「知らないほうがいい」と忠告されたものの、女が彼の“元妻”の名前を検索してみたら…?
愛とは、与えるもの。
でも、与えすぎる愛は時に、相手を押しつぶしてしまうことがある。
愛情豊かなお嬢様・薫子(26)は、そんな“重すぎる愛”の持ち主。
「適度な愛の重さ」の正解とは……?
その問いに答えを見いだすべく、改めて恋愛と向き合った女の、奮闘物語である。
▶前回:「今夜、この人と…」そう女が思い焦がれた麻布十番の夜。男から告げられた、期待を裏切る事実
「…ちゃん。薫子ちゃん!」
「はっ、はい!?」
朝8時のオフィス。社長室の机をアルコールで拭いていた薫子は、自分の名前を呼ぶ声にようやく気がつき、ビクッと背筋を伸ばした。
「あ、えっと、確か14時…」
「ちゃんとスケジュールに入れておいてね!予約できてないんじゃないかと思って、心配しちゃった」
書類の整理をしながらキビキビと仕事を進めていく紀香に、薫子は覇気のない声で「すみません…」と答える。
すぐに大きなため息をつく薫子の様子を見て、紀香は手を止めて心配そうに尋ねた。
「もう。ここ1週間くらいの薫子ちゃん、どうしちゃったの?入社してからずっと、テキパキ頑張ってたじゃない。何か悩みでもあるなら聞くよ」
日頃厳しい紀香の優しげな口調に、薫子は目に涙をいっぱいためて、すがるように紀香を見つめる。
「悩み、あります…。純一郎さんに、奥さんがいたんです…」
気づけば薫子は紀香に向かって、先週の純一郎とのデートについてぽつりぽつりと話し始めているのだった。
結婚していた過去を打ち明けてきた、純一郎の本音とは?
◆
「映画を勧めてきたの、当時の奥さんなんだ」
寄り添いながらの映画鑑賞。手を繋いでの散歩。和やかなディナー。
純一郎の口から出た“当時の奥さん”という言葉には、その夢のように順調で幸せだった1日を粉々にするほどの衝撃があった。
「僕、バツイチなんだ」
薫子は脳内で、“当時の奥さん”、“バツイチ”という言葉を反芻する。
感情がぐちゃぐちゃでパニック気味の薫子をよそに、純一郎は話を続けた。
「映画はもともと元奥さんが好きで、それに付き合ってるうちによく見るようになったんだ。もちろん、離婚した今は映画を一緒に見にいくような仲じゃないよ。
それぞれの人生を歩いてる、良き友人って感じだと思う」
聞けば、純一郎は3年間ほど結婚していたものの、一昨年離婚したのだという。
原因は、あくまでも性格の不一致で、円満離婚。今はお互いに意識するような関係ではないと、純一郎は繰り返し説明する。
それを何度聞いても、好きな人の過去の恋愛を想像するだけで切なくなってしまう薫子には、やはり精神的なダメージが大きかった。
しかし、ここでショックを受けていては“大人の女”とは言えないはず。
パニックになりかけながらもそう考えた薫子は、どうにか平静を装いながら相槌をうつ。
「へえ、そうだったんですね!でも別に、わざわざ伝えてくださらなくても、普通のことだと思いますよ。
結婚してみないと分からないことってあると思うし、どんなことも経験ですもんね。別れた奥様とお友達でいられるのも、きっと人間的に素敵なお二人だってことだと思います」
薫子はなんでもない顔をしながらも、動揺していることがバレないよう、パクパクと『すぎ乃 麻布十番』のおでんをつまむ。
そんな薫子の様子を見て、純一郎はホッとしたように微笑むのだった。
◆
「ということがあって…、それ以来どうしても元気が出なくて…」
そうこぼす薫子の話を聞きながら、紀香は不思議そうに眉根を寄せた。
「…え?で?」
「で…って?」
怪訝そうな紀香の真意が分からず、薫子は思わず聞き返す。
紀香は呆れたような声で言葉を続けた。
「バツイチだからって何がショックなの?むしろ、そんなことわざわざ伝えてくるなんて、薫子ちゃんのことが好きって言ってるようなものじゃない」
「えぇ…?そう、ですかね…?」
紀香の言葉に、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。
― 確かに、私のことを真剣に考えてくれてるからこそ、誠実に伝えてくれたってことなのかも…!
