木野瀬凛子、31歳。

デキるオンナとして周囲から一目置かれる凛子は、実は根っからの努力型。

張り詰めた毎日を過ごす凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

甘いひとくちをほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。

◆これまでのあらすじ

大手広告代理店営業部に勤める木野瀬凛子、31歳。10歳年上の彼氏・昌文の浮気を目撃した凛子は、彼と別れることを決意した。その2週間後、得意先の大手食品メーカー広報部・秋坂との定例会で…。

▶前回:10歳上の彼が、若い女性を部屋に連れ込むのを目撃…。女が呆れた、彼のひどい言い分とは




Vol.5 孤独を和らげる、一流のショートケーキ


金曜の夕方。

大手食品メーカー広報部・秋坂との定例会で、凛子は驚きの声をあげていた。

「ええ?本当ですか…」

秋坂曰く、食品に主力を置いていた得意先が、2024年からスイーツにも注力するのだという。

「まずはチョコレートの商品で勝負をかける予定です。来年のバレンタインに向けて、御社に販促企画をお願いすると思います」

秋坂はおもむろに資料を広げた。

資料には、チョコレート菓子のイメージ画像がたくさん並んでいる。

凛子はその資料に手をのばし、ページをめくった。その途端、秋坂がなにやらおかしそうに笑う。

「ははは、木野瀬さん」

凛子はきょとんとして「はい?」と言い、秋坂の笑顔の真意を探った。

「いやあ、木野瀬さん、なんか急に目が輝いたので…」

秋坂は、次の瞬間いたずらっぽい表情になった。

「もしかして木野瀬さん、甘いものがお好きなんですか」

「は、はい…とても」

秋坂は「いいですよね、スイーツ」と笑う。

同い歳なのに、周囲にいる同い年の男性よりもすごく大人びていて、落ち着いた人だ。

打ち合わせが終わると、秋坂は会議室のなかで真剣な声で言った。

「あの、スイーツ好きな木野瀬さんに、ひとつお伺いしたいことが」


「え?なんでしょう」

凛子が聞くと、秋坂は照れたように声をひそめて言う。

「ちょっと、ケーキを買いに行きたいんです。

おすすめのケーキ店、ありますか。木野瀬さんなら詳しいかなと思って」

凛子の頭は検索エンジンのように動きだす。しかし、おすすめのケーキ店など何件もある。

「どんなケーキがいいでしょうか。チョコレート系とか、ショートケーキとか」

「ああ、そうだな。こう言うと恥ずかしいんですが、一流のケーキがいいんです。

実は今日、8歳下の弟の誕生日で」

「あら、弟さん?」

「実はこの春、実家の京都から上京してきたんですよ、大学に通うために。

今、僕の部屋で一緒に住んでいるんです」

秋坂の出身が京都だとは聞いていたが、年の離れた弟がいるというのは、初耳だった。

― しかも、一緒に暮らしているんだ。




「弟は今日で23歳。一緒に祝える久しぶりの誕生日なんです。

だから奮発して、一流のケーキを買ってやりたいんです。弟が、まだ食べたことのないような、高級なやつを」

凛子は、すぐに答えを見つけた。

「だったら、『パティスリーSATSUKI』ですね」

「へえ…」

「赤坂見附のホテルニューオータニ東京にあります。

でも、遠いですかね?オフィスの周辺のほうがいいなら別の…」

秋坂は、ゆっくり首を横に振る。

「とんでもない。僕はもう今日は上がれるんで、タクシーですぐですよ。

木野瀬さんも…もしお時間合えば、一緒に行きませんか?」

「え、いいんですか」

断る理由などどこにもない。凛子は頭のなかでスーパーメロンショートケーキの美しいフォルムを描く。

「なら、お言葉に甘えて」

先ほど上司にも「今日は金曜なんだから直帰しなね」と言われていたのだ。

「業務次第ではそうさせていただきます」と答えたが、今日はケーキと共に帰宅してしまおうと思う。

残っている仕事は、今夜から週末にかけてやればいい。

昌文と別れた今、金曜の夜も、週末も、凛子にはなんの予定もないのだ。

「木野瀬さん。僕、大至急でカバン持ってきますので、おかけになってお待ち下さい」

秋坂は嬉しそうに、オフィスのロビーにある革張りのソファを指差した。




「いいものが買えました。木野瀬さん、ありがとうございます」

2人はケーキの箱が入った袋を大事に持って、パティスリーを出る。

秋坂は、迷いに迷った挙げ句、5つもケーキを買っていた。

「2人で食べるには多すぎたかな。僕、どうしても弟には奮発したくなるんです」

秋坂は気分が上がっている様子で、饒舌だ。

「弟なんですけど、僕のなかで息子みたいな存在なんですよ。

8歳も離れているのもあるし、なにより僕たちは母一人に育てられた家だから。

