お受験に必須の“あの能力”をトレーニング。息子を訓練する母が直面した、思わぬトラブル
「私、小学校から大学までずっと同じ学校なの」
周囲からうらやまれることの多い、名門一貫校出身者。
彼らは、大人になり子どもを持つと、必ずこんな声をかけられる。
「お子さんも、同じ学校に入れるんでしょう?」「合格間違いなしでいいね」
しかし今、小学校受験は様変わりしている。縁故も、古いしきたりも、もう通用しない。
これは、令和のお受験に挑む二世受験生親子の物語。
親の七光りは、吉か凶か―?
名門一貫校出身の果奈は、息子の翼を小学校から同じ学校に入れたいと考えている。翼の成長は目まぐるしく、お受験への期待が高まる。ママ友・彩香とのすれ違いを解消できて、順調に事が運び出した。そんなある日、果奈はお受験教室の先生から「話がある」と呼び出され…。
▶前回:名門校卒だと知られた途端、教室のママ友たちの「見る目」が変わり…。“二世受験”の苦悩
Vol.9 疑惑のクマ歩き
果奈は、幼児教室の先生に呼ばれたので、応接室に入る。
「先生、今日もありがとうございました。お話とは一体…?」
軽い気持ちで聞くと、先生は笑顔になる。
「翼さん、大変頑張っていますね。落ち着きも見られるようになりましたし、ペーパーの対策も順調です」
そうなんです、と思わず答えそうになってしまうが、軽く微笑んで目礼する。
「今日お呼びしたのは、翼さんの運動考査対策についてです」
― 運動?保育園で毎日走り回っているはずだから、運動不足はないと思うけど。
「お母様、クマ歩き、練習されていますか?」
“クマ歩き”とは、高這いのことだ。
四つん這いでお尻を高く上げ、膝をつけずに歩くことを意味する。
毎年必ずと言って良いほど試験に出す学校もあり、お受験対策では必須の項目だ。
「お教室に入ったばかりで、クマ歩きをやったことがない子もたくさんいます。
ですが年少からお教室にいらっしゃる翼さんは、そろそろできたほうが良いかなと思い、お話させていただきました」
「そうですか。家でも練習させるようにします」
― プリント学習に加えて、クマ歩きの練習もしないと!
幼児教室を後にした果奈は、タクシーを呼ぼうとスマホを取り出したが、思い直してLINEアプリを開く。
『果奈:彩香さん、アンちゃんって、クマ歩き対策やってる?良かったら一緒に練習しない?』
― アンちゃんと一緒なら、翼も楽しくクマ歩きの練習できるよね。
果奈は軽い気持ちでメッセージを送信し、翼を促して歩き出した。
「ねえ、翼、ちょっとかけっこしてみようか?」
車の通りが少ない道で、果奈が提案すると、翼は面倒くさそうに答える。
「走りたいなら、ママが走れば?ぼく、タクシーが良かった」
― まずい、これはまずすぎるわ。クマ歩きの練習は予想以上に難航しそうね。
ほどなくして彩香からLINEの返信が届く。それを見た果奈は、さらに愕然とした。
『彩香:アンのクマ歩きは特に問題ないと思うよ。もしよかったら、うちで話さない?』
つい先ほどわだかまりが解けたばかりの彩香が、いきなり自宅に誘ってくれる。
果奈は、彩香との関係が再びもとに戻ったことに喜びを感じつつ、彩香の住む六本木に向かった。
「果奈さん、翼くん、いらっしゃい!全然片付いていないけど、入って!」
六本木のタワマンの2階に住む彩香たち。
夫のウィリアムは、外出中のようだ。
100平米は超えるであろう豪華な作りの3LDKに足を踏み入れると、果奈は思わずため息をもらした。
「なんて素敵なおうちなの!」
翼は、アンに連れられて、子ども部屋に走って行ってしまった。
「ありがとう、でも、2階だから、景色は微妙なの」
彩香が笑いながら果奈をソファに案内する。
― 確かに。彩香さんたち夫婦なら、高層階も余裕で住めそうなのに。
「あ、今なんで低層階?って思った?」
彩香がアイランドキッチンでお茶を入れながら言う。
「子育てにはね、低層階が向いているらしいの。高層階だと、外に出るのがおっくうになって、運動不足にもなりやすいって聞いたことがあって」
彩香たちの住む2階は、雨の日などは土のにおいまで感じられるのだという。
「すごい!そこまで考えて住まい選びをするなんて、さすが彩香さんね」
翼を妊娠する少し前に、資産価値が下がらなそうだから、という理由で買った8階の自宅マンションを思い出し、果奈は苦笑いする。
「低層階に住んでいるからといって合格するかどうかなんて、わからないけどね。
で、クマ歩きだっけ?ちょっとやらせてみようか」
彩香がマグカップを果奈に渡すと、向かいのソファに腰かけた。
「アン、翼くん!おやつあるからクマ歩きでおいでー!」
彩香が大きな声で叫ぶと、まず初めにアンが現れた。
手足をうまく使って、滑らかな動きでクマ歩きをしている。
翼は、2、3歩よたよたと歩くと、膝をついてしまい、結局歩いて果奈たちのもとへやってきた。
「アンちゃん、クマ歩きすごく上手だね!」
