ただ時間を知りたいだけなら、スマホやスマートウォッチでいい。

女性がわざわざ高級時計を身につけるのには、特別な理由がある。

ワンランク上の大人の自分にしてくれる存在だったり、お守り的な意味があったりする。

ようやく手にした時計は、まさに「運命の1本」といえる。

これは、そんな「運命の時計」を手に入れた女たちの物語。




Vol.1 南(34歳)お受験ママの必需品!?
Rolex「カメレオン」


「南、そろそろ出ないと、間に合わないよ」

土曜日の朝、夫の純司に声をかけられ、南は急いで支度をする。

小学校から私立育ちの夫が「菜乃花(なのか)にお受験させたい」と言い出し、年中の娘をお教室に通わせるようになってから半年が経つ。

飲料水メーカー勤務の南は、平日は仕事があり、お教室に通えるのは週末のみ。

今日も、せっかくの休日だというのに、朝からお教室がある。

娘の菜乃花は、すでにお着替えを済ませ、リビングで静かに絵本を読んでいる。

車で送ってくれるという純司は、時間が気になって仕方がないらしい。

「ごめんね。もう準備できるから」

純司に急かされ、とりあえず目についたジャケットを羽織る。

DRAWERで買ったネイビーのパンツに、サマーツイードのジャケット。長い髪を後ろで軽くまとめ、充電器からApple Watchを手に取ったところで、南はため息をつく。

― はぁ…。娘のためとはいえ、憂鬱だなぁ…。

広尾にある幼児教室は、評判を聞いた夫の純司が「ここにしよう」と決めた。

しかし、自宅のある武蔵小杉からは遠いし、周りのママたちは渋谷区や港区在住の人がほとんど。

なんとなくだが、生活スタイルに差を感じている。

― お教室は、うちの近所にだってあったのに…。

小中学校を公立校で過ごした南にとっては、初めて足を踏み入れる小学校受験の世界。

今さらだが、お教室選びに関与しなかったことを南は後悔している。

お教室に着くと、教室の後ろに並べられたパイプ椅子の半数が母親たちで埋まっていた。

レッスンの間中、母親たちはパイプ椅子に座って見学し、メモを取ったり、注意深く子どもを観察しなければならない。

しかし、南を憂鬱にさせるのは、こうしたお受験そのものではない。


憂鬱の原因は、お教室にいる母親たちの服装や持ち物。

南は同じ母親たちの身につけているものが、気になって仕方がない。




「菜乃花ちゃんママ、こんにちは。お隣、いいかしら?」

「ええ、どうぞ」

声をかけてきたのは、菜乃花が仲良くなった由奈ちゃんのママ。

彼女は、エルメスのボリードから手帳を取り出すと、椅子の下に無造作にバッグを押しやった。ネイビーのジャケットの袖口からは、ピンクの文字盤のロレックスが覗いている。

お教室の日は、「お母様も上品できちんと感のある服装で」と先生から言われている。だが、服装だけではなく、バッグや時計などにも暗黙のルールがあるように南は思う。

バッグの色は黒。それもエルメスのケリーやボリード、バーキンを持っているママが多い。

いきなりお店に行ってもエルメスのバッグが買えないことくらい南だって知っている。なのに、お教室にいる十数名ほどの母親のうち、半数がエルメスを携えているのだ。

そして腕には、ロレックス、カルティエ、エルメスなどの華美ではないが品のある高級時計をつけている。

それらが、お受験ママが備えるべき品格を形作るとでもいうように。

― エルメスのバッグは無理でも、私も時計くらいはいい物が欲しいな…。

だから、南は最近、今まで無関心だった腕時計に興味を持つようになった。



「今日はどうだった?」

夜、純司が、絵本の読み聞かせを終え菜乃花を寝かしつけたあと、リビングに戻ってきた。

「縄跳びはいきなりできるようにならないから、毎日練習してくださいって」

「ペーパーの出来はいいけど、菜乃花は運動が少し苦手だよな」

純司がパントリーから赤ワインを取り出し、南の向かいに腰を下ろす。




「これから日が長くなるから、仕事終わって帰ってきてから少し練習させるね。

それと、ちょっと相談があるんだけど…」

南は、夫に腕時計のことを話してみることにした。

「ちゃんとした腕時計が欲しいの。実は、お教室のママたち、みんな持ち物にお金をかけていて…」

南は、自分も服装には気をつけているつもりだが、結構な割合で母親たちがエルメスのバッグや高級時計を所有していることを、打ち明けた。

「もしかして、これ持ってなきゃ受からないのかも?なんて思っちゃうくらい」

南が自虐的に笑う。

「で、どこの時計が欲しいの?」

「えっと、できればロレックス…。お受験スーツの袖口からちらっと見えた時の存在感が違うような気がする」

南は、ダメ元で憧れのブランド名を口にした。すると、純司から予想外の答えが返ってきた。

「まあ、俺も若い頃買ったロレックスをいまだに使っているし、長く使えるから持っていてもいいかもな」

「えっ、いいの?」

表情を一変させた南を見て、純司はおかしそうに笑った。

「時計を買うことで、南が自信を持って受験に挑んでくれるなら。で、どんなモデルが欲しいの?」

大手IT企業に勤める純司は、かつて就職祝いに両親にねだって「オイスター パーペチュアル」をプレゼントしてもらった。

そして、社会人になってから数年後のボーナスで、ダイバーズウォッチの「サブマリーナー」を買ったのだそうだ。

「オイスター パーペチュアルは、レディースもあるみたい。でも、もうちょっと女性っぽい感じの方がいいのよね。

ダイヤモンドがたくさんついているのは高そうだから、ついてなくてもいいの。ほら、こんな感じの」

南がググって夫に見せたのは、レディ デイトジャストのモデルの1つ、「デイトジャスト オイスター スチール&ホワイトゴールド」だ。

どことなくクラシカルな雰囲気は、お受験の際にも悪目立ちせず上品。シンプルながらもひと目でロレックスとわかる特徴的なベゼルとブレスレット。

ピンクの文字盤が可愛らしいが、お受験を名目に買うのだから、シルバーかホワイトがいいと南は思っている。

「へえ、いいね。で、いくらくらいするの?」

「100万前後だと思う」

「えっ?そうなの?俺が両親にオイスターパーペチュアルを買ってもらった時は、確か50〜60万くらいだったと思うけど。値上がりしてるのは、仕方がないよな。俺も探してみるよ」

