「私、小学校から大学までずっと同じ学校なの」

周囲からうらやまれることの多い、名門一貫校出身者。

彼らは、大人になり子どもを持つと、必ずこんな声をかけられる。

「お子さんも、同じ学校に入れるんでしょう?」「合格間違いなしでいいね」

しかし今、小学校受験は様変わりしている。縁故も、古いしきたりも、もう通用しない。

これは、令和のお受験に挑む二世受験生親子の物語。

親の七光りは、吉か凶か―?

◆これまでのあらすじ
名門一貫校出身の果奈は、息子の翼を小学校から同じ学校に入れたいと考えている。ダメ元でトライした幼稚園受験にはあえなく撃沈。母親に報告の電話をかけた果奈はふと、なぜ自分は2人の兄とは違う幼稚園に通っていたのか質問する。

▶前回:「受かったらラッキー」で幼稚園受験にトライするも撃沈。母親には、思い当たる“不合格の理由”があって…




Vol.6 家族が「今」できることは?


「どうしてお兄ちゃんたちは付属幼稚園なのに、私は違う幼稚園だったの?まさか私…幼稚園落ちた?」

果奈は、電話越しに母に問いかける。答えを一言も聞き漏らすまいとリビングのソファに座り直した。

「そんなに深刻なことじゃないわよ」

母は笑う。

「果奈、あなたが通った『ほがらかこどもの園』、あそこ保育園なのよ」

― ええっ!保育園?