果奈が驚いていると、彩香が子どもたちにビスケットを渡しながら言った。
「幼稚園でマット運動や跳び箱、いろいろな運動をするから、クマ歩きもすぐにできるようになったみたい」
幼稚園、と聞くと、果奈はまだ複雑な感情が湧き上がるが、それを押し殺して聞いた。
「じゃあ、クマ歩き対策は、何もしていないの?」
「練習になるかなと思って、親子で床の雑巾がけをしてるよ」
― 幼稚園の体育に、床の雑巾がけか。
果奈が仕事をしている限り、体育を教えてくれる幼稚園に、翼は通うことができない。
できることと言えば雑巾がけぐらいのものだが、正直言って面倒くさい。
「帰ったら、早速やってみる」
彩香にお礼を言うと、果奈と翼はタクシーで帰宅した。
「ただいまー」
翼が大きな声で声をかける相手は、床の水拭きロボットだ。ちょうど充電ステーションに戻るところだった。
毎日お掃除ロボットの後に稼働するよう、アプリで設定しているのだ。
― これがないと、生きていけないわ。でも…。
「翼、明日から雑巾がけ、一緒にやろうか?」
「ぞうきん?保育園にあるけど、おうちにはないよね」
翼に指摘されて初めて、果奈は自分の家に雑巾がないことに気がついたのだった…。
◆
「さあ、翼、パパ、やるわよ!」
次の日、果奈は雑巾を片手に、張り切って光弘と翼に声をかけた。
雑巾は、電動自転車を飛ばして百均に買いに行った。
本来なら、いらないタオルで手作りするべきなのだろうが、果奈の家にはミシンがない上に、カシウェアのタオルを雑巾にする勇気もない。
「ママが子どもの頃はね、みんなこうやってお掃除していたのよ!」
厳密に言うとそれはうそだ。
果奈の実家では電動モップを使っていたし、啓祥学園では、生徒は教室掃除をしない。
「ほら、こうやって手で雑巾を押して、走るの。よーい、どん!」
苦笑いする光弘を尻目に、果奈は勢いよくスタートを切る。
そう広くないリビングなのに、何往復か雑巾がけをしただけで、体が汗ばんでくる。
大人がこんなにつらいのだから、幼児がクマ歩きをする、というのは思ったよりも難しいことなのかもしれない。
そんなことを考えながら、果奈は四つん這いになったまま、翼に声をかけようと体をねじった。
「翼、置いていっちゃうぞ…ああっ!」
脳天まで貫かれるような腰の痛み。
1ミリでも体を動かすと、腰に刀を刺されているかのような激しい痛みに襲われる。果奈は四つん這いのまま、わなわなと震えた。
◆
「はい、ぎっくり腰で…。大変申し訳ありませんが、しばらくの間、在宅勤務にさせていただきます」
果奈は同僚に平謝りしながら、電話で在宅勤務の調整をしていた。
病院での診断の結果、果奈はぎっくり腰だった。
光弘がすぐに救急病院に連れて行ってくれたおかげで、痛み止めの注射を打てた。おかげで痛みは少し和らいでいる。
しかし、安静を指示された今、丸の内までの通勤はできない。
「はい、はい…。それで、毎日痛み止めの注射を打ちにいかないといけないので、当分の間は16時で業務終了にさせていただきたく…」
仕事をセーブするという彩香にもやもやしたのに、まさか自分が仕事をセーブする羽目になるとはと、果奈は打ちひしがれる。
翌日。
果奈は母の手伝いにさえ申し訳なさを感じていたのに、義母まで山形から飛んできてくれることになった。
光弘も、仕事を調整して、果奈の病院の送り迎えを買って出てくれた。
― はあ、情けない。
周りの大人すべての助けを借りて、果奈は申し訳なさでいっぱいになった。
「ばあば、今日は早く迎えに来て!」
意気消沈の果奈に対して、翼は活き活きとしている。
保育園で1番最初にお迎えに来てもらえる上に、果奈が家にいるのがうれしいのだという。
「やっぱり、私は仕事をやめて、家にいるべきなんだろうか…」
誰にともなくつぶやくと、泊まり込みで手伝いに来てくれている義母が返事をしてくれる。
「果奈さん、そんなこと考えないで、早く治しちゃいなさい」
― 仕事をセーブした彩香さんの選択は、やっぱり正しかったんだ。
そんなことを悶々と考えながら、通院のために光弘の車に乗り込む。
「果奈、俺、いいこと思いついたよ。果奈が仕事もやめないで、家にいられる方法」
「えっ、なに?」
腰の痛みをつかの間忘れ、思わず運転席の光弘の方に身を寄せる。
「このタイミングでさ、2人目作ろうよ。果奈の会社は産休も育休も長くとれるでしょ。そうしたら堂々と休めるじゃん」
ぎっくり腰が治ったら考えて、と光弘が言いながら手を握ろうとする。
「いやー!」
果奈は大きな声で叫ぶと、光弘の手を押し戻した。
▶前回:名門校卒だと知られた途端、教室のママ友たちの「見る目」が変わり…。“二世受験”の苦悩
▶1話目はこちら:「この子を、同じ学校に入れたい…」名門校を卒業したワーママの苦悩
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2人目を作る!光弘の提案に、果奈は…