東京に行って、誰もがうらやむ幸せを手に入れる。

双子の姉・倉本桜は、そんな小さな野望を抱いて大学進学とともに東京に出てきたが、うまくいかない東京生活に疲れ切ってしまい…。

対して双子の妹・倉本葵は、生まれてからずっと静岡県浜松市暮らし。でもなんだか最近、地方の生活がとても窮屈に感じてしまうのだ。

そんなふたりは、お互いに人生をリセットするために「交換生活」を始めることに。

暮らしを変えるとどんな景色が見えるのだろう?

29歳の桜と葵が、選ぶ人生の道とは――。

◆これまでのあらすじ

葵は、料理教室の講師・平野涼平のことをどんどん好きになってしまう。しかし、涼平には生活を援助してくれる年上の女性・理子が存在し…。

▶前回:「好きだけど…別れよう」そう決心し、東京行きの新幹線に乗ろうとしたとき。ホームに現れたのは…




Episode14:倉本葵@静岡。新たな人生への第一歩


『葵:今までどうもありがとう。今日の午後、浜松に帰ります』

爽やかな初夏の朝。私は、平野涼平にメッセージを送った。

― もう、会うこともないんだろうなぁ…。

あの事件から、会うことも連絡をとることもなくなってしまった私たち。

料理教室の講師をしている涼平と過ごしたのは、たったの2週間弱だ。

だけど、東京で彼と過ごした日々は刺激的で、楽しくて、私の脳裏に濃く焼きついている。

涼平の部屋で理子に鉢合わせなかったら、私たちはどうなっていただろう。

そんなことを考えながら私は、3ヶ月間お世話になった桜の部屋を出た。

季節は、夏になろうとしている。青々とした葉が美しい桜の木を横目に、スーツケースを持って中目黒駅まで歩き、東横線に乗った。

ようやく乗り慣れてきた東京の電車、テレビでしか見たことがなかった目黒川沿いの桜。

SNSでバズっていたカフェやレストラン。一生手にすることないと思っていたハイブランドのバッグ。

それが経験できただけでも、東京に来て良かった。

涼平とのことは、浜松に着いたら忘れよう。

そうすれば、この胸のモヤモヤもやがて消えていくはずだ。


日吉駅で乗り換えて、JR横浜線で新横浜へ向かう途中、頭の中を整理していた時だった。

『涼平:葵ちゃん!何時の新幹線で帰るの?』

― …!

涼平からメッセージが届いた。

認めたくないけれど、彼から連絡が来るのが嬉しくて、私はつい発車時刻を教えてしまう。




『涼平:わかった!』

― わかった。って、それだけ?

私はちょっとがっかりしながら、スマホをバッグにしまった。

新横浜駅に着き、崎陽軒のシウマイ弁当とお茶を買って、新幹線のホームに向かう。

涼平から電話がきたのは、その時だった。

「葵ちゃん、今どこ?」
「どこって…新横浜駅だけど」

そう答えながら歩いていると、目の前に涼平が現れた。

「涼平さん、どうしてここに?」
「どうして、って時間を教えてくれたから」

涼平が笑顔で言うので、胸の奥が熱くなった。

「でもごめんね。僕、一緒に浜松には行けないんだ。東京でやらなくちゃいけないことがまだ残ってて」
「うん…」

私は小さな声で言いながら、うつむく。

すると、涼平は私の両肩にそっと手を置いて、そのまま抱きしめた。

そして、その体勢のまま話し始めた。

「理子さん…あ、この間葵ちゃんと鉢合わせた女性ね。僕、あの人の部屋から出たんだ」
「…そう」
「今は、友達の家とホテルに泊まってる」

そう言って涼平は私を体から離し、理子に援助してもらうことになったいきさつを、教えてくれた。

理子は、もともと彼の料理教室の生徒だったこと。
美容系の会社を経営していること。
精神的にも金銭的にも余裕のある女性だったから、つい甘えてしまったこと。

そして私が想像したように、男女の仲になったことも…。




わかってはいたけれど、言葉にして聞かされるとそれなりにダメージが大きかった。

「でも、心は全く理子さんに動いていなかったんだ。だから、お互い利用し合っていたと言うのが正しいかもしれないね」
「そうなんだ」
「それでね。今から言うことは、僕の自己中なお願いなんだけどさ…」

