ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。

貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか?

特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。

きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。

これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。

▶前回:夫婦の思い出の香りを、別の女がつけていて…。バリキャリ女が離婚を切り出されたワケ




Vol.3 麻美(28歳)優しく甘い初恋の香り
Diptyque「キャンドルミモザ」


「来年の国際女性デーのトークイベントの仕事、麻美のプレゼンで決まったんだって?おめでとう!」

仕事中パソコン作業をしていたところ、同期の翔太が話しかけてきた。

「ありがとう!しばらく忙しくなりそう」

そう答えて、PCの画面に目を戻す。

私は、表参道にある広告代理店で営業の仕事をしている。

数日前に行われた競合プレゼン。私たちのチームが、他社を抑えて規模の大きな仕事を勝ち取ったばかりだった。

そしてクライアントに送る資料に、2023年3月8日の国際女性デーにちなんでミモザの画像を入れ込んだ瞬間のこと。

ふと、淡く苦い胸の痛みと共に、優しく甘いミモザの香りを思い出した。

― ミモザ…か。真人先輩、元気にしているかな。

真人先輩とは、中学校のサッカー部の2歳上の先輩で、マネージャーだった私の初恋の相手でもある。

近所に住んでいた彼の家の庭に、毎年立派なミモザの花が咲いていたのだ。

「プレゼン資料見せてよ」

翔太の声で我に返ったが、こんなに鮮明に先輩のことを思い出すのは久しぶりだった。

でも、それはまるで、これから起こる何かを予感したような出来事だったのかもしれない。

仕事を終え会社を出て、表参道の交差点で地下鉄へ向かう階段を下りようとしたとき、私は思わず足を止めた。


「真人先輩…!?」

視線の先にいた彼は、一瞬驚いた顔を見せる。

しかし、彼はすぐにあの頃と変わらないくしゃっとした笑顔になり、私の胸は高鳴った。

「麻美…だよな。なんか…雰囲気変わったな。いい感じ!」
「先輩!お久しぶりです。私のこと覚えてくれていたんですね」

お世辞だとしても、初恋の相手に褒められたことで、自分でも顔が真っ赤になるのがわかる。

先輩が中学を卒業するとき、私は思い切って告白した。

結果は惨敗。呆気なく振られてしまったのだけれど。

14年ぶりの再会だったが、昔から長身だった彼のスーツ姿は、大人の色気も加わり、さらに格好良くなっていた。




― 今日、仕事中、真人先輩のこと偶然考えていたんです。

なんて、そんな言葉が喉から出かかったが、嘘だと笑われそうでやめた。

先輩は東京駅近くの大手証券会社で働いていて、今日は仕事の関係でこの近くに立ち寄ったらしい。

「久しぶりに麻美に会えてよかった!LINE良かったら教えてよ」

少し立ち話をして、私たちは連絡先を交換して別れた。

先輩に振られてからも、私は人並みに恋愛をしてきた。数ヶ月の恋愛もあれば、2年間続いた恋愛だってある。

でも最近は、仕事の忙しさも相まって恋愛にすっかり興味を失っていたのだ。

それが、どうしてだろう。

まるで、ミモザの香りが長い冬の終わりを告げて春を迎えるように、私の心は恋愛の甘さを思い出しつつあったのだ。

帰りの電車で、先輩に送るLINEの文章を考えている間に、iPhoneの通知が鳴った。

『真人:今日はびっくりだったね!急だけど、明日仕事終わり暇かな?飲みに行かない?』

断る理由が見つからず、『ぜひ!』とすぐに返していた。



翌日の夜21時。

私は、セルリアンタワーにある『ベロビスト』の東京の街を一望できるカウンター席に1人腰掛けていた。




真人先輩とは、ゆっくり食事をする予定だった。

けれど彼が急な残業になってしまったので、「軽く飲もう」と、この場所を提案されたのだ。

今日は、久しぶりに髪を巻いて、お気に入りのMax Maraの紺のワンピースを仕事用のジャケットの下に着た。

メイクにかける時間もいつもの倍だったから、はたから見ても私の雰囲気が違ったのだろう。

