木野瀬凛子、31歳。

デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。

張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

甘いひとくちをほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。

◆これまでのあらすじ

大手広告代理店営業部に勤める木野瀬凛子、31歳。彼氏の昌文の誕生日にディナーを予約するもドタキャンされ、代わりに後輩・美知を連れて行く。ディナーのあと、昌文に直接お祝いだけは伝えようと、マンションの前まで行くが…。

▶前回:彼の誕生日祝いに、ディナーを予約したのに。当日夕方に届いたのは一通のそっけないLINEで…




Vol.4 思い出あふれるレアチーズケーキ


昌文のために誕生日祝いのディナーを予約していたのに、「仕事が入ったから今日会えない」とドタキャンされた。

せっかくだし深夜でもいいから会いたいと思うのだが、連絡がつかない。

思い切ってマンションの前まで来た凛子は、耳慣れた声がするのに気づいた。

「ははは…そりゃあー、大変だったなあ」

昌文の声だ。

酔ったとき特有の、大きくて間延びした声。どんどん近づいてくる。

― 誰かと電話でもしているのかしら。

声がする方に視線をやった凛子は、思わず駆け出し、マンションの前の植木の陰に逃げ込んだ。

昌文は、女性を連れていた。

若くて華やかなその女性の腰に、なんと手を回している。

「な…」

隠れてその様子を見ていると、2人はエントランスを抜けて、マンションに入っていった。

― うそでしょ…。浮気ってこと?

疑問符だらけで立ち尽くす凛子をよそに、自動ドアが容赦なく閉まる。

寄り添う2人の背中が、オレンジのライトに照らされて煌々と光っていた。

― 今夜は昌文のためにディナーを予約して、誕生日プレゼントも用意してあるのに…。

混乱した感情が、ぐるぐると渦巻いている。


今の感情が世にいう「嫉妬」なのかどうか、凛子にはわからなかった。

― でもこの感情、知ってる…。

クライアントが各広告代理店を集めて開く「競合コンペ」。

その競合コンペで負けてしまったときとほとんど同じ感情だと、凛子は思った。

― 傷ついたというより、悔しい…。

金曜23時すぎの赤坂。

もう帰ろうと、トボトボ歩き出した。



1週間が経った、週末のお昼前。

凛子は今、昌文の部屋で悶々としていた。

― 今日は昌文に、あの夜の真相を聞かなくては。

昌文のために用意した誕生日プレゼントは、未だ渡せずじまいだ。

「凛子、じゃーん」

不貞の現場を見られたとはつゆほども知らない昌文は、『西洋菓子 しろたえ』の箱を、テーブルに置く。

「先週はドタキャンしてごめんな。急な仕事だったんだ。このケーキは、お詫びのしるし」

ここのレアチーズケーキは、凛子の大好物だ。

しかし「開店と同時に並んできた」と自慢げな様子の昌文に、凛子が向ける視線は冷たい。

― 仕事…?あれが?