そう思えば、ここまでショックを受けることもないのだ。
曇り空に晴れ間がのぞいたような気持ちになった薫子は、満面の笑みで紀香を見る。
しかし、紀香は対照的に、先ほどと変わらず眉根を寄せて、浮かない表情をしている。
「…さっきから言ってる、純一郎さんって…。もしかして、うちの会社の横井純一郎さん?」
薫子は、ぎくりと肩をすくませる。
「は、はい…」
会社は社内恋愛禁止ではないものの、純一郎と個人的に会っていることは、念のため周囲には明かさずにいたのだ。
仕事に厳しい紀香には、もしかしたら公私混同と見なされてしまうかもしれない。
そう思い、はっとした薫子だったが、紀香が続けたのは意外な言葉だった。
「そっか。確かに横井さんの元奥さんとなると、ちょっと話は別かもね…」
純一郎の元妻は、一体何者なのか…
「どういうことですか?」
意味がわからずポカンとする薫子に向かって、紀香は「え?知らないの?」と目を丸くする。
「いや、知らないなら、知らないままのほうがいいと思う。変なこと言ってゴメン」
気まずそうに話を切り上げようとする紀香に対して、薫子は引くことができない。
「なんですか?教えてください!紀香さん」
食い下がる薫子を前にして、紀香はしばらく考え込んだのち、意を決したようにデスクに座った。
紀香の細く美しい指先が、Googleの検索窓に何かを入力する。
『シオリ先生 片瀬詩織』
そんなワードを入れて出てきた画像検索の結果には、女優のような白衣の美女の画像が、ずらりと画面を埋め尽くすのだった。
「あ、この人見たことあります」
確か、東大で医学博士号を取得した美人皮膚科医。様々なメディアでも活躍する、インフルエンサー的な女医だ。
清純な魅力がありながらも、自由で奔放、かつチャーミングな性格で人気を集めている。
呑気に検索結果を眺める薫子に向かって、紀香は難しい表情を浮かべたまま伝えた。
「この人だよ。横井さんの元奥さん。横井さん、シオリ先生の夫として社内では有名人だったから…。離婚してから今まで、浮いた噂がなかったの」
「ええっ…」
先日とはまた異なる衝撃が、薫子を襲った。
「素敵だよねぇ、シオリ先生。私、けっこうファンなんだよね。容姿端麗、頭脳明晰。センスもいいしユーモアもあって、美容とか恋愛系の著書もたくさんあるし」
紀香は興奮した様子で続ける。
「私も彼氏との恋愛に悩んだ時は、シオリ先生のコラムとか参考にしてたなぁ。横井さんと結婚してた時の夫婦関係も、お互いの人生を大切にしてるオトナな感じで…」
勢い止まらず語り続ける紀香だったが、薫子がフリーズしているのにハッと気がつくと、慌てて口をつぐむ。
そして、耳をそばだてて聞かないとわからないほど小さな声で、ぽつり呟いた。
「こんなすごい奥さんと比較されたら…。ちょっとキツイもんね…」
紀香は薫子の表情を、心配そうにうかがっている。
『彼の過去の恋愛を詮索するのは重い女』。
そんな記事を読んでいたため、純一郎がバツイチであることにモヤモヤしていながらも、元妻がどんな人なのかについては必死に聞かないままでいたのだ。
「なんか…さらにショックを受けさせちゃったみたいでごめん…。
でもさ、手も繋いでるんだし、次のデートの約束もしてるんでしょ?絶対大丈夫だって。気にすることないよ」
紀香はどんよりした空気を吹き飛ばすかのように、大きな咳払いをした。
確かに、次のデートの約束はある。
今週末は薫子の27歳の誕生日。そのことを純一郎に伝えたら、一緒にお祝いをすることになったのだ。
けれど、今の薫子の頭の中は真っ白だ。
― 私、こんなすごい元奥さんと比べられるの?こんなに自立してカッコイイ女性と…?
ほんの少しだけ膨らみかけたはずの自信と希望が、ものすごいスピードで萎んでいく。
紀香が励まそうと必死で言葉をかけるものの、薫子の耳には一切入らない。
ちょうど打ち合わせの時間になってしまった紀香は、何か言いたげな表情を浮かべたまま、渋々去っていった。
ひとりデスクに取り残された薫子を、PC画面の向こうからたくさんの「シオリ先生」が見つめていた。
ほとんど無意識のまま、そのうちの一つの画像をクリックする。
すると飛び出してきたのは、皮肉にも薫子が「重い女」から脱するために読み込んでいる、webマガジンの恋愛コーナーだった。
『女の子は、追うより追われる恋愛をしよう!』
ピンク色の背景の前で、ぴんと人差し指を立てて微笑むシオリ先生がそう語っていた。
その時、デスクに置いていたスマホが震えた。
画面には、LINEのメッセージがポップアップしている。
『おはよう。今週末の薫子ちゃんの誕生日だけど、何か食べたいもののリクエストはあるかな?』
そんな純一郎からのメッセージが、ちらりと目に入った。
薫子はしばらくスマホの画面を見つめたあと、ぎゅっと目を閉じた。
― だめ。私このままだったら、元奥さんに敵うわけない。絶対にすぐにボロが出ちゃう。純一郎さんに本気で相手にされるために、どうにかしないと…!
雑念を振り払うかのように頭を小さく振った薫子は、ごくりと唾を飲む。
そして、何かのヒントを探そうと決意をして、純一郎の元妻の恋愛アドバイスを熟読し始めるのだった。
▶前回:「今夜、この人と…」そう女が思い焦がれた麻布十番の夜。男から告げられた、期待を裏切る事実
▶1話目はこちら:記念日に突然フラれた女。泣きながら綴った、元彼へのLINEメッセージ
▶Next:6月7日 火曜更新予定
元妻と自分を比べて落ち込む薫子は、予想外の行動を起こし…?