「花嫁は彼のこと、好きじゃなさそう」結婚式に出席した無邪気な女子が、そう思った理由とは…
東京のアッパー層。
その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。
例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。
まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。
ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。
そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。
Vol.8 P.M.4:43 閉会
フラワーガール・高山日向子(6歳・小学1年生)
壮大な大階段を横目に披露宴会場となったホテルを出ると、すでに陽は傾きかけ、晴れた空が薄橙色に色づきはじめていた。
車寄せにズラリと並ぶ運転手付きのハイヤーやタクシーが、たった今閉会したばかりの披露宴の規模を物語っている。
日向子はその小さな鼻の穴を興奮で膨らませながら、お見送りのプチギフトとしてもらったばかりの緑樹庵清水の金平糖を口に放り込む。
そして、ふんわりとした真っ白いスカートをタクシーの後部座席に押し込むと得意げな表情を浮かべて、隣に座る母親・千紗子をせっついた。
「それちょうだい!もう、わたしが自分で持つ」
日向子が催促したのは、大きな白いブーケだ。
今日いちにち花嫁のマサミの手元を飾り続けた、美しい白いブーケ。
「今日は本当にありがとう。ひなちゃんのおかげで、最高の1日になったよ。
これ…感謝のプレゼントです。もらってくれるかな?」
そう言ってマサミから手渡されたブーケは日向子にとって、まるで金メダルのように誇らしい勲章なのだった。
日向子が頬を桃色に上気させながらうっとりとブーケを見つめていると、タクシーの助手席に乗った父親が、今にもとろけそうな笑顔で振り向き言った。
「ひなちゃん、白いドレスにブーケなんて、まるで花嫁さんみたいだねぇ」
その言葉に、日向子はまたしても鼻息を荒くして答える。
「うん。わたしも大きくなったら、絶対お嫁さんになるんだ!マサミちゃんとか、ほの香先生みたいに」
「ひなちゃんが早く結婚しちゃったら、パパ寂しいなぁ。
それはそうと、ほの香先生って誰だっけ?お受験教室のほうが会の先生だっけ?」
とぼけた返事をする父親に、千紗子が呆れて言葉を返す。
「違うわよ。ほの香先生は、幼稚園時代の担任の先生!先月ご結婚されて、日向子たちクラスの子が披露宴で歌のプレゼントをしたの。
もう…。卒園した途端に忘れるなんて、パパったら信じらんない」
「ああ、そうだった。担任のほの香先生ね。じゃあ、ひなちゃんは結婚式続きってわけだ。めでたいね〜」
焦って取り繕う父親の気弱な声を聞き流しながら、日向子は、先月、今日と立て続けに参加した結婚式の思い出を振り返る。
マサミの美しい笑顔。輝くパール。鮮やかな色打ち掛け。
ほの香の純白のウエディングドレス。薬指に煌めくダイヤモンド。リボンで飾られた背の高いケーキ。
そして…。ほの香の隣でジロリとこちらを睨みつけていた、背が高く、痩せた男──。
― マサミちゃんの旦那さんは優しそうだったけど…。ほの香先生の旦那さんは、なんだかちょっと怖かったな。それに、どうして…
そこまで考えてから、日向子は声に出して千紗子に尋ねた。
「ねえ、ママ。どうしてほの香先生の結婚相手は、急にちがう人になったの?」
日向子がこの質問をするのは、2回目だ。
◆
「先生〜」
「ほの香先生〜」
幼稚園について朝のごあいさつをすると、わたしはすぐにほの香先生にとびついちゃう。
みんなもそう。
だって、ほの香先生はいつもいい匂いがするから。
それに、髪の毛はくるくるでふわふわ。ピアノをひく指が白くて細くてきれいで、歌う声は透き通るみたい。
それだけじゃない。幼稚園にはお行儀にきびしい先生もたくさんいるけれど、ほの香先生だけは全然こわくない。
いつも優しい声で、やさしい顔でおはなししてくれるから、私もみんなもほの香先生が大好きなんだ。
みんなほの香先生が大好きだから、男の子の中にはプロポーズをする子もいた。
でも、どれだけ「大きくなったらぼくと結婚して!」ってお願いしてもだめ。
いつもどんなことでも「いいわよ」って言ってくれるほの香先生だけど、プロポーズだけは、どんな男の子でもハッキリと断られちゃう。
私たちが年少のときから、いつでも。
「ごめんね。先生、大好きな人がいるの。体が大きくて熊さんみたいな見た目だけど、優しい人。みんなみたいな小さな子どもたちの病気を手術で治してくれる、かっこいいお医者さんなんだよ」
そう言う時のほの香先生は、いつもよりもすっごくかわいくてお姫さまみたいだから、男の子たちはみんな「そっかぁ」ってあきらめるしかなかった。
先生も私たちとおなじ塩光会幼稚園の卒業生だし、大好きな恋人と結婚して家族ができたら、赤ちゃんもこの幼稚園に来て、わたしたちとお友達になってもらうって約束もした。
熊さんみたいなパパと、お姫さまみたいなママだったら、ぜったいにぜったいにテディベアみたいなかわいい赤ちゃんが生まれると思ったから。
だから、年長の冬。わたしやみんなの小学校受験がおわって、「ほの香先生が結婚する」って聞いた時には、すっごくわくわくしたのに。
ほの香先生と、大好きな恋人の結婚式をおいわいしたくて、いっしょうけんめいみんなで歌の練習をしたのに…。
どうして、あんなことになったんだろう?
