木野瀬凛子、31歳。

デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。

張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

甘いひとくちをほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。

◆これまでのあらすじ

大手広告代理店営業部に勤める木野瀬凛子、31歳。クールに仕事をこなすので“デキる人間”と扱われがちな凛子だが、実は単に心配性なのだ。張り詰めた日々のなか、彼女が唯一ほっとできるのは“甘いひとくち”をほおばる時間なのだった。

▶前回:金曜日の夜。社内随一のデキ女が独り訪れたのは…




Vol.2 ケーキは私の避難場所


「ふわあ」

日曜の朝8時。

凛子はあくびをし、寝不足の目をこすりながら無理やり体を起こす。

― …寝不足だ。

つい4時間前まで、資料を作っていた。明日、連休明け一発目の打ち合わせで必要なのだ。

ゴールデンウィーク中に仕事をするなんて時代錯誤なのは分かっている。しかし、仕事をはじめ大事なことには念には念を入れるのが、凛子のスタイルだ。

「今日も頑張らないと…」

キッチンに立ち、コーヒーをいれながらつぶやく。

今日は、12時に彼氏の昌文と東京駅で待ち合わせをして、ショッピングの予定だ。

最終的にはおそらく、赤坂にある昌文のマンションか、南青山にある凛子のマンションか、どちらかに行くだろう。それがデートのいつもの流れだ。

「だから…シーツを取り替えて、お花を飾っておかないと」

デートの日はいつも、早く起きて家を完璧に整えておく。キレイ好きの昌文に失望されると困るからだ。

― デートって、ほんと仕事みたい。

ワクワク、ウキウキ。そんな感情で恋愛をしたことが、凛子にはない。

目覚ましのために熱々のコーヒーをすすりながら、凛子は、ふと、過去のわびしい恋愛経験に思いを馳せた。

凛子に初めて彼氏ができたのは、大学1年のことだった──。


凛子は中高一貫の女子校に通っていた。

だから出会いが少なく、高校まで恋愛とは無縁だった。

大学でバレーボールサークルに入り、初めて迎えた夏。同期の男子に告白されたのが、人生で初めての告白だった。

なんとなくOKした凛子だったが、正直、彼に恋愛感情はなかった。

会いたい、連絡がほしいと彼に言われるたび、億劫に感じる。結局、秋の合宿で自分から別れを切り出した。

たった2ヶ月で破局。凛子は大反省した。

初めての彼氏が最後に見せた悲しげな表情、恨めしげに歪む口元は、今も凛子の胸にこびりついている。




以来、交際には慎重になった。

言い寄られるたびに、「本当にこの人を好きなのか」を自問して身構える。

すると大抵、「そうでもない」という答えに行き着き、交際に至らずに関係が終わる。

社会人になってからは仕事を最優先したいので、余計に慎重になった。

― こりゃ、一生彼氏はできないな。

あっけらかんと悟っていた2年前、昌文と出会い、やや強引なアプローチを受けた。

10歳年上の先輩からの誘いは、断りにくい。

その“断りにくさ”を活用して、頻繁に誘ってくる昌文。

最初こそ億劫に思ったが、不思議とそんな昌文に、徐々に惹かれていった。

「昌文に認められたい」

会うたびに、その気持ちがどんどん膨らむ。

― 認めれられたい、だなんて、恋愛っぽくない理由だけど…。

もっと一緒にいてもいいと思い、昌文のアプローチを受け入れた。

昌文には言っていないが、昌文は凛子の2人目の彼氏だ。

2時間弱かけて部屋の片付けを完璧に済ませた凛子は、近所の生花店ですずらんの花束を買ってきて、テーブルに飾る。

部屋に花を飾っていると、昌文が「いい女の部屋って感じだね」と顔をほころばせるからだ。

― これでよし。

ようやく身支度を始める。




「お、凛子」

待ち合わせの12時。

丸ビルの前に、昌文が立っていた。

トレーナーにスラックスというカジュアルなコーディネートでも、前のめりに仕事をする男性特有のはつらつとした雰囲気を、いつもたずさえている。

「昨日さあ、連休中なのにトラブルがあってさ…」

落ち合ってすぐに仕事の話をはじめるのも、いつものことだった。

昌文は、テレビ営業部の部長を務めている。

CM枠の売買をはじめ、テレビに関するあらゆる業務を引き受ける、社内屈指の多忙な部署だ。

しかも、昭和的なお付き合い文化がまだ根強く残っていて、休日も駆り出される。

この連休も昌文は、ゴルフ接待でバタバタしていたそうだ。