若い女性の腰に回していた手と、上機嫌な昌文の声が、凛子の網膜と鼓膜に焼き付いている。

「なんだよ凛子…。もしや、俺がドタキャンしたことをそんなに怒ってるの?」

昌文は、凛子の目の前の椅子に座った。




「仕事だったんだから仕方ないだろう。え、そんなことで怒る子だったっけ?」

「別に…」

どうやって聞きだしたらいいのか。考えながら、昌文を睨む。

「なんだよ、せっかくケーキ買ってきたのに、ちっとも嬉しそうじゃないな。

なあ。この業界、プライベートの予定を仕事でドタキャンするなんて、よくある話じゃない」

昌文は、いかにも面倒そうな表情だ。

「そんなふうに拗ねるなんて、らしくないよ?」

昌文は、小さい子どもを諭すように凛子を覗き込む。

凛子はなんだかゾワッとしてきて、カバンを持って玄関に向かった。

「おいおい。凛子、どうした?」

急いで靴を履き、外に出て、エレベーターホールに移動する。

昌文が追いかけてくるのではないかと思ったが、彼は来なかった。

代わりにLINEが入る。

『昌文:どうしたの?今日の凛子、面倒だよ』

不当なダメ出しだ。凛子はたまらず、LINEをすぐに返す。

『凛子:誕生日の夜、部屋で誰と過ごしてたの?』

エレベーターを降りたタイミングで、昌文から電話がかかってきた。

「凛子、戻ってきてよ。俺は誰とも過ごしてない、仕事だって言ったろ。

どうして疑うのさ?」




電話越しの昌文の声は、まったく動揺していないように感じられる。

― 演技力あるわ。きっとこういう修羅場を、何度も経験してきたのね。

どこか関心しながらも、凛子は冷たい声で言い放った。

「知ってるから、隠さなくていいのよ。女の子とマンションに入っていくのを、私、見たんだから」

「え、なんで、いや…。あれは仕事関係の子だよ。悩んでいるらしかったから、相談に乗るよって」

「マンションの部屋で、相談?」

「そうだよ。それに決して2人きりで過ごしたわけじゃない。俺らの他にもう3人…テレビ局の人とかもウチに来た」

凛子は呆れる。変な言い訳をつらつら並べられても、萎えるばかりだ。

「でも昌文は、女性の腰にべったり手を回してたよ」

凛子がとりわけ冷たい声を出すと、昌文はようやく「ごめん」と言った。

それから、本当のところを白状し始める。

「あの夜は会食だったんだ。テレビ局の編成局長…ホントに大事な相手に誘われたから、OKせざるを得なかった。

凛子がレストランを予約してくれてるのは知ってたから、本当に申し訳ないと思ったけど…」

凛子は、電話越しに無言でうなずいた。急な会食については、仕方ない。

広告代理店の人間には、プライベートを投げ出してでも得意先のもとに駆けつけるという美徳がある。

「…それはいいわ。で、あの女の子は?」

凛子は核心に踏み込む。


「あの子は…会食の場にいた、俳優の女の子だ。

会食にいたテレビ局のプロデューサーが、急に呼んだんだよ」

「昌文が口説いたの?」

「まあ…そういうことになる」

いよいよ歯切れが悪くなってきた昌文の声に、凛子は肩を落とした。

この2年間、昌文とは平和にやってきたつもりでいた。けれど昌文は、日常的に遊んでいたのかもしれない。

― 昌文が、昔は遊び人だったって噂は、知っていたけど…。

でも昌文も、もう41歳。

遊びたい欲もおさまって、自分とは真剣に交際をしてくれているのだと勘違いしていた。

「呆れたわ」

凛子の冷ややかな声に、昌文が息をのんだのがわかった。

「ごめん。でもワンナイトであって、本気ではないんだ」

「…そんなの、相手の子に失礼でしょう」

「いや。あの子だって、別に俺を本気にさせたいなんて微塵も思ってないよ」

確かに、そういうことはよくある。

業界に顔が利く昌文と知り合うことで、俳優として何らかのメリットを狙ったのかもしれない。

「わかるだろ。ワンナイトしたことは謝るよ。でも、凛子を大事に思う気持ちは変わらない」

昌文は早口になっている。

「ああいう女性は、そう、スイーツみたいな存在なんだ。

いつも凛子への気持ちがメインだよ。食い合うものじゃない」

白々しいことを言う。




「あのさ、昌文」

「はい…」

「そんな気持ち悪い説明に、スイーツという言葉を使わないでください。反吐が出そうです」

凛子のピシャリとした敬語は、しばらくの沈黙を招く。

「別れましょう」

「待ってよ、凛子、俺は…」

「今までありがとうございました。今後仕事で関わることがあれば、特別によくしてくださいね」

電話を切ると、昌文は間髪入れずに着信を入れてくる。

うっとうしく思って私用スマホの電源を切ってしまうと、今度は社用スマホに電話がかかってきた。

「ああ、惜しいことをしたな…」

今凛子が名残惜しく思うのは、ケーキだ。

『西洋菓子 しろたえ』のレアチーズケーキ。

1日500個売れる日もある絶品のケーキに手を付けずに、昌文の部屋を飛び出してきてしまった。

― 箱ごと奪ってくればよかった。

昌文のマンションからお店までは徒歩5分ほど。凛子は、決意する。

「自分のために、買いに行こう」



南青山の自宅マンションに帰った凛子は、ケーキが入った箱をテーブルに置く。

20分ほど並んで、無事にゲットできた。

そっと取り出してお皿に乗せると、無垢な白が光を放つ。




「いただきます」

一口食べると、濃厚なテクスチャーが舌を包み、爽やかな酸味が広がる。

そのあと、ほのかな甘みが到来して、心をほぐした。

ふと凛子の目に、涙が滲む。

このレアチーズケーキは、昌文との思い出の味なのだ。

凛子がディレクターに昇進したから。凛子の風邪が治ったから。凛子の実家の犬が子どもを産んだから…。

いろいろな理由をつけて昌文は、このケーキを買ってきてくれた。

「凛子は、甘いものを食べているときが一番幸せそうだなあ」という昌文の声が、ぼんやり蘇る。

― だめだ、さみしい。けど、なんて美味しいの…!

さみしいけれど、取り乱すほどの怒りや悲しみではないのだ。

案外、別れをスッと受け入れられる。

やはり自分は、まだ本当の恋愛を知らないのかもしれない。

そう思いながら、ケーキに意識を集中させた。



2週間後。

得意先の大手食品メーカー広報部・秋坂との商談で、凛子は驚きの声をあげていた。

「ええ?本当ですか…」

▶前回:彼の誕生日祝いに、ディナーを予約したのに。当日夕方に届いたのは一通のそっけないLINEで…

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凛子が驚いた、秋坂からのある「お知らせ」とは