ほの香先生の結婚式の日は、さむいさむい冬の日だった。
テレビの天気予報で、「午後から雪になるかも」って言ってたのを覚えてる。
いつもよりおしゃれをして、いつもおばあちゃまのお誕生日祝いをするホテルに行って、ひろうえん会場の隣の部屋で歌の練習をして…。
「こどもたち、出番です」って呼ばれてドキドキしながらひろうえん会場に入ったわたしは、ちょっとびっくりしちゃった。
だって、ほの香先生の隣に立っていた旦那さんは、ぜんぜん“体が大きくて熊さんみたいな優しい人”じゃなかったから。
背は高かったし、お顔もユーチューバーみたいにかっこよかったけど、すごく痩せてて、なんだかいつもイライラしてそうな人だったから。
いっしょうけんめい讃美歌の「小さいひつじが」をみんなで歌ってる時も、感動して泣きそうなほの香先生のうしろで、旦那さんがつまらなそうにあくびを我慢してるのが見えた。
― ほの香先生の大好きな人って、この人じゃないと思う…。
そう思ったわたしは歌のあと、みんなで集まって記念写真を撮ってる時に、ほの香先生に聞いたの。
「ねえ、ほの香先生。どうして急に、ちがう人と結婚することになったの?熊さんみたいなお医者さんは?」
その途端、ほの香先生の隣に座っていた旦那さんが、すごくこわい顔でわたしをジロってにらんだ。
わたしは「いけないことを聞いちゃったんだ」って反省して、「ごめんなさい」って小さな声でほの香先生に謝ったけど…。
ほの香先生だけは、「いいわよ」って言って許してくれた。
その時のほの香先生のお顔は、いつもみたいに笑ってた。
それなのに、すごくすごく、悲しそうだった。
◆
ゆっくりと空が藍色に暮れていく中、助手席でボーッとしていた父親が唐突に大きな声を上げた。
「ああ、思い出した!ほの香先生って、鶴川ほの香先生か!あの、鶴川大臣の姪っ子だっていうお嬢様の。
なんだっけ。鶴川家の選挙地盤のゼネコンの息子かなんかと結婚して、寿退職したんだっけ」
「ちょっとパパ!日向子の前で、そんな生々しい話やめてよ」
「ご、ごめん」
またしても決まり悪そうに黙る夫を、千紗子が目で制する。
そのあいだ日向子はぼんやりと、「今日、席次表をくれた優しそうなお兄さんが、ほの香先生の本当の結婚相手だったらお似合いだったのに」と、他愛もない空想をした。
夫への注意をすませた千紗子は、日向子の方に向き直ると、まっすぐに視線を合わせる。
そして、瞳に寂しそうな色を浮かべながら、ゆっくりと噛み締めるように先の質問に答えた。
「ひなちゃん。ひなちゃんにはまだ難しいかもしれないけどね、人にはそれぞれ、神様がお与えになった世界があるの。
それは、その人が一番、世の中の役に立てる世界。そしてその小さな世界の中で起きていることは、その人だけにしかわからないのよ」
静かに答える母親の顔は、少しだけ、結婚式でほの香が見せた顔に似ている気がした。
不思議と、マサミにも。祖母にも。向一郎にも──今日の荘厳美麗な披露宴会場にいた誰にも彼にも、似ている部分があるような気がした。
言いしれない小さな不安が芽生えるのを感じた日向子は、か細い声でさらに問いかける。
「でも、ほの香先生は、しあわせになったよね?」
「うん…。きっと」
その答えに満足した日向子は、そっと母親の首元に手をやった。
黄昏時の景色がぼんやりと反射したパールのネックレスが、はっとするほどに美しく感じたからだ。
「きれい…」
「これはね、ひいおばあちゃまのネックレスよ。ひいおばあちゃまからおばあちゃまに、おばあちゃまからママに、代々受け継がれてるものなの」
「じゃあ、日向子もいつかもらえるの?」
「もちろん。イヤだって言っても、絶対あげちゃうんだから!」
そう言って千紗子は、ブーケが潰れるくらいに日向子を力強く抱きしめる。
きゃーっと嬌声を上げながら日向子は、頬に触れるぞろりと連なったそのネックレスを──。
ほんの少しだけ、怖いと思った。
【スモールワールド相関図】
Fin.
▶前回:「この人でいいのかな…」結婚に迷いがあった女。披露宴当日、両親への手紙で告白した本音
▶1話目はこちら:友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!そこには、ある人物が