「当時は、お金と時間が本当に足りなくて」

果奈が2歳の時、果奈の父は、祖父が所有していた吉祥寺の土地で開業した。

母いわく、時を同じくして同居する祖母の介護も始まり、果奈の幼稚園受験どころではなくなったというのだ。

「開業するのに銀行からお金も借りたし、歩けないおばあちゃんのために、同じ時期に家もリフォームしたのよ。

その上、果奈の分の啓祥学園の学費を払うのは、ちょっと勇気がなかったし、何よりお母さん、時間が全然なかったのよ」

― そんな事情があったのね。

果奈は、母の気持ちがわかる。

もし夫の光弘が独立したばかりの頃だったら、お受験なんて絶対に考えられなかっただろう。

開業資金もあっという間に底をつき、思いつめた顔で銀行に通っていたあの頃の光弘の姿を、果奈は今でも覚えている。

「それで、私だけ幼稚園を受けなかったんだ?」

果奈は、数年前の自分たちを夫婦の状況を回顧しながら母に確認した。

「そうよ。啓祥学園小の先生には、ご挨拶しておいたけどね。こんな事情だから果奈は保育園に通わせますが、必ず初等部ではお世話になりますって」


― まさか自分が保育園のお世話になっていたとは…。

『初等部受験生ママ集まれ!』のLINEグループ内で、いまだに交わされる幼稚園信仰を読みすぎて、果奈は完全に保育園から気持ちが離れていた。

― あれだけ翼が楽しく通っている場所なのに、保育園より幼稚園のほうがいいって思い込んでたわ…。

果奈が電話越しにため息をつくと、母が言った。

「保育園のおかげで、私はおばあちゃんとの時間をたくさん持てて、心残りなく送ってあげられたのよ」

果奈、と母が優しく呼びかけた。

「無理に翼くんを幼稚園に入れることばかり考えないで、あなたたち家族なりのスタイルを見つけたら?」

― 私たちのスタイルって何だろう。

翼のお受験対策はもちろんだが、自分のキャリアアップのための勉強もしたい。

光弘のサロン経営の状況を踏まえて、もう一度話し合ったほうがいいかもしれない。

果奈はそう思った。

「家族で話し合ってみる。お母さん、私すごく勘違いしていた。多分翼はこれからも保育園にお世話になると思う」

果奈は、母にお礼を言って電話を切った。




「翼、まちがいさがしのプリントやろうか。見つけたところを赤いクレヨンでマルしてね」

「うん!」

果奈と翼は、保育園から帰宅した後、幼児教室の授業の復習にいそしんでいた。

翼は幼いなりに「幼稚園受験不合格」という結果を受けとめたようで、勉強に取り組む姿勢が明らかに変わってきている。

果奈は、あれから母の言葉を受けていろいろと考えた。

結局選んだのは、翼を引き続き今の保育園に通わせるという道だ。

保育園のほうが、果奈はキャリアを順調に積めるし、光弘もサロン経営に集中できる。何より、翼は今の保育園が大好きなのだ。

きっと保育園にいたほうが、健康で明るく育っていてくれるだろう。果奈は、保育園はなくてはならない存在だと判断した。

― さあ、勉強!今できることを全力でやるしかないわ。

今は11月中旬だが、幼児教室では毎年受験シーズンが終わったタイミングで進級となる。

保育園ではまだ年少クラスの翼も、一足先に年中に進級し勉強量も格段に増えた。

小学校受験では、子どもの身長と同じ高さのプリントをこなす、と言われているが、あながち冗談でもないと思う。

「できたかな?マルは青じゃなくて、赤のクレヨンでね。間違いは1つ、2つ…」

数えているうちに、果奈は突然睡魔に襲われる。

翼のプリントを整理し、学習計画を練るには結構な時間がかかる。だから果奈は、通っていた英会話とパーソナルトレーニングをやめた。

かといって、翼の受験に合わせて自分のやりたいことをすべて手放すのも違うと思う。

そこで翼を寝かしつけた後、フィリピンとのオンライン英会話を受講し、早朝にランニングするようにしていた。

特に次の昇進では英語が必須になるので、英会話は重要だ。

― やばい…早朝から全力投球だからか、私が眠くなってきた。でも、頑張らなくっちゃ。

「ママ!起きて!」




連日の過密スケジュールによる疲労は、36歳の果奈の肉体をボディーブローのようにむしばんでいた。

「あと1つ、プリントやったらごはんにしようか」

― これが終わったら夕食準備。つらい…。

果奈が軽く頭を左右に振り、翼との勉強に集中しようとしたその時、光弘が帰宅した。

「パパー!」

こうなると、もう勉強は無理だ。翼は光弘に抱きついて離れないので、果奈は勉強を切り上げて夕食の準備をする。

果奈がサラダを作っていると、1人でキッチンに来た光弘が、電気圧力鍋の蓋を開けながら言った。

「果奈の会社が出しているこの電気圧力鍋、本当に便利だよな。放っておくだけで角煮ができるなんて、感動だよ」

― 朝、私が材料切ってセットしているから、放っておいても角煮ができるんですけど。

疲労のあまり、光弘に突っかかりそうになるのをぐっとこらえてレタスをちぎる。

「ねえ光弘、ごはん食べたら、翼のプリント1枚一緒にやってあげて?私、少し休みたくて」

夜はオンライン英会話もあるし、それまでにエプソムソルトをたっぷり入れたお風呂に浸かりたい。

そんな思いを知ってか知らずか、光弘が優しく言った。


「プリント1枚ぐらい、明日挽回すれば大丈夫だよ。それより果奈、そんなにお受験が大変なら、仕事辞めるかセーブしたら?」

― なに?

果奈は愕然とした。

「どの口が…」

「え?」

角煮をつまみ食いしていた光弘がきょとんとして聞き返す。

レタスをちぎる手を止めて光弘の方を向くと、彼の肩越しに翼の姿が目に入った。ソファに寝そべって、光弘のスマホでYouTubeを見ている。

「どの口が言っているんだって言ってるのよ!」

翼にYouTubeを見せて夕食の準備を手伝うのかと思いきや、光弘は自分だけつまみ食いをしている。

―明日挽回すれば大丈夫―

光弘はいつだって都合の良いことばかり言うが、そのしわ寄せを食うのは明日の果奈だ。

― この一番忙しい時間に、一番言ってほしくないことを言うなんて、なんて無神経なの!?

「光弘、少しは家族のこと考えてよ!」

果奈の声を聞いて、驚いた翼がおそるおそるキッチンに来た。




「はい、というわけでね…」

YouTuberのマネをしながら仲裁に入ろうとする翼を見て、果奈の心にたまっていたイライラが爆発した。

「もういや!ごはんは2人で何とかして!」

果奈はそう言うと寝室に逃げ込み、ベッドに突っ伏す。

― やってしまった…。あとで翼に謝らないと。

今日はもう無理だと思い、オンライン英会話をキャンセルする。

それから冷静になるために、彩香に愚痴LINEを送った。

果奈は、少しずついつもの自分が戻ってくるのを感じる。

彩香からはすぐに共感の言葉が返ってきた。同時に、こんな報告も送られてくる。

『彩香:今日は結婚記念日だから、『ピーター・ルーガー・ステーキハウス 東京』に来てるよ!アンはシッターに寝かしつけまでお願いしちゃった』

― いいなあ、彩香さん。

彩香から送られてきた看板メニューの「Tボーンステーキ」の写真にため息をついているうちに、いつしか果奈はまどろんでいた。

「果奈、入るよ」

光弘がベッドルームをノックして入ってくる。




「さっきはごめん。果奈が寝ている間に、お義母さんから電話があったよ。

果奈が疲れて寝てるって伝えたら心配してたから、思い切って手伝いを頼んでみたんだ。そうしたら、平日2、3日はうちに来て家事と翼の勉強を手伝ってくれるって」

― はあ?光弘が頼んだら、嫌だなんて言えるわけないじゃない!

「あなた、二言目にはお母さんっていうけど、自分で何とかしようっていう気持ちはないの?」

「俺の役割はさ、経営者として頑張る父親像を見せるっていうかさ…」

「私も、自分の役割は、仕事を頑張ってキラキラ輝く母親像を見せることだと思っているわ」

これは本当のことだ。果奈は、自分が一番輝いている、と感じるのが仕事を頑張っている時なのだ。

それを翼にも見せていきたいし、お受験と同じくらい大切なことだと思っている。

「果奈は、キラキラ輝いているよ」

光弘は、果奈の背中をさすりながら言う。

「いつでも美容と健康に気を使っているし」

「はああ?」

思わずドスの聞いた声が出てしまう。

― 一番頑張っているのはそこじゃないし。っていうか、さっきはごめんって、この人何を謝っているの?

「とにかく果奈の負担が減るように、俺がお義母さんにお願いしておいたから。今日はゆっくり休んで明日挽回しなよ」

― なに、その『感謝して』みたいな口ぶり。

何も解決していないというのに、満足げに部屋を去る光弘を見て、果奈は枕に顔をうずめた。

「グググ…ガガガ…」

枕に顔を押し付けて、大声で叫んでも、全く鬱憤は晴れず、果奈は枕にこぶしをたたきつけた。

▶前回:たかが願書、されど願書。「受かったらラッキー」幼稚園受験を甘く見たワーママの末路

▶1話目はこちら:「この子を、同じ学校に入れたい…」名門校を卒業したワーママの苦悩

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限界を迎える果奈。その頃、ママ友の家庭も問題を抱えていて…