「つまりね、得意先の認識が、俺たちの認識と大きく違ったんだよ。こんなとき凛子ならどうする?」

昌文から飛んできた質問に、凛子は頭をフル回転させた。デートのときはいつもこうだ。一瞬たりとも気が抜けない。

それでも昌文と2年も続いているのは、たぶん“ちょうどいい”からだと凛子は分析している。

忙しいから、デートは基本月に1、2回。他の日は、夜に予定が合えば飲みに行く。

凛子にとっては十分な頻度だ。

しかも、デートをすると仕事に役立つ情報共有ができる。

ただし正直に言えば、昌文とあまり長く一緒にいると疲れてしまう。

昌文は凛子にとってどこまでも「偉い人」であり、隣にいると緊張するのだ。



夕方になると凛子はもうヘトヘトだった。

― やっぱりデートって疲れる。

そう思っていたとき、見慣れた顔に視線を奪われ、凛子はふと立ち止まった。


エスカレーターの近くに、6歳下の後輩・美知がいた。

美知は凛子の直属の部下だ。1人で買い物に来ている様子だった。

「あれ、美知さん」

「あ、凛子さん」

美知は、特徴的な高くて細い声を出す。

「あの…お、お疲れさまです」

他人行儀にお辞儀をすると、美知は逃げるように早足で去っていく。

昌文は、怪訝そうに2人のやりとりを見ていた。

「今の子、うちの会社の子?」

「そう。同じチームの子」

昌文は「同じチーム」と復唱する。眉間には、厳しいシワが寄っている。

「凛子の直属の後輩ってこと?もしかして、チームの雰囲気、ちょっとよくないんじゃない?すごく他人行儀だったけど」

昌文は、「もちろん、今は時代が違うけれどさ」と前置きした上で続ける。

「俺がディレクターのとき、後輩はみんな俺になついてたよ。毎週末のようにチームメンバーを遊びにつれていったし」

「そんな余裕…私にはない」

「いや。凛子はディレクターとして、もっといいチーム作る努力をするべきだな」

突然のダメ出しに、凛子はしゅんとなる。

その点については、凛子自身も問題意識を抱いていた。

凛子は先輩や同世代からは好かれるが、後輩には萎縮されてしまうきらいがある。

「…やっぱり私、後輩の扱いが下手なのかしら」

「扱いというよりね、凛子の仕事のスタイルがよくないんだと思うよ。

常に用意周到で完璧を目指す凛子のやり方は、あんまりスマートじゃない。後輩も入る隙がないだろ。

もっと楽しそうに、笑顔で大きく構えていないと。後輩からの人望が得られないよ」

昌文の言葉は、凛子の心にぐさりとささる。

「立場が上がれば、やり方も変えるべきだ。若手のときのやり方を引きずっちゃだめだよ」

思わず、泣きそうになった。

― 昌文といる休日は、本当に心が休まらない。

「体調良くないのかな、ちょっとだけ休んでくるね」と言って、凛子は化粧室に駆け込んだ。




泣きそうな顔を、大きな鏡に映す。

― …なんだかとっても疲れた。

化粧室から出て昌文のもとに戻ると、開口一番にウソをついた。

「得意先から呼び出された。ごめん、新橋のオフィスに行ってくる」

現在担当している大手食品メーカーは、かなりのホワイト起業だ。だから広報部の秋坂は、休日には一切連絡をしてこない。

それを知っている昌文は、凛子のウソを見抜いたのだろう。気まずそうに頭を掻いて「悪かったよ」と言った。

ひとり丸ビルを出た凛子は、駅舎の方を見つめて涙をこらえる。

連休最終日の東京駅前の広場はにぎわっていて、誰もが楽しそうだ。

凛子は、自分だけが人生を楽しめていないような感覚に陥った。

― こんなときは…あそこに行くしか。



『銀座スカイラウンジ』。

東京交通会館の15階で、街を一望しながら東京會舘の名物スイーツ・マロンシャンテリーを食べることができるお店だ。

凛子は、気持ちがいっぱいいっぱいになったときには、ここでマロンシャンテリーを食べると決めている。

「お待たせいたしました」




凛子の目の前に静かに置かれたのは、小さな雪山のようなケーキ。

フォークを入れると、金色に光るマロンが出てくる。

そっと、口に運んだ。

「んー」

およそ70年の歴史があるというこのケーキ。

日本人向けにこだわって作られたという繊細な甘さと、美しく作り込まれたクリームのデザインが、心に優しさを運んでくる。

「はあ…」

自分の人生へのモヤモヤが、ため息に変わって外へ出ていく。

凛子は頭のスイッチをオフにして、幸せの沼に身を委ねた。



2週間後の、金曜日。

昌文の誕生日の前日に、凛子はLINEを見て固まっていた。

昌文から、ある報告が届いたのだ。

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昌文から来た、まさかのLINEとは?