノ・ウオモ』

ミドルノートに、ジャンドゥーヤクリーム、ローストコーヒーとある。これ以外に当てはまる香水はなさそうだ。

記憶を辿ることができた嬉しさを胸に、まだ温かいコーヒーを甘い香りと共にすする。

― 奈々は今、どうしているのだろうか。

香りはこんなに近くにあるのに、彼女はここにいない。そして簡単には会えないだろう。なにせ行方不明なのだ。

大学仲間のなかで、彼女の行く末を知る者はいない。最後に聞いたのは、どこか海外へ行ったらしいという話。

― あれから8年経った。もしかすると、日本にいるかもしれない。少なくとも、世界のどこかに…。

スマホをもう一度手に取り、Instagramを開く。思いつくままに香水の名前を検索する。

#ヴァレンティノウオモ
#valentinouomo
#valentinoperfume

次々と出てくる無数の投稿写真に、奈々の手がかりを探した。

無謀なことはわかっている。しかし、僕がこの香りに導かれて奈々を思い出したように、ここに彼女のヒントがあるような気がしたのだ。

そして、見覚えのある水上レストラン『カナルカフェ』でコーヒーを飲んでいる女性の写真を見つけた。

― これって…!奈々!?

出てきたのは、ヴァレンティノ・ウオモを愛用する香水として紹介している、フランス・ストラスブールの街並みと、素朴で愛らしいお菓子の並んだアカウント。




控えめに写る女性の横顔は、まぎれもなく8年前にこの香りをまとい僕の隣を歩いていた彼女だった。

僕は、コーヒーの最後の一口を飲み込みながらDMを送り、『ブラッスリー ヴィロン』を後にした。



あれから2週間が経った。僕はまた、渋谷の『ブラッスリー ヴィロン』へ向かっている。

今日は、DMを送った相手と僕の待ちあわせの日だ。

行方不明だった女の子。ストラスブールから帰ってきたばかりの女の子。夢を叶えた女の子。

僕と彼女は恋人同士ではないが、互いに再会を楽しみにしている。

▶前回:患者に恋心を抱いた女医。でも彼には恋人がいて…。彼女と別れさせるために、女がとったまさかの行動は

▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実