もはや父親代わりで、面倒をみてしまうんです」

とんでもなく優しい表情になって言ったあと、我に返って苦笑いをする。

「ごめんなさい、こんな話興味ないですよね。

今日は、ありがとうございました」

丁寧にお辞儀をし合って別れると、凛子はタクシーに乗り込み、南青山の自宅へと向かう。

凛子が抱えている箱の中には、メロンショートケーキとウィークエンドシトロン、それに缶入りのクッキーが入っている。

そんなつもりはなかったのに、秋坂は「来てくれたお礼です」と凛子の分のお会計まで持ってくれた。

― おごってもらえるとは知らず、こんなにたくさん…ちょっと恥ずかしいわ…。

箱からは、心なしか甘い香りが漂ってくる。

― 今日は、秋坂さんとぐっと仲良くなれた感じがする。

普段は会議室か接待の場でしか会わないので、パティスリーのショーケースを2人で覗いてるときは、なにか悪いことをしているような気分だった。

― たくさん話せてよかった。これでもっと仕事がスムーズにいくかもしれない。



帰宅してケーキを冷蔵庫に入れると、凛子はソファに体を横たえた。

「なんか、疲れたなあ」

1週間の疲労が蓄積した体に、涼しい風が当たる。

うすく開いた窓のレース地のカーテンが揺れるたびに、まだ明るい空がのぞいた。

思わずうとうとしてきたとき、凛子のスマホが震える。

薄目を開けてチェックすると、昌文からの連絡だった。


『昌文:今なにしてる?会えないかな』

凛子は寝たままの体制で文字を打つ。

『凛子:寝ています。会えません』

昌文は食らいつくようにLINEを何通も送ってくる。

『昌文:悪かったと思ってるよ。僕は凛子に本気だよ』

『昌文:その本気を証明させて。凛子の好きな場所に旅行に行こう。それから何でも買ってあげる』

『昌文:だから、やり直さないか』

『昌文:寂しいよ、俺は』

昌文のメッセージに目を通すと、凛子はスマホをサイレントモードに変え、サイドテーブルに伏せて置いた。

― もう用はない。

けれども、昌文と別れてから凛子は、自分が孤独であることに気づいてしまった。

もともと学生時代から友人が少ない凛子だ。プライベートで頻繁に会うような相手は、いないに等しい。

だから少しだけ気持ちが苦しい。

窓から、少女たちの笑い声が聞こえてくる。

となりの部屋には、小学生の姉妹がいる家族が住んでいるのだ。

凛子は、小さくため息をついた。

「私の人生、このままだと本格的にひとりぼっちだな…。ほんとはちょっとさみしいな」




うたた寝から目を覚ますと、22時近くになっていた。

「ふあ…結構寝てしまった」

凛子は体を起こす。窓から吹き込む風はだいぶ冷たくなっている。

あわてて窓を閉め、カーディガンを羽織った。

そして、ふと思い出す。

― 冷蔵庫に!ケーキがあるんだった!

そうなれば足取りは軽い。

立ち上がりキッチンへ向かうと、お湯を沸かして熱い紅茶を作った。

そして、プレゼントを開ける子どものような気持ちでケーキの箱を開け、両手でそっと包むようにして取り出す。

「いただきます」

背筋を正してイスに座り、金色のフォークを手にとった。




フォークを入れるのも惜しいくらいの、完成されたフォルム。

生クリームがしっかり分厚く、断面を見るだけでワクワクが止まらない。

「これこれ」

ようこそ、と思いながら口に入れると、しっとり心地いい舌触りが凛子を幸福で包み込む。

優しい甘みの奥に広がる味わい深さ。いつ食べても感動してしまう出来栄えだ。

「んんんん」

しばし沈黙。紅茶を一口飲むと、凛子はひとり笑顔になった。

― 幸せ。

凛子はふと、秋坂を思う。

秋坂も、メロンショートケーキを2つ買っていた。

きっと今頃、弟と食べているだろう。

離れた場所で、同じ物を、同じ夜に食べているというのは、何やら特別な感じがする。

ちょっと気恥ずかしいけれど、どこか心強いような。

先ほど感じた漠然とした孤独が、遠くに吹き飛んでいった。

「秋坂さんと、得意先同士じゃなく普通に出会ってたら、どんなだったかな」

今日の秋坂との“買い出し”がとても楽しかったからか、凛子は柄にもない妄想にふける。

― 私たち、本当はもっと仲良くなれたりして。

そう思った途端、インターホンからチャイム音が鳴った。

― え、こんな夜になんだろう。

凛子は半分まで堪能したケーキを見つめながら、そっと腰をあげる。

「え…もしかして」

頭によぎったのは、昌文のことだ。

「昌文だったら、どうしよう。無視しよう」

凛子は恐るおそる、インターホンを確認する。

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凛子を訪問した人物とは…?