仕事の休憩中に、「今日デート?」なんて、同期の翔太からからかわれてしまったくらいだ。

私が、ペコペコのお腹にカクテルをゆっくり流し込んでいると、肩に優しく手が触れた。

「ごめんね、お待たせ。何飲んでるの?」

そう言って、彼はビールをオーダーした。

「カクテルのミモザです。今でも、真人先輩の家に綺麗に咲いていたミモザの木を思い出すんですよ」

そう伝えると、先輩は優しく笑った。

― 憧れの人と一緒にお酒を飲んでいるなんて…。中学生の頃の私が知ったらどんなふうに思うんだろう…。

すると、カウンターに置いていた私の手に彼の手が触れ、私の耳元でつぶやいた。


「ミモザの木かぁ。もうとっくの昔に切り落としちゃったな」

触れている彼の手の熱を感じて、心臓がドクドクと波打つ。

そしてそんな彼の言葉を受けて、少し寂しくなった。




「でも、本当に麻美が綺麗になって、驚いたんだ。中学生の時、なんで振ってしまったんだろうって後悔するくらい」
「私も、まさか先輩と再会できるなんて思ってもいなかったです」

仕事の話から、思い出話、取り止めもない話をしていると時間はあっという間に過ぎた。

時刻は23時40分。

「もうこんな時間なんですね」

終電を気にして、私が時計を覗くと、彼は言った。

「今日、もう少し一緒にいたいな」

真っすぐに目を見てきた彼を見て、私がときめかないはずはない。

けれど、私はどうしても確認しなければならないことがあった。

左手に結婚指輪はない。でも至近距離で見ると、うっすらと指輪の形の日焼けの跡があることに気がついてしまったのだ。

「先輩、もしかして結婚していますか?」

そして、数秒の間の後に彼が放った台詞に私は言葉を失った。

「大丈夫。今、妻は妊娠中で里帰りしているから…ね?」

会話の中で、彼はまるで今フリーであるように話していたから、まさか先輩が嘘をつくはずがない!とどこかで信じていた自分がばかだった。

「私はここで失礼しますね」

― 私の昔の好意を利用して、都合よく遊ぼうとしていたなんて、ひどい…。

それから私は、空腹に詰め込んだお酒と、流れ出る涙に溺れながら帰路についた。

どうやって帰宅したのか、あまり覚えていない。



翌日、仕事を終え、帰る時だった。

着飾っていた昨日の私とは打って変わって、腫れた目を隠すために縁の太い眼鏡をかけ、ボサボサの髪を束ねただけ。

そんなひどい姿の私を見て、翔太が呼び止めた。

「麻美、お誕生日おめでとう。はい、これ、麻美の誕生日プレゼントと、この前仕事とれたお祝い」
「えっ…?」

そう、今日は私の28歳の誕生日だったのだ。お礼を言う前に、翔太は「じゃあ」と、帰ってしまった。

家に帰ってから、翔太からもらったプレゼントの包装をそっと開く。

それは、Diptyqueのキャンドルだった。

「ミモザの香り…」

国際女性デーのイベントにちなんで、翔太はこの香りを選んでくれたのだろうか。

昨日の嫌な記憶が一瞬浮かび、だからこそ、苦い思い出を燃やしてしまおうと、私はキャンドルに火をつけた。

すると、優しく濃厚な香りが部屋いっぱいに広がる。

― なんて、魅力的な香りなんだろう…。

もう、真人先輩の家にはミモザの木はない。

私の淡く美化されていた初恋の記憶も、空腹に詰め込んだミモザのカクテルで悪酔いして、さらに苦いものになってしまった。

でも、このキャンドルの香りを嗅いでいると、私はミモザが嫌いにならないで良かったと思える。




私は、幸せな気持ちに包まれ、翔太に思わず電話をかけた。

「翔太、プレゼントありがとうね。ミモザ…すごくいい香りで癒された」
「お、おう。って誕生日の夜だからデートでもしてるかと思った」
「彼氏なんて、いないよ」
「なんだ、よかった」
「え?」
「麻美は、鈍感すぎるよな。…明日、直接話すわ」

電話が切れてから、私は大好きなミモザの花言葉を思い出した。

ミモザの花には「ひそかな愛」という意味があるということを。

― えっ、翔太の言葉って、そういうこと…?

動揺しながらも、急に、仲の良い同期を異性として意識してみて、不思議と温かい持ちに包まれている自分に驚く。

キャンドルの優しい光と、甘美なミモザの香りは、新しい恋の予感を告げているようだった。

▶前回:夫婦の思い出の香りを、別の女がつけていて…。バリキャリ女が離婚を切り出されたワケ

▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実