私は、涼平の“お願い”を静かに聞いていたが、すぐにはうなずけなかった。

「…」
「僕は本気だから。葵ちゃんの答えを待ってます。じゃあ、気をつけて帰ってね」

そうこうしている間に、新幹線の発車時刻が近づいてきてしまった。

「うん。お見送りありがとう」

私は涼平が見えなくなると、イヤホンをつけて好きな音楽を流し、目を閉じた。


2ヶ月後


「葵、いい部屋が見つかってよかったねぇ」
「うん。内見に付き合ってくれてありがとう」

私は、桜と代官山の『いっさい喝采』に来ている。

3ヶ月間の交換生活、2ヶ月間の浜松暮らしを経て、私はこの夏からふたたび東京で暮らすことにしたのだ。

新居に選んだのは、桜の家がある中目黒からも近い、池尻大橋。

仕事は、表参道にある美容皮膚科の内定をもらい、再度、看護師として働くことが決まった。




美容マニアの桜が、雰囲気の良さそうなクリニックをいくつか教えてくれ、その中から選んだのだ。

何もかもが順調だった。

唯一面倒だったのは、浜松に帰ったときに元夫から何度か連絡があったことだ。

メッセージは無視していたが、「ヨリを戻したい」と言っていることが、友達伝いに判明した。

私と離婚する原因になった若い彼女には、他にも遊んでいる男が何人かいて、それが原因で早々に別れたらしい。

今はギャンブルとお酒に溺れ、絵に描いたような自堕落生活を送っているようだ。

彼の友達からは、「彼を助けてあげてほしい。救えるのは葵だけだ」と言われた。

聞きたくもない情報が、仲間を通じて勝手に耳に入ってくる。

― こんなのもう嫌だ…。

それが、東京行きを決めた一番のキッカケだった。

「ねぇ桜。3ヶ月間も浜松にいたのに、ここでもうなぎの白焼き食べてるの!?」
「向こうで久しぶりに食べたらハマっちゃって。引っ越し祝いだし、日本酒も飲もうっ!」




桜は、浜松からやってきた優馬と同棲を始めた。

双子の勘だがおそらく、近々結婚するだろう。今では、なんの妬みもなく心から祝福できる。

なぜなら、私も新しい恋を始めているから。

「ねぇ、葵。涼平くんは?まだ?」
「仕事が長引いたみたいで…でも、もう来るって」

桜にLINE画面を見せながら、私は言った。

浜松に帰ったあの日、涼平に“お願い”されたのは、「葵ちゃんに東京に住んでほしい」だった。

「本当はすぐにでも一緒の家で住みたいけれど、それはきっと難しいだろうから、せめて近くに住みたい」

涼平は、そう言ってくれた。

今は、料理教室の回数を増やし、さらにはイタリアンレストランでアルバイトも始めたらしい。

今日も、早番で働いていると聞いている。

「ごめんなさい。遅れました!」

桜とお酒のメニューを見ていたら、涼平が息を切らせながらやってきた。

「全然、待ってないですよ。おつかれさまですっ」

桜が笑顔で答え、3人でビールで乾杯した。

私が東京に住むことになるなんて、今でもまだ信じられない。

だけど、隣には桜がいて、そして涼平もいる。この現実が、私は嬉しくて幸せだった。

「はい!涼平くんに質問です。葵のどこが好きなの?」

すでにほろ酔いの桜が、涼平に聞く。

「せっかくだし、真面目に答えましょうか。葵ちゃんは、いい意味で普通なんです。自分の感情に素直だし、計算高くもないし、顔もナチュラル」

「何それ〜。“いい意味で”って言えば、何でもいいと思ってない?」

私が口をとがらせると、桜がフォローする。

「いやいや、涼平くんは葵のことめちゃくちゃわかってるし、褒めてるよ。世の中には、いくら顔に課金しても可愛くなれない人もいるからね」

相変わらずの桜の毒舌に苦笑しながらも、私は、この瞬間がずっと続けばいいのにと思った。

間違いなく、人生で今が一番楽しい。

学生の時からの彼氏と結婚し、なんとなく夫婦関係を続け、地元に住み続けるのが私の人生だと思っていたから。

それ以外の世界を、知らなかったから。




でも今ならわかる。その時の自分は、心から笑っていなかったと。

「じゃあ、そろそろ帰りますか?」
「そうだね」

私たちは会計を済ませ、店を出た。

涼平が今住んでいるのは、三宿寄りの三軒茶屋だ。そこから近いエリアを探して、私は池尻大橋のマンションを新居に選んだのだ。

タクシーで帰った桜を見送り、私たちは渋谷駅まで歩いてから田園都市線に乗り、自宅を目指した。

理子のマンションを出た後の涼平は、タクシーさえめったに乗らなくなった。

「あ〜楽しかった。桜ちゃんに会えてよかったよ。今一番会いたい人だったから」

渋谷駅のホームで電車を待っている途中、涼平が言う。

「どうして?」
「だって、葵ちゃんと桜ちゃんと交換生活してなかったら、僕たち出会えてないもんね」

この人はどうして、こんなに私を喜ばせてくれるのだろう。

そう思ったら、隠し事をしていることが申し訳なくなった。

「あのさ、涼平…。隠していたわけじゃないんだけど、私結婚してたことあるんだ。ずっと黙っててごめん」
「それなら、さっき聞いちゃった」
「え!?」

― おかしいな、言った覚えはないんだけど…。

私が戸惑っていると、涼平が言う。

「葵ちゃんがトイレに行ってる間に、桜ちゃんから聞いたの。離婚ってさぁ、結婚より大変っていうよね…今はもう大丈夫?」
「うん。ありがとう」

引かないどころか、私の心情を気にかけてくれる優しさに泣きそうになった。

「あっ!!やばい。これ急行じゃん。三茶まで行っちゃうわ」

電車のスピードが速くなると、涼平の手にぐっと力が入り、それが私にも伝わる。

話しながら電車に乗ったので、急行か各停かちゃんと見なかったのだ。私たちは、自分たちが情けなくて笑ってしまう。

「じゃあさ、三茶でちょっと飲んでく?」

私が提案すると、涼平は私の手を握ったまま「いいねぇ」と答えた。

タクシーで帰ったほうが安上がりだっただろう。だけど、それでも飲みに行ってくれる涼平が私は大好きだ。

きっと払わせてくれないだろうけど、今日は私がご馳走しよう。

そんなこと思いながら、私は涼平の手をぎゅっと握り返した。

Fin.

▶前回:「好きだけど…別れよう」そう決心し、東京行きの新幹線に乗ろうとしたとき。ホームに現れたのは…

▶1話目はこちら:婚活に疲れ果てた29歳女。年上経営者からもらうエルメスと引き換えに失った、上京当時の夢