ところが、週明け……。

南は、純司からとんでもない事実を聞くことになる。


「え、すぐには手に入らないって、どういうこと?」

帰宅した純司からの報告が、南には信じられなかった。

純司は、ランチ休憩に出た際、「妻からロレックスをねだられている」と同僚に話をした。

すると、同僚は「そりゃ大変だね」と言われたそうだ。




「理由を聞いたら、ロレックスはメンズのスポーツモデルを中心に品薄で、正規販売店に行ったとしても、簡単に欲しいものには巡り会えないって言うんだよ。

どうしても欲しかったら、まずお店に行く予約をして、何回か通ってみるといいよって」

南は、職場のある丸の内から一番近いロレックスブティックを検索した。確かに、予約リクエストが必要と明記してある。

さらに、SNSでロレックスを検索すると、入手困難を嘆くポストばかりが目に付く。

「調べたら、俺の持ってるロレックスでさえ、当時の価格の2倍以上の値がついてるんだ。昔は簡単に買えたのになぁ…。

とりあえず、買えるかわからないけど、いくつかの店舗に来店予約をしてみたら。それか別のブランドにしてみたら?」

「やっぱり、ロレックスがいいけど。何回か通っていたら、お受験が終わっちゃう…」

南はがっくりと肩を落とした。



週末のお教室の日。

それでも、「いい時計」を手にすることを諦めきれない南は、お教室で仲良しのママに思い切って聞いてみることにした。

「早希さんの時計素敵ね。どこで購入されたの?」

「これ、母のお下がりなのよ」

彼女は、手首を傾け文字盤を見ながら答えた。

ホワイトシェルの文字盤は角度によってピンクやグリーン味を帯び、美しかった。

南は家に帰るとジャケットすら脱がず、純司に向かって真っ先にその話をした。

「早希さんのロレックスは、お母様のお下がりなんですって。

私、いつの間にか“いい時計をしないとお受験には受からない”って思い込んでしまってたの。でも、違うわね。

ロレックスが受け継がれるような家庭じゃないと、合格しないってことなんだわ…」

大人げないと思いながらも、南はジメジメと気持ちがしおれていく。

「あのさ…」

黙って南の話を聞いていた純司がいきなり口を開いた。

「いい加減にしろよ。ロレックスだろうが、Apple Watchだろうが関係ないよ。

南が菜乃花のお受験を前向きに頑張れるなら、時計ぐらいと思っていたけど、そんなんじゃロレックスを買っても合格は無理だろ」

南の目尻に涙が滲む。純司はその様子を気に掛けることもなく、不機嫌そうにリビングから出て行ってしまった。

しばらくすると、純司が小さな紙袋を手に寝室から戻ってきた。

「これ、うちの母親から」

高級チョコレート店の紙袋の中には、筆箱のような水色の箱が入っていた。

「開けてみて」

南がそっと箱を開くと、中には小さな腕時計とベルトが横たわっていた。コロンとしたケース(本体)は、1.5センチほどの小ささ。

ゴールドのベゼルは、ギラついた感がなく、アンティークらしい渋みを感じることができる。よくみると、文字盤に小さくROLEXと刻印されている。

「これって…」

「もう廃盤になっているアンティークだけど。1950年代に発売されてたロレックスのカメレオン。何種類かついているベルトは付け替えができる」

先日、純司はたまたま用事があって連絡してきた母親に、「ロレックスが手に入らない」と南とのいきさつを愚痴った。

すると、小学校受験の合否を決めるのは、“子ども以上に親”ということをよくわかっている純司の母は、時計ひとつで南がお受験に心地よく挑戦できるなら、と言って、一本の腕時計を持ってきた。

それは、純司の母自身も、実は義母から譲られた思い出の品だった。

「そんな大切なものを、私に…」




南は、薄いベージュのベルトに付け替え、手首に添わせた。

ジャケットの袖口から覗くゴールドのベゼルは、思いのほか強く出過ぎず、南がこれまで見たどんなロレックスよりも上品でエレガントだ。

南は思った。

義母からの腕時計は、たまたまロレックスだっただけ。この腕時計から受け継がれたのは、この家に継がれる母としての品格。

改めてお受験を頑張ろう、と南は固く誓ったのだった。



菜乃花が年長になった10月。

11月の本番を控え、幼児教室に通う親たちの間にピリピリとした空気が漂っている。

しかし、南は自分でも驚くほど、落ち着いていた。娘と共にできる限り頑張ったという自負もある。

だが、なにより南の手元に寄り添うカメレオンが、お守りのように南と菜乃花を見守ってくれているような気がしていた。

夫の実家で、長い間使われずに眠っていたカメレオン。

一度動かなくなりオーバーホールに出したし、金具が壊れて修理もした。古い故に手はかかるが、時間が経つほどに輝きが増すようだ。

南は、この時計に見合うような女性になろうと、自然と努力するようになった。

それは、きっと数週間後のお受験本番に生かされるだろうと南は思っている。

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CAが、どうしても手に入れたかった「あの時計」とは?